ジュリアン・セラフィーニ。スイス人。二十九歳。
「試合を描く」と言われる選手だった。
スピンの技術と緩急の巧みさで相手を崩す、静かな芸術家。勝利よりも美しいテニスに価値を置くとよく言われた。だが、それはつまり、美しいテニスで勝つことを、彼は信じていたということだ。
試合は、アーサー・アッシュ・スタジアムで行われた。
夕方に近い時間。空が少しだけオレンジに滲み始めていた。
セラフィーニは、コートに立ちながら、静かに対戦相手を見た。
九条雅臣。
その目には、感情がなかった。
怒りも、緊張も、喜びも、高揚感もない。
ただ、静かに前を向いている。
セラフィーニは、その静けさの中に、何かを感じた。
第一セット。
セラフィーニは持ち前の緩急で試合を組み立てようとした。ショートクロスで引き出して、逆を突く。スピンをかけて深く押し込み、前に出る隙を作る。
だが九条は、読んでいた。
すべてのパターンを、一手前から読んでいた。
セラフィーニが描こうとした絵は、完成する前に崩された。
6−4。
第二セット。
セラフィーニは変えた。もっと深く、もっと丁寧に組み立てた。七ゲーム目でブレークに成功し、タイブレークへ持ち込んだ。
スタジアムが静かに沸いた。
だがタイブレークに入ると、九条は切り替えた。
セラフィーニには分かった。
この人は、ここからが本番だ。
七対四。
タイブレークを制した九条が、静かにタオルを取りに行く。
第三セット。
セラフィーニは最後まで美しく戦った。
だが九条は、もう別の場所にいた。
6−2。
試合終了。
ネット前で握手を交わす瞬間、セラフィーニは九条の目を見た。
そして、静かに言った。
「君のテニスには、神が宿っている。完璧すぎて、触れられなかった」
九条は、無言だった。
だがわずかに、頷いた。
そして静かに、頭を下げた。
その言葉は、ロッカールームに戻ってからも、ずっと九条の中にあった。
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