八月末。ニューヨーク。
フラッシング・メドウズの空は白く霞んでいた。
湿気と熱気が、コートから立ち上っている。芝とは違う。クレーとも違う。ハードコートの照り返しは、容赦がない。
九条雅臣は、その熱の中で、静かに立っていた。
全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン。
三つのグランドスラムを、九条は制した。
だから今、世界は一つの問いを持っていた。
――全米でも、勝てるのか。
年間グランドスラム。テニスの歴史において、わずかな者しか成し遂げていない偉業。
その名前が、空気に溶けるように広まっていた。
一回戦
相手は若いアメリカ人。地元の観客が大きな声援を送る。
九条はそれを、遠い音として処理した。
サーブを打つ。リターンを読む。ネットへ詰める。
すべてが、粛々と進む。
6−1、6−2、6−0。
試合後、相手選手がネット越しに手を差し出した。九条は握手した。それだけだった。
二回戦
スペイン人。ベースラインから粘り強く打ち続けるタイプ。
第一セットのみ、タイブレークにもつれた。
七対五でタイブレークを制すると、あとは九条のペースだった。
6−7、6−1、6−2。
第一セット後、解説席では「今日の九条は少し重い」という声が上がった。
だが九条自身は、何も感じていなかった。
ただ、次のボールを打つことだけを考えていた。
三回戦
フランス人。二十二歳。ハードコートの若い才能。
前半は激しい打ち合いだった。
だが第二セット中盤から、何かが変わった。
試合後、フランス人選手はインタビューでこう言った。
「第二セットの途中から、彼の目が変わった。あの目を見た瞬間、私は何かを諦めた。何を諦めたのか、自分でもよく分からないけれど」
6−3、6−1。
三回戦が終わったあと、会場の外では報道陣が詰め寄った。
「今の調子は?」「年間グランドスラムを意識しているか?」「プレッシャーは?」
九条は一瞬だけ立ち止まり、静かに答えた。
「次の試合のことだけ、考えています」
それ以上は何も言わなかった。
彼の背中が、ロッカールームの扉の向こうに消えた。
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