〈7月13日・センターコート〉
芝は、まだ朝露を含んで、薄く光っていた。
客席のざわめきも、アナウンスの声も、遠い世界の出来事のように聞こえる。
九条雅臣は、ラケットを軽く握り直しながら、まっすぐ前を見据えていた。
心は、静かだった。
怒りもない。焦りもない。勝たなければ、という焦燥もない。
あるのは、ただひとつ。
——進みたい、という意志。
白いウェアが、芝の緑に映える。
少しだけ、涼しい風が吹いた。
九条は、その風に押されるように、自然な一歩を踏み出した。
誰のためでもない。
自分のために。
支配も、義務も、もうここにはない。
ただ——
自由に、この芝の上を、駆け抜けるだけ。
コールが響く。
「Play.」
九条雅臣は、静かにラケットを掲げ、最初のサーブへ向かった。
対戦相手は、リュカ・サン=ローラン。
フランスが誇る、次世代のスター候補。
芝シーズン好調。フィジカルも強く、サーブとフォアが武器。
しかし、九条は一瞥しただけで冷静に分析していた。
強い。だが、まだ「揺れる」。
勝負所で、ほんのわずかな隙が生まれる——。
トスが上がる。
ボールが空へ、軽やかに放たれる。
インパクト直前、九条はほんのわずかにラケット面の角度を変えた。
打点は胸の横。フォロースルーはコンパクトに。
鋭いスライス回転のかかったサーブが、センターに向かって低く滑る。
パァン。
芝を這うように走ったボールに、リュカは即座に反応した。
膝を深く落とし、リターンの体勢に入る。
だが——リターンは浅い。
九条は一切の無駄なくネットへ。
詰めながらのスプリットステップ、左足で止まり、右手でボレーを叩き落とす。
ショートクロス、ラインぎりぎり。
最初のポイント。わずか14秒。
「速い……」「展開が早すぎる……!」
だが九条は何も聞かない。
芝の感触だけを信じていた。
——ここは、王のための庭だ。
“Incredible… Simply incredible.”
“He’s moving like a phantom across the grass…”
“It’s almost as if… no one is allowed to touch him.”
“He’s not playing to win anymore. He’s simply… existing as the king of this grass.”
——静かだった。
ここまで、生きてきた。
痛みも、孤独も、怒りも、すべて抱えて、歩いてきた。
それでも今、芝の上に立っている。
自由に。誰のためでもなく。ただ、自分のために。
未来は、まだ遠い。
だが、確かに見える。
——走れ。
——駆けろ。
〈第4セット・最終ゲーム〉
リュカ・サン=ローランは必死だった。
が、九条は違う場所にいた。
芝を蹴る音すら聞こえない。
ネット際でリターンを封じ、ポイントを重ねる。
リュカの最後のサーブも、九条は正確に捉えた。
リターン。
リュカ、必死に飛びつく。
だが、ボールはわずかにフレームに当たり、コートの外へ消えた。
試合終了。
リュカは、肩で息をしながら、ネットに向かって歩き出す。
“Not yet.”
(まだ、届かない。)
九条は静かに頷き、リュカの手を握った。
——未来は、君たちのものだ。
——だが、今日だけは。
この芝は、王者のためにある。
スコアボードが点灯し、ウィンブルドンの決勝が幕を閉じる。
勝者:Masatomi Kujo
観客席は拍手に包まれる。
だがその音は、九条の耳には届いていなかった。
彼はただ、芝の上に立っていた。
静かに。誰の声も、届かない場所で。
そのとき、スタンドの一角から、ぽつりと英語が聞こえた。
「He’s the grass king…」
誰が言ったのかは、わからない。
でも、それは——
この日、この芝、この静けさの中で生まれた、たった一つの称号だった。
コメント