前夜の解析
マドリードの夜は遅くまで騒がしい。
ホテルの窓の下、広場のテラス席からギターの音と笑い声が断続的に上がってくる。九条雅臣はカーテンを閉めた。外の音はBGMにもならない、ただのノイズだった。
スイートルームの中央に置かれたテーブルに、三人分のコーヒーが並んでいた。九条のカップだけ、減っていない。
「対戦成績、確認します」
氷川がタブレットを開いた。画面には、エンソ・バルガスの今季試合データがスプレッドシートで展開されている。
「クレー勝率、八十三パーセント。マドリードでは過去三年、ベスト四以上をキープ。高地適性は明らかに平均を上回っています。サービスは武器じゃない、フォアハンドとフィジカルで試合を作るタイプ。長いラリーになるほど強くなる」
「わかってる」
「はい。なので次」
氷川がスワイプする。画面が切り替わり、試合映像のサムネイルが並んだ。
「ラケット破壊の記録です。今季だけで六回。うち四回がファーストセット。そしてこれが問題で」
氷川は一つの映像を再生した。バルガスがラケットをコートに叩きつける瞬間、審判がコードバイオレーションを宣告する瞬間、そして——次のポイント。
「破壊後のポイント取得率が、七十二パーセント」
九条は画面を見た。数字は確かだった。
「感情的な反応の後に、一時的に集中が高まるケースは報告されている」
「そうですね。ただ、割合が高すぎる。偶然じゃないと思います。バルガスの母親を、調べたんですが」
「スポーツ心理学者だな」
氷川が少し目を上げた。九条はすでに資料を読んでいた。
「ラケットを壊すことが、感情処理のプロトコルに組み込まれている可能性があります。学習された行動だとすれば、単純にペナルティとして計算するのは危険かもしれない」
「つまり」
「壊した後のバルガスは、リセット済みです」
沈黙が落ちた。エアコンの低い音だけが続く。
蓮見が、ソファの背もたれに深く沈み込んだまま口を開いた。
「わかりやすく言うと」
全員が蓮見を見た。
「怒りを燃料にできる人間だ。爆発させて、燃やして、それで前に進む。お前とは逆だな、九条」
九条は蓮見を見た。
「感情で動く選手はパターンが読める。怒りを感じたら壊す、壊したらリセットする、それが行動の予測軸になる。御し難い相手ではない」
「そうだな」
蓮見の口調は同意していたが、目は違った。九条のどこか——顔でも手でもない、もう少し内側の何かを見ているような目だった。九条はそれに気づかなかった。
「弟が帯同してるらしいです。今大会も」
氷川が補足した。
「試合中、スタンドで見ています。あの選手、弟に精神的に依存している傾向があって——といっても依存というより、弟が視界に入るだけで数値が安定する…そういう感じです」
「外部の冷却装置か」
「うまい表現ですね」
「弱点だ」
九条はコーヒーカップを一度手に取り、置いた。
「自分の外側に安定の根拠を置く選手は、それを遮断すれば崩れる。弟の位置を把握しておけ」
氷川がメモを打ち込んだ。
蓮見は九条の方を一瞬見た後、もう何も言わなかった。ただ、手元のコーヒーを静かに飲みながら、窓の外のギターの音を聞いているようだった。
ミーティングが終わったのは、日付が変わってからだった。
六百五十メートル
マドリードの赤土は、他のクレーとは少し違う感触がある。
高度六百五十メートル。空気が薄い分、ボールが伸びる。バウンドが低い。同じショットを打っても、パリやモンテカルロとは別の球が飛んでいく。九条はそれを、コートに入って最初のウォームアップの十分間で測り直した。毎年のことだった。
バルガスはウォームアップから音を立てた。
フォアハンドを打つたびに短い声が出る。スペイン語で何かを呟く。自分に言い聞かせているのか、コートに話しかけているのか、九条には判別できなかった。どちらにしても関係なかった。
試合が始まった。
第一セット、九条はまずフォアハンドの射程を測った。バルガスのフォアは確かに重い。高地でさらに伸びる。ただ、打点に入るまでの予備動作が一拍長い。そこを突けばいい。バックハンド側への展開を増やし、フォアを打たせない。単純な結論だったが、単純なことを正確に続けるのが九条の仕事だった。
四ゲーム目。
バルガスのフォアがサイドラインを割った。アンフォーストエラー。バルガスは振り抜いたラケットをそのまま地面に叩きつけた。赤土が跳ねた。審判が何か言う前に、バルガス自身が手を上げて審判に向いた。怒りではなく、確認するような動作だった。コードバイオレーション。警告。
九条はベースラインに戻りながら、バルガスを見た。
予測通りだった。壊す。リセットする。次のポイントに備える。氷川のデータが正確だったということだ。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
第一セット、六対三。
セット間のインターバル、九条はタオルで顔を拭きながらスタンドを一度だけ視線が流れた。チームの位置を確認する習慣だった。蓮見が腕を組んで座っている。氷川がタブレットを見ている。志水が立ったまま九条を見ている。
その少し先に、見慣れない人間がいた。
若い。バルガスに似た顔つきだが、もう少し線が細い。レオ・バルガス。九条は視線をすぐにコートに戻した。
第二セットに入った。
バルガスが変わっていた。
フォアの振り抜きが早くなっている。ファーストサービスの確率が上がっている。リセット済み、と氷川が言った言葉の意味を、九条は数字で確認した。脅威ではない。ただ、予測が一段階複雑になった。対応を修正する。それだけのことだった。
五ゲーム目。
バルガスのバックハンドがネットに刺さった。続けてサービスがフォールト。セカンドサービスを九条がリターンエースで抜いた。ブレーク。
バルガスは動かなかった。
ラケットを握ったまま、数秒、コートのどこも見ていなかった。九条はその静止を観察した。次の行動を予測するための観察だった。バルガスはゆっくりと顔を上げた。
スタンドを見た。
九条の視界の端に、それが入った。
レオ・バルガスが立ち上がっていた。何かを言ったのかもしれない。声は届かなかった。ただ、兄と目が合った瞬間、弟は片手を小さく上げた。それだけだった。
バルガスがネックのグリップを握り直した。肩から力が抜けるのが、遠目でもわかった。
九条はベースラインに戻った。
今見たものを処理しようとした。感情的なノイズが一時的に収束した、という氷川の分析は正確だった。弟が視界に入れば安定する、という傾向も正確だった。
ただ。
なぜ、目が合っただけで。
答えが出なかった。出ない理由も、わからなかった。九条はそれをファイルの端に追いやって、試合に戻った。
第二セット、七対五。
試合が終わった。
Ganaste
ネット際で、バルガスが先に手を差し出した。
汗で濡れた手だった。九条はそれを握った。
バルガスは九条の目を真っ直ぐ見た。負けた選手の目ではなかった。疲れた目だったが、空ではなかった。
“Ganaste.”
