スーツケースは、玄関の横に置いたままだった。
昨日の夜、ようやく荷造りを終えた。明日の便でカンヌに飛ぶ。今年で三回目になるヨッティング・フェスティバル。準備に抜かりはなかった。
だから今朝だけは、テレビをつけていた。
画面に映るのは、全米オープンの表彰式。
ニューヨーク、アーサー・アッシュ・スタジアム。金色の紙吹雪が舞う中、九条雅臣が、インタビューに答えていた。
めったに見られない顔をしていた。
英語のインタビューの最後、記者が問いかけた。
“Four Slams. One season. Anyone you want to thank tonight?”
九条は少しだけ間を置いて、落ち着いた口調で答えた。
“Yes. Someone I won’t name. But she stayed out of the spotlight—and still gave me strength. I owe this title to her silence.”
通訳の声を待たず、すべてが伝わっていた。
「……わたし、必要とされてたんだ」
ひとつ、深く息を吐く。
遠距離の寂しさも、迷惑をかけたくなくて黙っていたすべても、たった一言で報われた気がした。
カンヌから戻ったら、お祝いのメッセージを送ろう。そう思っていた。
午後から出勤した。
休憩スペースでコーヒーを淹れていたとき、同僚の女性にスマホの画面を向けられた。
「ねえ、これ、あなただよね?」
見せられたのは、週刊誌のネット記事だった。見出しには「密会」「恋人か」という言葉が並び、添えられた写真の中に——
旅館の玄関口で立つ九条の横に、澪の後ろ姿が、はっきりと写っていた。
服装も、髪型も、持っていたバッグも。全部、澪のものだった。
「え……」
声が出なかった。
その場を離れて、洗面所に逃げ込んだ。
スマホを取り出して、画面を開く。掲載時刻は午後12時12分。
つまり、午前中は誰も知らなかった。
澪が九条の優勝を「誰にも知られず」祝えていたのは、たった数時間だけの奇跡だった。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう)
震える手。早まる呼吸。
(私のせいだ)
あの旅館を選んだのは、澪だった。彼に桜を見せたくて。静かな時間を贈りたくて。役に立ちたかったから。
でもそれが、彼のキャリアを、ほんの少しでも傷つけたなら。
夜、家に帰って、玄関のスーツケースを見た。
明日、カンヌへ飛ぶはずだった。
その言葉が、頭の中で静かに繰り返された。
スーツケースは動かせなかった。片付ける気力も、出発する気力も、どちらもなかった。
それが、澪の一日目だった。
コメント