マティアス・ヴォルフ。ドイツ人。二十八歳。
「退屈な選手」とよく言われた。
だがそれは、彼を知らない人間の言葉だ。九条雅臣は、そう思っていた。
試合は、想定通り、長くなった。
ヴォルフはベースラインから大きく下がり、どんなボールでも返し続けた。ベースラインより三メートル後ろ。長身から放たれる198センチのリーチで、どこへ打っても追いついた。
ラリーが十球を超える。二十球を超える。
観客がざわつき始めた。
「これはテニスか?」という声が、どこかから聞こえた。
だがヴォルフは揺れない。九条も揺れない。
ただ、ボールを打ち続けた。
第一セット、6−4。九条が先取した。
だが第二セット、ヴォルフが変えた。
後方から守るだけではなく、突然のドロップショットで前に出た。崩れた体勢から放ったリターンが、線上に落ちる。サーブは190キロを超えた。
「計算型」とも呼ばれる選手だった。
苦しい場面ほど、最適解を見つける。
3−6。九条が第二セットを失った。
第三セット。
ヴォルフがベンチでタオルを手に取りながら、静かに笑った。
「君は短く終わらせたいだろう。残念、僕は長いのが得意なんだ」
その言葉は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
だが九条は聞いていなかった。
彼はすでに、次のサービスゲームのことを考えていた。
6−3。
第四セット。
ヴォルフは最後まで粘った。ドロップで崩し、フラットで押し込み、ゲームカウントを五分まで引き戻した。
だが九条には、ブレークポイントで変わる何かがあった。
大事な局面で、静かさが深くなる。
プレッシャーが、彼にとって燃料になっているかのようだった。
6−4。
試合後のインタビューで、ヴォルフは笑って答えた。
「彼は冷静だと言われる。僕も冷静だと思っていた。でも今日は、彼の方が静かだった。その差だよ」
記者が「ベストゲームだったか?」と聞くと、ヴォルフは少し考えてから言った。
「負けた試合をベストゲームとは言わない。だが、全力を出したことは確かだ」
準決勝まで、あと一試合。
九条はロッカールームで、一人で座っていた。
右手を、静かに握り締める。
次の相手の名前が、頭の中で静かに浮かんだ。
――ライアン・グリフィス。
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