0169.【Wimbledon】芝を斬る音。

〈7月11日・準決勝・センターコート〉

ネット越しに、視線が交差する。

リアム・エイヴァリーは、肩で息をしていた。
言葉を失ったまま一歩引き、ラケットを下げた。

九条は、ただ静かに口を開いた。

「……ここは通過点だ。通れる者だけ、通ればいい」

リアムは何も返せなかった。
視線を落とし、芝を見つめたまま、軽く頷いたようにも見えた。

勝者がセンターコートを去る時、
観客は誰も立ち上がらなかった。

歓声があがらなかったわけではない。

ただ、それは賞賛ではなく、畏怖だった。

「……怖いな、あの人」
「リアムが相手じゃなかったみたいだった」
「これが、世界1位の……」

小さな声が、スタンドを伝って波紋のように広がる。

試合中、実況は何度も沈黙した。
言葉で表現することが、どこか”失礼”な気がして、誰も口を挟めなかった。

コート上にいたのは、人ではなく、
“芝を斬る音だけが響く、静かな処刑人”だった。

その足音を背に、九条雅臣は一礼もしないままロッカールームへと歩いた。

彼の耳に、誰の声も届いていなかった。
もうすでに、決勝戦のための脳に切り替わっていた。

あの芝の上に、二度と同じ景色は戻らない。
だからこそ、残した痕跡は、
“冷静という名の狂気”として、観客の脳裏に刻まれていた。

〈ヒースロー空港・到着ロビー・同日午後〉

到着ロビーの人波の中で、ひとりだけ空気の違う男がいた。

落ち着いたグレーのジャケットに、片手はポケット、もう一方でスマホを見ている――藤代だった。

澪の姿を見つけると、にやっと目を細めて手を挙げた。

「おかえり、綾瀬さん。……あ、違った。ようこそロンドン、だね」

「ただいま、って言いそうになりました」

笑いながら澪が近づくと、藤代は慣れた調子でスーツケースを受け取り、
「飛行機、きつかったでしょ。こっち、車停めてあります」と足早に歩き出す。

「……緊張してる?」

「……ちょっとだけ」

「だよね。九条、今日けっこう動いてるから。……でも、ちゃんと戻ってきますよ。
安心してくださいって言えないけど、俺は大丈夫だと思ってます」

そう言って、さりげなく澪の肩と進行方向の間に立つ。
空港の人混みから自然にガードするその動きに、職業的な意識の高さがにじんだ。

「鍵は、レジデンス前でスタッフが渡してくれます。氷川が全部手配してます。
俺は玄関まで案内したら一旦戻りますけど、何かあったらすぐ連絡ください。番号、変わってないですよね?」

「はい、大丈夫です」

「あとで、猫のやつまた送ります。……こないだの、見ました?」

「見ました。ふわふわの子ですよね。……なんか、ほっとしました」

「でしょ? あれ、うちの猫じゃなくて、スタッフのなんですけど。撮ったのは俺です」

そうしてふっと笑う藤代の表情に、澪は肩の力が少し抜けた気がした。

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URB製作室

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