0178|全米オープン 決勝 vs マルコ・アラーノ

モンテカルロ。春の光の中で、あの日も笑っていた。

完膚なきまでに叩き潰されながら、マルコ・アラーノは笑っていた。

その笑顔が、九条の記憶に残っていた。

全米オープン、男子シングルス決勝。

九月七日。

アーサー・アッシュ・スタジアムの午後。ニューヨークの空は、夏の終わりを告げるように、高く澄んでいた。

マルコ・アラーノ。スペイン人。二十二歳。

「太陽の王子」と呼ばれた選手が、コートに入ってきた。

観客が沸いた。彼のカリスマが、スタジアムの空気を変えた。

だがマルコが最初に見たのは、観客席ではなかった。

コートの向こう側に立つ、九条雅臣を見た。

そして、笑った。

「また会ったね」という笑顔だった。

第一セット。

マルコが先制した。

強烈なトップスピンフォアで九条を後方に押し込み、ドロップからロブへの二段攻撃で翻弄する。爆発的な瞬発力で、広いコートカバー範囲を誇る。

サービスゲームも安定していた。サーブ改善を重ねてきた成果が出ていた。

七−五。

マルコが第一セットを取った。

スタジアムが爆発した。

だが九条は、動じなかった。

チェンジオーバーでタオルを受け取り、静かに水を飲んだ。

その姿は、第一セットを落としたとは思えないほど、静かだった。

――モンテカルロでも、第一セットを落とした。

そのときのことを、九条は覚えていた。

何かが変わる感覚。スイッチが入る感覚。

それは今日も、静かにやってきた。

第二セット。

九条のプレーが変わった。

サーブのコースが多様になった。リターンの予測精度が上がった。ネットへの詰めが早くなった。

マルコは感じた。

――ああ、また来た。

モンテカルロで見た、あの九条が来た。

だからマルコは笑った。

怖くはなかった。

この感覚のために、テニスをしていると思えた。

6−3。九条が取り返した。

第三セット。

マルコは全力を出した。

大胆なドロップ。意表を突くサーブ&ボレー。フォアのヘビートップで押し込み、ロブで抜く。リスクを恐れず、ショットのひとつひとつを、楽しむように選んだ。

「楽しむことが勝利につながる」という彼の信念は、本物だった。

だが九条には、それが届かなかった。

どんな大胆なショットも、読まれていた。

どんな速いボールも、返ってきた。

6−4。

第四セット。

マルコはまだ笑っていた。

だがその笑顔の奥に、九条は何かを見た。

――認めている。

負けを認めながら、それでも全力を尽くしている。

その姿に、九条は、何かを感じた。

感情ではない。だが、何か。

6−2。

試合終了。

スコアボードが光った。

勝者:Masatomi Kujo

会場に拍手が広がった。

だが九条は、コートに立ったまま、動かなかった。

全豪オープン。全仏オープン。ウィンブルドン。全米オープン。

四つのグランドスラム。同じ年に、すべて。

その言葉の意味が、ゆっくりと、彼の中に降りてきた。

ネット前で、マルコが手を差し出した。

その顔には、まだ笑顔があった。

「おめでとう。今日も、最高だったよ」

九条は握手した。

そして、静かに言った。

「あなたと戦えて、よかった」

マルコは少し目を見開いた。

それから、また笑った。

「次は俺が勝つよ」

九条は、答えなかった。

だがその視線には、かすかに、何かが宿っていた。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

URB製作室

コメント

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください。