0154.【Roland Garros】澪、と呼んだ

〈コート・フィリップ=シャトリエ 控室 朝〉

九条は、
ぼやけた視界の中に、
影を見た。

誰かが、
そこに、いた。

遠い。
けれど、確かだ。

声は、聞こえない。
動く音も、
ほとんど感じない。

それでも、
その「気配」だけは、
はっきりとあった。

九条は、
無意識に、
その気配に、手を伸ばそうとした。

指先が、かすかに震えた。

届かない。

それでも、
彼は、動こうとした。

自分は、
ひとりではない。

その、
たったひとつの確信だけが――
九条雅臣を、
ここに繋ぎとめていた。

その気配は、
あたたかかった。

静かに、
そっと、
九条のそばに在る。

九条は、
もう一度、視線を向けた。

ぼやけた輪郭。

だが、
その存在は、
身体の奥に刻み込まれていた。

――知っている。

名前も、
顔も、
今は思い出せない。

けれど、
この人は、
「自分を守ってくれる」存在だと、
心が知っていた。

九条は、
かすかに眉を緩めた。

怖くない。

どれほど身体が痛くても、
どれほど世界がぼやけていても、

この気配だけは、
揺るがなかった。

ふと、
光の粒のように、
記憶が、
滲み出した。

柔らかな髪。
小さな肩。
静かな微笑み。

香り。
温度。

名を――

呼びたかった。

誰だったか、
まだ思い出せない。

けれど、
胸の奥が、
確かに疼いた。

守りたかった。
触れたかった。

生きて、
もう一度、
あの声を――

九条は、
目を閉じかけたまま、
無意識に、
唇を微かに動かした。

――澪。

九条の心が、
その名前を、
呼び上げた。

誰に教えられたわけでもない。

誰かに促されたわけでもない。

ただ、
本能の奥底から、
自然と、
その名前が、
浮かび上がった。

澪。

確かに、
そこに、
いた。

九条は、
かすかに、
唇の端を、緩めた。

痛みも、
虚無も、
恐怖も――

すべてを、
その名前が、
塗り替えた。

俺は、
まだ、
生きていい。

そう思えた。

九条は、
まぶたを閉じたまま、
ゆっくりと、呼吸を繰り返していた。

まだ、
身体は動かない。

立つことさえ、
いまは想像できない。

それでも――

心だけは、
もう、
動きはじめていた。

ウィンブルドン。

あの場所へ。

九条は、
静かに、心の中で言った。

生きているなら――立て。

立てるなら――行け。

行けるなら――戦え。

誰かに言われたわけじゃない。
誰に強制されたわけでもない。

ただ、
自分の意志だけで。

九条雅臣は、
自分で、自分を「未来」に繋ぐと決めた。

たとえ、
すべてを失ったとしても。

この意志だけは――

誰にも、奪わせない。

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URB製作室

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