〈日本 東京 深夜2時すぎ〉
着信音が鳴った。
表示されたのは――九条雅臣の名前。
一瞬、心臓が跳ねた。
でも、受話器越しに耳を澄ませても、そこに、九条の声はなかった。
「……雅臣さん?」
呼びかけても、答えはない。
ただ、どこか遠い、機械音と人の気配だけが、微かに聞こえた。
澪は、すぐに悟った。
(――意識が、ない。)
わかっていた。
ライブ配信で、試合の最後まで見届けた。
栄光の瞬間のあと、九条の姿は映らなかった。
何かが、起きた。
そしてこの電話も、九条自身の意志ではない。
それでも、澪は受話器を握りしめた。
そして、九条雅臣に向かって、ゆっくりと、言葉を紡いだ。
「――おめでとう。」
小さく、震える声だった。
でも、しっかりと届くように、
もう一度、言葉を重ねた。
「……がんばったね。」
何も返事はなかった。
それでもいい。
この言葉は、きっと、彼のもとに届く。
澪は、目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。
そして、次に取るべき行動を、選び取った。
受話器を持ったまま、
澪は静かに呼びかけた。
「……すみません。そちらに――どなたか、いらっしゃいますか?」
数秒の沈黙。
やがて、遠くから、低い声が返ってきた。
「……います。」
氷川だった。
澪は、ためらわなかった。
「病院の名前を、教えてください。
私、フランスへ行きます。」
電話の向こうで、また、沈黙が落ちた。
ほんのわずか、未来が揺らいで、そして――
「……わかりました。」
〈深夜 自室〉
電話を切ったあと、澪は、一度だけ目を閉じた。
泣いている場合じゃない。迷っている暇もない。
今、できることを、するだけだ。
澪は、クローゼットに向かった。
適当に掴んだ服を、バッグに放り込む。
デニム、シャツ、カーディガン。
あとはスマートフォンの充電器と、パスポート。
小さな財布。
それだけ。
ノーメイクの顔を鏡に映して、
それすらどうでもよくなる。
バッグのファスナーを引き閉めた音が、
静まり返った部屋に響く。
澪は、深呼吸を一つだけして、
スマホでタクシーアプリを立ち上げた。
配車完了まで、わずか三分。
外はまだ夜の闇。
でも、東の空は、
ほんの少しずつ白み始めていた。
(待ってて。)
誰にも届かない小さな声で、
澪は、つぶやいた。
〈タクシー車内〉
羽田空港まで、約30分。
その間に、やるべきことがあった。
焦る気持ちを抑えて、航空券の予約サイトにアクセスする。
電波は不安定だったけれど、
何度も読み込み直しながら、
最短でパリへ向かう便を探した。
検索結果に出てきたのは――
【羽田発11:15 → パリ着19:05 / エールフランス便】
目を閉じて、息を整える。
この便なら、間に合う。
乗れる。
すぐに座席を選び、
カード情報を入力し、
購入ボタンを押した。
画面に「予約完了」と表示された瞬間、
澪はスマホを胸に抱きしめた。
料金は、驚くほど高かった。
でも、そんなことはどうでもよかった。
窓の外に、羽田空港の標識が見えてきた。
(待ってて――必ず、行くから。)
〈羽田空港 搭乗ゲート〉
搭乗開始のアナウンスが流れた。
まだ朝の冷たい空気が、空港内に残っている。
澪は、バッグを肩に引き直し、
小さく息を吸った。
身体は重かった。
徹夜明けの足取りはふらつく。
でも、心は、迷っていなかった。
搭乗券とパスポートを差し出すと、
スタッフが機械的に手続きを済ませる。
「行ってらっしゃいませ。」
微笑んだスタッフの声に、
澪はかすかに会釈だけして応えた。
搭乗ゲートをくぐる。
ボーディングブリッジの向こう、
ガラス越しに朝焼けが広がっていた。
空の色が、滲んで、
少しずつ、未来へ続いていく。
(行こう。)
澪は、静かに歩き出した。
〈機内〉
席に着くと、
シートベルトを締める手が、少し震えていた。
でも、それは恐怖じゃない。
ただ、胸の奥にしまった願いが、
まだかすかに、脈打っているだけだった。
頭の中では、
九条の姿が、何度も浮かんでは、かき消えた。
コートに倒れ込んだあの瞬間。
誰にも映されなかった、あの後の時間。
どれほど苦しかっただろう。
どれほど、孤独だっただろう。
でも。
澪は、自分に言い聞かせた。
(もう、ひとりじゃない。)
間に合う。
必ず、間に合う。
澪は、そっと、胸の上で指を組んだ。
祈るように。
誰にでもない、
ただ、九条雅臣のためだけに。
エンジンの音が、低く、重く響く。
重力を振り切って、
飛行機は、夜明けの空へ――
未来へ、
静かに、確かに、飛び立った。
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