0152.【Roland Garros】声だけが、届いた

〈コート・フィリップ=シャトリエ 控室〉

カーテンが閉ざされた室内。
外の歓声は、もう聞こえない。

九条は、
ベンチに座ったまま動かなかった。

ジャージを肩まで羽織らされ、
濡れたシャツは脱がされ、
スタッフの手で身体を冷却される。

呼吸が浅い。
視界は、霞んでいる。

腕に、点滴の針が刺さる。
冷たい液体が、静かに血管を満たしていく。

鼻に酸素マスクが当てられる。
少しずつ、
意識が戻ってくる感覚。

だが――
何も、
感じなかった。

「……優勝、おめでとうございます」

誰かの声がした。

氷川か。
蓮見か。
わからない。

ただ、その言葉だけが、
遠く、遠くに聞こえた。

九条は、
まばたきもせず、
虚ろな視線のまま、
ただ息をしていた。

生きるためだけに。

スタッフたちは、
静かに、的確に動いていた。

余計な言葉も、
同情も、
祝福も、ない。

ただ――
彼を守るために。

しばらくして、
氷川がスマートフォンを手に取った。

九条の端末だった。
連絡先を開く。
そこに登録されている、「綾瀬 澪」の名前。

「――今、かけますか?」

「……指示が出るまでは、保留。状況悪化なら即時。」

数分が過ぎる。
九条の呼吸は、少しずつ落ち着いてきた。
だが、目は閉じたまま。

氷川は、
意を決して、
スマートフォンをタップした。

発信。

九条は、動けない。
声も出せない。

だが、
かすかな意識の奥底で、
澪へと繋がるその行為だけを――
受け入れた。

〈日本 東京 6月9日(月) 早朝5:30〉

リビングのソファ。
カーテンを閉めたままの窓。
ほの暗い部屋に、
スマートフォンの光だけが滲んでいた。

澪は、
眠っていなかった。

数時間前、仮眠は取った。
だが、心は張り詰めたままだった。

画面の向こうで見届けた。
彼が、勝った瞬間を。

けれど、
その後、九条の姿は消えた。

待っても、待っても、何も流れてこない。

そんなとき、
スマートフォンが震えた。

画面に、「九条 雅臣」の名前。

指が、震えた。

怖くて、
それでも、澪は両手でスマートフォンを掴み、
通話ボタンを押した。

「……はい」

「……雅臣さん……?」

応答は、ない。

ただ、かすかな呼吸音が、スピーカー越しに聞こえた。

〈コート・フィリップ=シャトリエ 控室 同刻〉

氷川が、
スマートフォンをそっと九条の枕元に置いた。

スピーカーモード。
誰も何も言わない。

ただ、
澪の声だけが、
室内に流れていた。

「……がんばったね」

「……おめでとう」

それは、
誰に聞かせるでもない、
ただの、
祈りのような言葉だった。

九条は、動かない。

だが、
その声だけが、
彼の深いところに、
静かに、静かに、沈んでいった。

〈日本 東京〉

澪は、泣きそうになるのを必死でこらえた。

ぎゅっとスマホを握りしめ、かすれた声で――

返事はない。
それでもいい。
この声が、どこかで彼に届いていれば、それでいい。

澪は、薄暗い部屋の中で、
震える手を胸に押し当てた。

「……ありがとう」

誰にも届かない、
自分自身への祈りのように。

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URB製作室

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