〈6月11日・朝〉
ルームサービスの朝食が、
テーブルに並んでいた。
バゲット。
クロワッサン。
ハムとカマンベール。
グレープフルーツジュース。
九条はバゲットをちぎりながら、
静かにジュースを飲む。
澪は、クロワッサンを一口食べて、
手を止めた。
窓の外をぼんやりと見る。
九条が、ふと視線を外した。
そして、ごく静かに言った。
「……ちゃんと、食え。」
命令でも気遣いでもない。
ただ、ここにいていいと
静かに許された気がした。
澪は一瞬手を止めて、
またクロワッサンを口に運んだ。
九条は立ち上がり、
無駄のない動作でナプキンを置いた。
「ここにいろ。」
それだけ言って、
ドアを出た。
澪は、その背中を黙って見送った。
(いってらっしゃい。)
声にはしなかった。
〈午後・プールサイド〉
ロビー階に降りて、
プールサイドへ向かった。
午後の光が柔らかく、
水面を銀色に照らしている。
白いパラソルの陰、
ラウンジチェアに腰を下ろす。
水着は持っていない。
泳ぐこともできない。
でも、それでよかった。
数人の宿泊客が、のんびりと泳いでいる。
小さな波紋が、静かに広がって消えていく。
澪はただ眺めていた。
(……きれいだな。)
遠くで誰かが笑う声がして、
水面がきらきらと揺れた。
世界は今日も生きている。
九条も今、静かに呼吸している。
澪は、そっと目を閉じた。
〈午後・部屋に戻って〉
九条がリハビリから戻るまで、
まだ時間があった。
部屋に戻ると、
また静かすぎた。
気づいたら、MacBookを開いていた。
今度は、クライアントへの提案書だった。
Sunreefの新しいカタマランの仕様。
秋のカンヌに向けて、
一件、動かしておきたい商談があった。
「少しだけ」のつもりが、
また一時間経っていた。
欧州クライアント対応として延泊しているはずの自分が、
パリのホテルでヨットの提案書を書いている。
(……まあ、仕事はしてるか。)
澪は、小さく苦笑した。
〈夜〉
バスローブに包まれたまま、
澪はベッドの端に腰を下ろした。
部屋の明かりは、
小さなランプひとつだけ。
窓の外、パリの街はまだ静かに光っている。
澪は、サクラ色のiPhoneを手に取った。
マップアプリを開いて、
指先で地図をそっと動かす。
モリトールホテル。
セーヌ川。
マレ地区——
小さく、「LUSH FRESH & FLOWERS」の文字を見つけた。
そこへ続くルートを、そっとたどった。
(……行けるかも。)
明日、もし時間があれば。
画面を閉じて、
ベッドに横たわる。
目を閉じると、
プールの青。
パリの空。
そして、九条の横顔。
(……生きてる。)
誰にも言わない実感が、
静かに灯った。
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