〈7月11日・準決勝・センターコート〉
ネット越しに、視線が交差する。
リアム・エイヴァリーは、肩で息をしていた。
言葉を失ったまま一歩引き、ラケットを下げた。
九条は、ただ静かに口を開いた。
「……ここは通過点だ。通れる者だけ、通ればいい」
リアムは何も返せなかった。
視線を落とし、芝を見つめたまま、軽く頷いたようにも見えた。
勝者がセンターコートを去る時、
観客は誰も立ち上がらなかった。
歓声があがらなかったわけではない。
ただ、それは賞賛ではなく、畏怖だった。
「……怖いな、あの人」
「リアムが相手じゃなかったみたいだった」
「これが、世界1位の……」
小さな声が、スタンドを伝って波紋のように広がる。
試合中、実況は何度も沈黙した。
言葉で表現することが、どこか”失礼”な気がして、誰も口を挟めなかった。
コート上にいたのは、人ではなく、
“芝を斬る音だけが響く、静かな処刑人”だった。
その足音を背に、九条雅臣は一礼もしないままロッカールームへと歩いた。
彼の耳に、誰の声も届いていなかった。
もうすでに、決勝戦のための脳に切り替わっていた。
あの芝の上に、二度と同じ景色は戻らない。
だからこそ、残した痕跡は、
“冷静という名の狂気”として、観客の脳裏に刻まれていた。
〈ヒースロー空港・到着ロビー・同日午後〉
到着ロビーの人波の中で、ひとりだけ空気の違う男がいた。
落ち着いたグレーのジャケットに、片手はポケット、もう一方でスマホを見ている――藤代だった。
澪の姿を見つけると、にやっと目を細めて手を挙げた。
「おかえり、綾瀬さん。……あ、違った。ようこそロンドン、だね」
「ただいま、って言いそうになりました」
笑いながら澪が近づくと、藤代は慣れた調子でスーツケースを受け取り、
「飛行機、きつかったでしょ。こっち、車停めてあります」と足早に歩き出す。
「……緊張してる?」
「……ちょっとだけ」
「だよね。九条、今日けっこう動いてるから。……でも、ちゃんと戻ってきますよ。
安心してくださいって言えないけど、俺は大丈夫だと思ってます」
そう言って、さりげなく澪の肩と進行方向の間に立つ。
空港の人混みから自然にガードするその動きに、職業的な意識の高さがにじんだ。
「鍵は、レジデンス前でスタッフが渡してくれます。氷川が全部手配してます。
俺は玄関まで案内したら一旦戻りますけど、何かあったらすぐ連絡ください。番号、変わってないですよね?」
「はい、大丈夫です」
「あとで、猫のやつまた送ります。……こないだの、見ました?」
「見ました。ふわふわの子ですよね。……なんか、ほっとしました」
「でしょ? あれ、うちの猫じゃなくて、スタッフのなんですけど。撮ったのは俺です」
そうしてふっと笑う藤代の表情に、澪は肩の力が少し抜けた気がした。
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