0180|澪の五日間 一日目

スーツケースは、玄関の横に置いたままだった。

昨日の夜、ようやく荷造りを終えた。明日の便でカンヌに飛ぶ。今年で三回目になるヨッティング・フェスティバル。準備に抜かりはなかった。

だから今朝だけは、テレビをつけていた。

画面に映るのは、全米オープンの表彰式。

ニューヨーク、アーサー・アッシュ・スタジアム。金色の紙吹雪が舞う中、九条雅臣が、インタビューに答えていた。

めったに見られない顔をしていた。

英語のインタビューの最後、記者が問いかけた。

“Four Slams. One season. Anyone you want to thank tonight?”

九条は少しだけ間を置いて、落ち着いた口調で答えた。

“Yes. Someone I won’t name. But she stayed out of the spotlight—and still gave me strength. I owe this title to her silence.”

通訳の声を待たず、すべてが伝わっていた。

「……わたし、必要とされてたんだ」

ひとつ、深く息を吐く。

遠距離の寂しさも、迷惑をかけたくなくて黙っていたすべても、たった一言で報われた気がした。

カンヌから戻ったら、お祝いのメッセージを送ろう。そう思っていた。

午後から出勤した。

休憩スペースでコーヒーを淹れていたとき、同僚の女性にスマホの画面を向けられた。

「ねえ、これ、あなただよね?」

見せられたのは、週刊誌のネット記事だった。見出しには「密会」「恋人か」という言葉が並び、添えられた写真の中に——

旅館の玄関口で立つ九条の横に、澪の後ろ姿が、はっきりと写っていた。

服装も、髪型も、持っていたバッグも。全部、澪のものだった。

「え……」

声が出なかった。

その場を離れて、洗面所に逃げ込んだ。

スマホを取り出して、画面を開く。掲載時刻は午後12時12分。

つまり、午前中は誰も知らなかった。

澪が九条の優勝を「誰にも知られず」祝えていたのは、たった数時間だけの奇跡だった。

(どうしよう、どうしよう、どうしよう)

震える手。早まる呼吸。

(私のせいだ)

あの旅館を選んだのは、澪だった。彼に桜を見せたくて。静かな時間を贈りたくて。役に立ちたかったから。

でもそれが、彼のキャリアを、ほんの少しでも傷つけたなら。

夜、家に帰って、玄関のスーツケースを見た。

明日、カンヌへ飛ぶはずだった。

その言葉が、頭の中で静かに繰り返された。

スーツケースは動かせなかった。片付ける気力も、出発する気力も、どちらもなかった。

それが、澪の一日目だった。

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URB製作室

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