前日の記事は、夜のうちに各SNSと匿名掲示板で拡散されていた。
誰かが名前を伏せて投稿したキャプチャ画像。「この人、〇〇の会社の澪ちゃんじゃない?」「知ってるかも」「マンション、あのあたり?」
朝、ドアを開けた瞬間、空気の違和感に気づいた。
マンションのエントランスを出たとき、向こうの駐車場から、誰かが駆け寄ってきた。
「綾瀬澪さんですよね?!」
反射的に立ち止まったその瞬間、マイクが顔の前に突き出された。
「プロテニス選手の九条雅臣さんと、温泉旅館でご一緒だった件について——」
「やめてください……っ」
咄嗟に身体を引いて走った。ヒールが鳴る音がやけに響く。誰かが「撮れた?」と叫ぶ声が聞こえた気がした。
本来、今日は飛行機に乗るはずだった。
カンヌ・ヨッティング・フェスティバル。明日から開幕する、年間最大の商談の場。三ヶ月前から準備してきたスケジュール。
代わりに、澪は駅のホームで息を整えながら、スマホを開いていた。
名前で検索すると、関連ワードに「住所」「顔写真」などが並ぶ。知らない人たちが、勝手に澪の生活を覗き込もうとしている。
この時点では、まだ好奇心ベースだった。「美人」「誰?」「九条に相応しい」そういう声も混じっていた。でも澪にはその温度が、すでに怖かった。
会社に行っても、誰もなにも言わない。でも視線が刺さる。「お疲れ様です」の声の温度が、前日より下がっていた。
上司は表情を変えずに資料を渡しただけだった。それが逆に、何よりの「判断」だった。
Apple Watchは、心拍とストレスのアラートを連続で出し続けていた。澪はもう確認すらしなくなっていた。
夕方、カンヌで会う予定だったクライアントからメールが届いた。
「明日、マリーナで待っています。楽しみにしています」
返信できなかった。
スーツケースは、玄関にそのままだった。
それが、二日目だった。
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