「九条はロボットだ」
試合の三日前、ライアン・グリフィスはSNSにそう書いた。
百万件を超えるいいねがついた。
ライアン・グリフィス。アメリカ人。二十六歳。
「現代のマッケンロー」と呼ばれる選手だった。
試合をスポーツとして捉えず、エンターテインメントとして捉える。負けず嫌いだが、戦績よりもバズりを優先する。ATPツアー屈指の罰金王で、常に話題の中心にいた。
そして今日は、全米オープンの準決勝。
会場は、アーサー・アッシュ・スタジアム。
収容人数二万三千人。
その全員が、グリフィスの味方だった。
「グリフィス!」
コールアナウンスが流れると、スタジアムが揺れた。
グリフィスは両手を広げ、観客に向かって笑いかけた。
「声が小さい! もっとくれ!」
さらに大きな歓声。
次いで、九条の名前がアナウンスされた。
拍手はあった。だが、明らかに少なかった。
九条は、それを気にしなかった。
彼にとって、観客席の音は、風の一部だった。
試合開始。
グリフィスのプレーは速く、派手だった。攻撃的なベースライナー。先に主導権を握り、観客を沸かせる展開を好む。ミスをしてもガッツポーズをし、相手にウィナーを打たれたときでさえ「いいショットだ」と叫んで観客の笑いを取る。
だが九条には、それが届かなかった。
九条は感情に反応しない。
怒りも笑いも、彼のペースを変えなかった。
6−3。第一セットを九条が取った。
第二セット、グリフィスが変えた。
観客をさらに煽り、己のサーブゲームで会場全体を乗せた。グリフィスの試合は、会場一体となった瞬間に加速する。その圧力が、相手のミスを引き出す。
「お前らの声が俺のバッテリーだ!」
チェンジオーバーでグリフィスが叫ぶと、観客が爆発した。
だが、九条は変わらなかった。
チェンジオーバーでタオルを受け取り、静かに水を飲み、次のゲームのことだけを考えた。
スタジアムの熱は彼の周囲で燃えていたが、九条の内側には届かなかった。
6−7。グリフィスがタイブレークで第二セットを取った。
第三セット。
グリフィスは煽り続けた。サーブを打つ前に観客を待たせて笑わせる。ミスのあとに大げさなリアクションをして笑いを取る。
だが徐々に、会場の空気が変わってきた。
九条は、ただプレーをしていた。
何も言わない。何も見せない。
喜ばない。苦しまない。揺れない。
グリフィスのエンターテインメントに対して、九条は「返答しない」という応答をし続けた。
それが、一番効いていた。
会場は依然グリフィスを応援していた。
だがその応援の中に、少しずつ、静けさが混じってきた。
――どちらが本物か。
その問いが、スタジアム全体に広がっていた。
6−4。九条が第三セットを取り返した。
第四セット。
グリフィスは最後まで本物だった。
演技ではなく、本気で勝ちたかった。自分の庭で、全米の観衆の前で、世界最強と呼ばれる男に勝ちたかった。
だが九条は、もう別の場所にいた。
6−2。
試合終了。
グリフィスはネット前に来て、静かに手を差し出した。
さっきまでの挑発はなかった。
「いい試合だったよ」とグリフィスは言った。
九条は、握手した。そして静かに言った。
「あなたは、いい選手だ」
それが九条の、精一杯の言葉だった。
会場を出るとき、グリフィスはカメラに向かって笑った。
「ロボットって書いたけど、訂正する。あいつは人間だ。ただ――俺たちとは、違う種類の」
その投稿には、三百万件のいいねがついた。
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