〈6月17日・午後・ロンドン・ヒースロー空港〉
飛行機がロンドン・ヒースロー空港に降り立ったのは、
澄んだグレーの空が広がる午後だった。
湿った空気。
どこか重たいけれど、確かに生きている匂い。
九条雅臣は、
言葉少なに車へ乗り込み、
再びウィンブルドンへ向かった。
車窓に流れる景色。
古びた赤レンガの街並み。
白い壁に囲まれたクラシックな家々。
やがて、
深い緑に包まれた聖地――
オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブが視界に広がった。
九条は、
その光景を目にした瞬間、
無意識に拳を握り締めた。
(……帰ってきた。)
〈クラブハウス前〉
車が止まった瞬間、
九条雅臣は、
静かに窓の外を見つめた。
緑濃い芝生。
古びた赤レンガのクラブハウス。
白いウェアを纏った選手たち。
一切の無駄を許さない、研ぎ澄まされた空気。
九条は、
ゆっくりと車を降りた。
靴底が、
湿った石畳を踏みしめる音だけが、静かに響く。
(……ここだ。)
〈練習コート・芝生エリア〉
九条は、
着替えを済ませ、
練習コートへと向かった。
そこに広がっていたのは、
限りなく滑らかに刈り揃えられた芝生。
九条は、
コートの手前で立ち止まった。
そして、
静かに頭を下げた。
帽子など、ない。
己の身体ひとつで、最大限の敬意を示す。
(今年も、ここに来た。)
誰に誇るでもない。
誰に誓うでもない。
ただ、この芝に、静かに礼を尽くす。
靴を履き直し、
一歩、芝へ踏み出す。
足裏に伝わる、独特の感触。
(勝つ。)
〈練習コート・午後〉
柔らかな午後の光が、
練習コートを静かに包んでいた。
九条雅臣は、
ラケットを手に、静かにコートサイドに立っていた。
手に汗はない。
呼吸も、浅くない。
ただ、
芝の感触を、
身体の奥深くまで染み込ませるために――
じっと待っていた。
軽くトス。
優しく、ボールが上がる。
九条は、
力を入れず、
ただ、手首だけでスピンをかけた。
――パスン。
芝の上で、
ボールが低く、鋭く弾む。
(……悪くない。)
感触を確かめるように、
もう一度、同じ動作を繰り返す。
足裏で芝を感じる。
膝で、腰で、肩で、
芝の呼吸を感じる。
(急がなくていい。)
一歩、また一歩と、芝のリズムに身体を合わせていく。
やがて、
蓮見コーチが軽く頷く。
「行こう。」
九条は、
深く頷き返し、
ラケットを構えた。
(……これが、芝だ。)
(これが――ウィンブルドンだ。)
余計な感情は要らない。
勝ちたい、という欲望すら、いまは置いておく。
ただ、
芝と、ひとつになる。
それだけが、
すべてだった。
〈練習後・ロッカールーム〉
汗に濡れた髪をタオルで拭きながら、
九条は、深く息をついた。
明日からは、
本格的な調整が始まる。
そしてその先には――
ウィンブルドン本戦。
澪との約束を、
胸に秘めたまま。
負けるわけにはいかない。
絶対に、負けられない。
九条雅臣は、
静かに目を閉じた。
そして、
新しい戦いの始まりを、
心の底から、待った。
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