〈6月29日・夜・ウィンブルドン選手専用宿舎〉
夜のロンドンは、静かだった。
時折、遠くを走る車の音だけが、微かに耳に届く。
九条雅臣は、
宿舎の自室で、
一人、椅子に腰掛けていた。
照明は落とし、
小さなスタンドライトだけを灯している。
膝の上にラケットを置き、
静かに目を閉じた。
明日、
この手にすべてを託す。
今日まで積み重ねた時間。
すべてを、自分自身の身体に預けた。
そして明日は、
そのすべてを、
このウィンブルドンの芝に賭ける。
勝ちたい。
ただ、それだけだ。
誰かに認められるためでもない。
栄光を手に入れるためでもない。
――「ここにいる」と、証明するために。
澪の顔が、ふと脳裏をよぎる。
遠い日本にいる彼女。
手を伸ばしても届かない距離。
けれど確かに、どこかで支えてくれている存在。
(大丈夫。)
心の中で、そう呟く。
(俺は、ここにいる。)
そして、
明日も、ちゃんとここに立つ。
自分自身に――誓う。
膝の上のラケットをそっと立て、
静かに床に置き、手を離す。
――ラケットは、倒れなかった。
(行ける。)
心の奥底で、静かに確信した。
夜のロンドンの空は、重たく、静かだった。
遠くに、ウィンブルドンのコートを照らす小さな灯りが見える。
(――行こう。)
明日、
ここで戦うために。
九条雅臣は、
静かに目を閉じ、
拳をひとつ、固く握った。
そして、
すべてを預ける覚悟で、
眠りへと身を委ねた。
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