勝ったな、と言った。
それから少し間を置いて、
“Pero… el calor que tienes, no es el de la altitud.”
九条は言葉を受け取った。
意味は、取れた。
お前の持つ熱は、高地のせいじゃない。
何を言われたのか、わからなかった。バルガスが自分の何を見て、そう判断したのか。「熱」が何を指しているのか。九条には参照できるものが何もなかった。
バルガスはすでに踵を返していた。スタンドに向かって歩いていく。レオが一段、また一段と降りてきていた。
九条は自分の右手を一度だけ見た。
少し熱かった。
試合の疲労だと、思った。
廊下で
コートの出口に、蓮見が立っていた。
スタンドから降りてきたのか、腕を組んで壁にもたれていた。スタッフ用の通路で、照明が一段暗い。九条が近づいても、蓮見は動かなかった。
「お疲れ」
「ああ」
九条は立ち止まらなかった。蓮見が並んで歩き始めた。
「バルガス、試合前の取材で何か言ってたな」と蓮見が言った。「自分の長所を聞かれて、頭が良いことだって」
「見た」
「あいつは間違ってないな」
九条は前を向いたまま歩いた。
「クレーの読みが正確だったということだ。高地の適応も早かった」
「そうだな」
蓮見の相槌は、同意の形をしていなかった。
九条は蓮見を見た。蓮見は前を向いていた。何かを確認し終えたような顔だった。
「何が言いたい」
「別に」
廊下の角で、蓮見は足を止めた。ロッカールームは直進だった。
「お前が勝ったのは事実だ。お疲れ」
それだけ言って、蓮見は別の方向に折れた。
九条はしばらくその場に立っていた。
何かを言われた気がした。何を言われたのか、わからなかった。蓮見の言葉を反芻したが、引っかかる箇所が見つからなかった。バルガスの頭の良さ、それは九条もすでに評価済みだった。新しい情報ではない。
九条はロッカールームへ向かった。
廊下の照明が、一歩ごとに足元を照らした。
志水の手
ロッカールームは静かだった。
他の選手はすでに引き上げていた。シャワーの音もない。九条が入ると、志水が隅のベンチに道具を広げて待っていた。アイスパック、テーピング、マッサージオイル。毎試合後と同じ配置だった。
「念入りにやってくれ」
九条はウェアのジッパーを引き下ろしながら言った。
「高地で二セット動いた。熱が溜まってる」
「はい」
志水は短く答えて、アイスパックを手に取った。
九条はベンチに腰を下ろし、上体を起こしたまま目を閉じた。左膝にアイスパックが当たる。冷たさが皮膚から入ってくる。
志水は何も言わなかった。
アイシングの時間、志水は九条の足首の状態を指で確認しながら、どこも見ていないような目をしていた。腫れはない、熱感はどうか、可動域はどうか。手が仕事をしている間、顔は静かだった。
十五分後、アイシングが終わった。
志水がオイルを手に伸ばした。ふくらはぎから始めて、腿、腰、肩へと順番に進んでいく。力の入れ方が試合後の疲労に合わせてある。九条の体のことを、九条以上に記憶している人間だった。
肩甲骨の内側に親指が入った瞬間、九条の呼吸が一拍浅くなった。
志水の手が止まった。
「続けろ」
九条は言った。
志水は続けた。
何かが詰まっているような場所だった。筋肉ではない。志水の手はそこを感じ取りながら、ただ丁寧に解いていった。聞かなかった。原因を探らなかった。九条の体が持ち込んだものを、九条の体に返す。それだけをした。
最後に可動域の確認で肩を大きく回した。九条は抵抗せずに従った。
「終わりました」
「ああ。助かる」
九条はゆっくりと立ち上がった。体が少し軽くなっていた。熱は、まだどこかにあった。
志水が道具を片付け始めた。九条はウェアを羽織り、扉に向かった。
「九条さん」
志水が呼んだ。
九条は振り向かなかった。
「明日も同じ時間でいいですか」
準決勝が終わった。明日は決勝だった。
「ああ」
九条は扉を押した。廊下に出た。
マドリードの夜はまだ続いていた。窓のない廊下に、外の音は届かなかった。
右手が、まだ少し熱かった。
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