オークウッドの朝
カーテンを開けると、海が広がっていた。
横浜港の水面が、朝の光をさわさわと返している。遠くにベイブリッジのシルエット。コンテナ船がゆっくりと動いている。
澪はそれを、特別な感情もなく眺めた。
良い部屋だと思う。海側で、高層で、夜は港の灯りが水に溶ける。仕事の資料を広げるにも、オンラインミーティングをこなすにも、支障はない。
ただ、自分の家ではない。
それは別に、不満ではない。ただの事実だった。
契約者は九条雅臣。澪はそこに、住まわせてもらっている。サービスアパートメントだから、清掃も週に一度入る。タオルは補充される。備品は揃っている。快適なのに、どこかホテルの匂いがする。
だから澪は、少しずつ自分のものを持ち込んでいた。
上書き
洗面台の脇に、自分で選んだハンドクリームを置いた。
キッチンには、いつも使っているルイボスティーのティーバッグと、豆から挽くコーヒーのための小さなグラインダー。
リビングには、アロマディフューザー。ゼラニウムとシダーウッドを混ぜた、自分だけの配合。
九条の気配はほとんどない。もともとほぼ使っていない部屋で、スーツケースひとつで来てはまた出ていく人の痕跡は薄い。それがかえって澪には、遠慮なく自分の匂いを持ち込める理由になっていた。
(自分のペースで使えばいい)
そう決めてから、少し楽になった。
営業の仕事
午前中は資料整理と見積もりの作成。午後にオンラインで取引先との打ち合わせが二件。
澪はダイニングテーブルをデスク代わりにして、ノートPCとタブレットを並べ、モニターアームで画面を増やしていた。持ち込んだ備品で、完全に自分の仕事環境が出来上がっている。
窓の外では、港が動き続けていた。
オンラインミーティングの間、背景はぼかしにしている。本当は海が見えるのに、と思うことがある。でも、プライベートな場所から繋いでいることを悟られたくなかった。
「綾瀬さん、先日の件ですが——」
「はい、グダニスク側の回答が来まして。仕様変更の件は対応可能とのことでした。詳細は後ほどメールで共有します」
淡々と、手元のメモを確認しながら答える。
仕事は仕事だ。九条が何回戦にいようと、ここでやるべきことがある。
夜の海
打ち合わせが終わると、もう夕方になっていた。
澪はPCを閉じ、キッチンに立った。冷蔵庫を開けると、昨日スーパーで買ってきた食材が並んでいる。豆腐、小松菜、鶏むね肉。シンプルな夕食のための材料。
フライパンに油を引き、鶏肉を焼く。
音だけが部屋に広がった。油のはぜる音、換気扇の低い唸り。
一人分の食事を作るのは、別に苦ではない。もともとそうやって生きてきた。
バスルームの在庫
食事の片付けを終えてから、バスルームに向かった。
シャワーを浴びながら、棚に並んだボトルを眺める。
サボン、ロクシタン、イソップ。ボディウォッシュ、バスソルト、シャワーオイル。開封済みのものと、まだラップも剥がしていないものが、整然と並んでいた。
二月、九条のペントハウスにいた頃のことだ。
ある日気づいたら、バスルームの棚がいっぱいになっていた。澪が持ち込んだ荷物ではない。九条が、いつの間にか揃えていた。
「俺は使わない。邪魔なら捨てていい」
それだけ言って、あとは何も言わなかった。
澪は捨てなかった。少しずつ使っている。
九条が香りの強いものを好まないのは、一緒にいた時間でなんとなく分かっていた。無香料のシャンプー、無香料のボディソープ。嗅覚は余分な刺激を入れたくないのか、それとも単純に好みなのか、理由までは知らないけれど。
なのに、棚に並んでいたのはぜんぶ、香りのあるものだった。
サボンのバスソルトはローズとアロエ。ロクシタンのシャワークリームはシア。イソップのボディバームはゼラニウムとレモン。端から端まで、ブランドも種類もバラバラに、でも一本ずつ丁寧に選ばれた形跡があった。
(自分では絶対に使わないくせに)
確認するまでもなかった。一本ずつ、何を喜ぶか分からないまま、とりあえず全部試してみようとした人の買い方だ。不器用というより、不慣れ、という感じの。
今日はサボンのバスソルトを使った。お湯が白く濁って、ほんのりローズの香りが立つ。
良い匂いだった。
食事を済ませてから、ルイボスティーを淹れた。ティーバッグをマグカップに入れ、沸かしたばかりのお湯を注ぐ。ゆっくりと赤く色づいていくのを眺めながら、ソファに移動する。
ディフューザーの香りが、静かに部屋に満ちている。
窓の外では、夜の横浜港が光っていた。
船の灯りが水面に伸び、遠くのビルがそれを囲む。昼とはまったく違う顔をした海が、暗くなるほど近くなる気がした。
(見てる、かな)
思ったことに、自分で少し驚いた。
連絡はしない。そう決まっている。こちらから破る気もない。
ただ、今頃どこにいるのかは、なんとなく分かる。マドリード。試合があるから。それだけ知っていれば十分だった。
マグカップを両手で包む。温かい。
澪はそのまま、夜の海をぼんやりと見ていた。
急かされているわけじゃない。待たされているわけでもない。
ただ、それぞれの場所で、それぞれの時間が流れている。
それで良かった。
コメント