〈控室〉
センターコートを後にして、九条雅臣は静かな廊下を歩いた。
控室の前で立ち止まる。
ドアの向こうに、あたたかい気配がある。
未来へ進むことを、すでに選んでいた九条は、迷わずドアを押し開けた。
控室の中。
そこに、澪がいた。
白いワンピースにストローハット。
手には紙カップに入ったストロベリークリーム。
九条が入ってきたことに気づき、澪ははっと顔を上げた。
溶けかけたピンク色のクリーム。
「……ごめん。見惚れてたら、溶けちゃった。」
九条は何も言わず、彼女に近づく。
芝を駆けた王の、静かな帰還。
澪は、ストロベリーの甘い香りを纏ったまま、ただそこにいた。
九条は、そっと澪の手からカップを受け取った。
そして、彼女の額に、軽くキスを落とした。
それが、「帰ったよ」という言葉だった。
澪は、目を細めて笑った。
「おかえりなさい、雅臣さん。」
九条雅臣は、何も言わず、その声だけを、心に刻んだ。
「……見てたか?」
澪は、小さく微笑んだ。
「うん。全部、見てた。」
「……退屈だったか?」
澪は、くすっと笑った。
「ううん。すごく、綺麗だったよ。」
九条は、ふっと息を吐いた。
それは、澪の言葉を、そのまま受け止めたための、静かな呼吸だった。
澪が、そっと言った。
「ずっと、走ってたね。」
九条は、頷いた。
「……まだ、途中だ。」
澪も頷いた。
「うん。でも、大丈夫。」
九条は、澪の目を見た。
そこに、疑いも、恐れも、何もなかった。
ただ、未来を信じるまっすぐな光だけが宿っていた。
九条は、静かに笑った。
ほんの、わずかに。
そして、言った。
「……行こう。」
澪は、そっと、手を伸ばした。
九条は、その手を、確かに握った。
未来は、まだ遠い。
だが、もう一人ではない。
二人で、どこまでも、進んでいける。
芝の王と、その女神は――
静かに、未来へ向かって歩き出した。
コメント