モンテカルロ。春の光の中で、あの日も笑っていた。
完膚なきまでに叩き潰されながら、マルコ・アラーノは笑っていた。
その笑顔が、九条の記憶に残っていた。
全米オープン、男子シングルス決勝。
九月七日。
アーサー・アッシュ・スタジアムの午後。ニューヨークの空は、夏の終わりを告げるように、高く澄んでいた。
マルコ・アラーノ。スペイン人。二十二歳。
「太陽の王子」と呼ばれた選手が、コートに入ってきた。
観客が沸いた。彼のカリスマが、スタジアムの空気を変えた。
だがマルコが最初に見たのは、観客席ではなかった。
コートの向こう側に立つ、九条雅臣を見た。
そして、笑った。
「また会ったね」という笑顔だった。
第一セット。
マルコが先制した。
強烈なトップスピンフォアで九条を後方に押し込み、ドロップからロブへの二段攻撃で翻弄する。爆発的な瞬発力で、広いコートカバー範囲を誇る。
サービスゲームも安定していた。サーブ改善を重ねてきた成果が出ていた。
七−五。
マルコが第一セットを取った。
スタジアムが爆発した。
だが九条は、動じなかった。
チェンジオーバーでタオルを受け取り、静かに水を飲んだ。
その姿は、第一セットを落としたとは思えないほど、静かだった。
――モンテカルロでも、第一セットを落とした。
そのときのことを、九条は覚えていた。
何かが変わる感覚。スイッチが入る感覚。
それは今日も、静かにやってきた。
第二セット。
九条のプレーが変わった。
サーブのコースが多様になった。リターンの予測精度が上がった。ネットへの詰めが早くなった。
マルコは感じた。
――ああ、また来た。
モンテカルロで見た、あの九条が来た。
だからマルコは笑った。
怖くはなかった。
この感覚のために、テニスをしていると思えた。
6−3。九条が取り返した。
第三セット。
マルコは全力を出した。
大胆なドロップ。意表を突くサーブ&ボレー。フォアのヘビートップで押し込み、ロブで抜く。リスクを恐れず、ショットのひとつひとつを、楽しむように選んだ。
「楽しむことが勝利につながる」という彼の信念は、本物だった。
だが九条には、それが届かなかった。
どんな大胆なショットも、読まれていた。
どんな速いボールも、返ってきた。
6−4。
第四セット。
マルコはまだ笑っていた。
だがその笑顔の奥に、九条は何かを見た。
――認めている。
負けを認めながら、それでも全力を尽くしている。
その姿に、九条は、何かを感じた。
感情ではない。だが、何か。
6−2。
試合終了。
スコアボードが光った。
勝者:Masatomi Kujo
会場に拍手が広がった。
だが九条は、コートに立ったまま、動かなかった。
全豪オープン。全仏オープン。ウィンブルドン。全米オープン。
四つのグランドスラム。同じ年に、すべて。
その言葉の意味が、ゆっくりと、彼の中に降りてきた。
ネット前で、マルコが手を差し出した。
その顔には、まだ笑顔があった。
「おめでとう。今日も、最高だったよ」
九条は握手した。
そして、静かに言った。
「あなたと戦えて、よかった」
マルコは少し目を見開いた。
それから、また笑った。
「次は俺が勝つよ」
九条は、答えなかった。
だがその視線には、かすかに、何かが宿っていた。
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