〈パリ アメリカン・ホスピタル 病室前〉
澪は、そっとドアを押し開けた。
静寂が、そこにあった。
薄暗い病室の奥、
白いシーツに包まれた九条雅臣が、
静かに横たわっている。
点滴、モニター、呼吸器のわずかな機械音だけが、
生命のリズムを刻んでいた。
彼は眠っている。
目を閉じたまま、
微動だにしない。
でも――
澪には、わかっていた。
そこに、確かに、
生きている彼がいることを。
澪は、
一歩、また一歩と歩み寄った。
靴音を立てないように、
小さく、小さく。
ベッドサイドに辿り着くと、
しばらく何もできずに立ち尽くした。
あまりにも静かで、
あまりにも遠く感じたから。
それでも、
澪は手を伸ばした。
震える指先で、
九条の手を、そっと包み込む。
冷たかった。
でも、
ほんのかすかに、温もりもあった。
澪は、ぎゅっと手を握りしめた。
伝えたかった。
何も言葉にならなくても。
(来たよ。)
(ちゃんと――来たよ。)
涙がにじんだ。
でも、泣かなかった。
今はまだ、泣いてはいけない気がした。
澪は、
ベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
リュックを足元に置き、
九条の手を包み込んだまま、
そっと額をベッドに預けた。
耳に、静かな電子音が響く。
そのリズムだけが、
澪を現実に繋ぎ止めていた。
もう、ひとりじゃない。
もう、どこにも行かない。
〈病院内 面談スペース〉
澪は、小さく息を吸い込んだ。
そして、きちんと頭を下げた。
「……綾瀬 澪と申します。」
声は小さかったけれど、
震えずに出せた。
「九条さんに――
本当に、お世話になっています。」
氷川は、澪を見た。
一瞬だけ、目を細める。
そして、
ごくわずかに、表情を緩めた。
「氷川 尚人です。」
静かな声だった。
それ以上、何も問わない。
何も詮索しない。
ただ、
名前を交わした。
それだけで、
澪は少しだけ、
この場所に、自分の居場所ができた気がした。
〈病室 九条視点〉
九条は、
天井を見上げたまま、
ゆっくりと瞬きをした。
身体は、
まだ動かない。
でも、
心だけは――
ずっと、
おまえを、
探していた。
澪。
九条は、
胸の奥で、
静かに名前を呼んだ。
どれだけ遠くても。
どれだけ弱っていても。
おまえのいる場所へ、
俺は、
必ず――
辿り着く。
〈病室 澪視点〉
澪は、
九条の隣に座ったまま、
静かに時間を重ねていた。
機械のリズムは一定。
九条の呼吸も穏やか。
それだけで、十分だった。
けれど――
ふと、
澪は、
九条の指先が、ほんのわずかに動くのを見た。
(――!)
息を呑む。
見間違いじゃない。
確かに、
指が、
わずかに、震えた。
澪は、そっと身を乗り出した。
声はかけない。
でも、
九条が迷わないように、
手を、そっと重ねる。
もう一度、九条のまぶたが、
微かに動いた。
(雅臣さん――)
心の中で、澪は必死に呼びかける。
声に出さなくてもいい。
聞こえなくてもいい。
ただ、
ここにいると、
ちゃんと伝わればいい。
九条の眉が、
ほんのわずかに動いた。
ゆっくりと、
とてもゆっくりと、
まぶたが開きかける。
焦点はまだ合っていない。
世界もまだぼやけている。
それでも――
澪は、
九条の視線の先に、
そっと微笑んだ。
〈病室 九条視点〉
世界が、滲んでいた。
光も、音も、輪郭を失って――
ただ、
たったひとつだけ、
鮮明なものがあった。
――温もり。
右手に、
小さく、
でも確かに重なっている、誰かの手。
(……澪。)
焦点が合わない瞳を、
かすかに澪の方へ向けた。
視界の隅で、
あたたかな光のように、
澪が微笑んでいた。
泣きそうな顔で、
それでも、笑っていた。
「……おかえりなさい。」
小さな声が、耳に触れる。
九条は、
何も言葉にできなかった。
でも、
澪の声が、
澪の存在が、
深く、深く、
九条の心に沁みていった。
(……待ってたのか。)
こんなにも静かに、
こんなにも遠くから、
それでも、
俺を探して、
ここまで来てくれた。
右手の中の、小さな温もりを、
ほんのわずかに握り返す。
それが、
今の九条にできる、
唯一の返事だった。
そして――
安心したように、
九条は、そっと目を閉じた。
澪の温もりを、
手の中に抱きしめたまま。
もう、ひとりではないと、
知ったまま。
〈夜のパリ〉
九条の手をそっと撫でながら、
澪は、深く息を吐いた。
身体は、限界に近かった。
ずっと気を張って、
動き続けて、
ここまで辿り着いた。
でも、
今、彼の隣にいる。
それだけで、
心が、少しだけほどけた。
椅子に深く座り直し、
澪は、リュックを抱きしめた。
目を閉じた。
九条の手を包んだまま、
澪は、ゆっくりと、
意識を手放していく。
どこかで、
まだ機械の電子音が鳴っている。
でもそれはもう、怖くない。
今は、
ちゃんと、隣にいるから。
澪は、九条の手を抱いたまま、
静かに眠りに落ちた。
夜のパリ。
誰も知らない、小さな奇跡のそばで。
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