〈コート・フィリップ=シャトリエ 控室 深夜〉
空気の温度を感じた。
肌を撫でる、微かな風。
換気扇の回る音。
誰かが歩く、遠い足音。
世界が、
まだぼやけたまま、
かすかに輪郭を取り戻していく。
九条は、
重たいまぶたの裏で、
光を探していた。
やがて、
耳に届いた。
人の声。
遠くで交わされる、
低い、落ち着いた会話。
「……問題ない。まだ時間はかかる」
「焦るな。生きてる。それだけで十分だ」
はっきりとは聞き取れなかった。
けれど、
その声が、
不思議と冷たくなかったことだけは、わかった。
呼吸が、
すこし楽になる。
胸に、
小さな熱が灯る。
(……まだ、終わってない。)
〈深夜〜明け方〉
冷たい点滴の感触が、
ゆっくりと、
血の中に染みこんでいく。
酸素マスクの向こう、
空気がわずかに甘い。
九条は、
まだ目を開けられなかった。
けれど、
微かに、
身体の「重さ」を思い出しはじめていた。
――重い。
指先が、
わずかに疼く。
背中が、
ひやりと濡れている。
汗と冷却シートの感触。
静かに、
世界が、戻ってくる。
誰かが、
そっとタオルを額に当てた。
触れるか触れないかの、
慎重な手つき。
優しい。
あたたかい。
(……生きて、いいんだ。)
九条は、
何も言わなかった。
言えなかった。
だが、
そのわずかな「感覚」だけが、
彼を、
またこの世界に繋ぎとめていた。
〈夜明け前後〉
音が、聞こえる。
ただのざわめきではない。
意味をもった「音」として、
世界が耳に押し寄せてきた。
機械のビープ音。
点滴の落ちる小さな音。
誰かがページをめくる音。
衣擦れ。
低い、静かな声。
「……反応、わずかにある。悪くない」
聞き覚えのある声だった。
氷川だ。
だが、
その声すら、
水の底から聞こえるように、
遠い。
――頑張れ。
誰の声だろう。
幻聴だろうか。
それでも、
その言葉が、
胸のどこかに、
かすかに届いた。
生きている。
まだ、
ここにいる。
〈早朝〉
動きたかった。
九条は、
意識のどこかで、
そう、願っていた。
手を。
指を。
まぶたを。
どこでもいい。
何か、動かしたかった。
しかし、
身体は、重く、遠かった。
まるで、
深い海の底で、
自分自身を見上げているようだった。
それでも。
九条は、
わずかに、
指先に力を込めた。
動かなかった。
だが、
その小さな「試み」が、
確かに、彼の中に残った。
まだ届かない。
まだ、遠い。
それでも――
〈夜明け〉
九条は、
意識の中で、
ゆっくりと、世界に手を伸ばした。
音。
光。
温度。
空気。
すべてが、
遠い膜の向こうで、
震えていた。
それでも――
九条は、
その震える世界を、
ただ、
受け止めた。
生きている。
ここにいる。
確かな言葉にならなくても、
その実感だけは、
たしかに胸の奥で、
脈を打っていた。
やがて、
かすかに、
指先が、動いた。
それは、
誰にも気づかれないほどの、
ほんの小さな動きだった。
けれど、
間違いなく、
九条雅臣自身の「意志」だった。
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