0162.【Wimbledon】芝が、待っている。

〈6月17日・午後・ロンドン・ヒースロー空港〉

飛行機がロンドン・ヒースロー空港に降り立ったのは、
澄んだグレーの空が広がる午後だった。

湿った空気。
どこか重たいけれど、確かに生きている匂い。

九条雅臣は、
言葉少なに車へ乗り込み、
再びウィンブルドンへ向かった。

車窓に流れる景色。
古びた赤レンガの街並み。
白い壁に囲まれたクラシックな家々。

やがて、
深い緑に包まれた聖地――
オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブが視界に広がった。

九条は、
その光景を目にした瞬間、
無意識に拳を握り締めた。

(……帰ってきた。)

〈クラブハウス前〉

車が止まった瞬間、
九条雅臣は、
静かに窓の外を見つめた。

緑濃い芝生。
古びた赤レンガのクラブハウス。
白いウェアを纏った選手たち。

一切の無駄を許さない、研ぎ澄まされた空気。

九条は、
ゆっくりと車を降りた。

靴底が、
湿った石畳を踏みしめる音だけが、静かに響く。

(……ここだ。)

〈練習コート・芝生エリア〉

九条は、
着替えを済ませ、
練習コートへと向かった。

そこに広がっていたのは、
限りなく滑らかに刈り揃えられた芝生。

九条は、
コートの手前で立ち止まった。

そして、
静かに頭を下げた。

帽子など、ない。
己の身体ひとつで、最大限の敬意を示す。

(今年も、ここに来た。)

誰に誇るでもない。
誰に誓うでもない。

ただ、この芝に、静かに礼を尽くす。

靴を履き直し、
一歩、芝へ踏み出す。

足裏に伝わる、独特の感触。

(勝つ。)

〈練習コート・午後〉

柔らかな午後の光が、
練習コートを静かに包んでいた。

九条雅臣は、
ラケットを手に、静かにコートサイドに立っていた。

手に汗はない。
呼吸も、浅くない。

ただ、
芝の感触を、
身体の奥深くまで染み込ませるために――
じっと待っていた。

軽くトス。
優しく、ボールが上がる。

九条は、
力を入れず、
ただ、手首だけでスピンをかけた。

――パスン。

芝の上で、
ボールが低く、鋭く弾む。

(……悪くない。)

感触を確かめるように、
もう一度、同じ動作を繰り返す。

足裏で芝を感じる。
膝で、腰で、肩で、
芝の呼吸を感じる。

(急がなくていい。)

一歩、また一歩と、芝のリズムに身体を合わせていく。

やがて、
蓮見コーチが軽く頷く。

「行こう。」

九条は、
深く頷き返し、
ラケットを構えた。

(……これが、芝だ。)

(これが――ウィンブルドンだ。)

余計な感情は要らない。
勝ちたい、という欲望すら、いまは置いておく。

ただ、
芝と、ひとつになる。

それだけが、
すべてだった。

〈練習後・ロッカールーム〉

汗に濡れた髪をタオルで拭きながら、
九条は、深く息をついた。

明日からは、
本格的な調整が始まる。

そしてその先には――
ウィンブルドン本戦。

澪との約束を、
胸に秘めたまま。

負けるわけにはいかない。
絶対に、負けられない。

九条雅臣は、
静かに目を閉じた。

そして、
新しい戦いの始まりを、
心の底から、待った。

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URB製作室

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