0005.「三年と一隻」― 白鳥の足

Scene 10|横浜オフィス、夜——白鳥の足

プレゼンから法務対応の初回確認、造船所への連絡、氷川への覚書草案の送付——全てのタスクが終わったのは、夜の十一時を回ったころだった。

フロアの電気が半分落ちている。誰もいない。澪は廊下の突き当たり、無人のリフレッシュスペースに向かった。自販機のボタンを押す。出てきたのは、極甘のミルクティーだった。普段は選ばない。でも今夜は、論理的に最も正しい選択に思えた。

パイプ椅子に崩れ落ちるように座り、缶を両手で持ったまま、澪は虚空を見つめた。

(……この数時間で確実に三キロ痩せた)

すぐに訂正した。

(物理的には一グラムも痩せていない)

でも感覚としては、そうだった。

九条の「造船所の不良在庫に俺を使う気か」という一言が来た瞬間、胃が三センチ下がったのを今でも覚えている。あそこで一秒でも言葉に詰まれば、終わっていた。「一面では、そうです」と返せたのは、想定問答を二十パターン作ってあったからだ。感情ではなく、準備の結果だった。

「造船所の在庫処理に協力してやるだけの、明確な実利を提示しろ」——あの一言が来たとき、貸出条項に乗っかったHEPAシステムとメンテナンス権をセットで出す、という手札は用意していた。でも九条の目が「説明を聞いてやる」から「評価している」に変わるまでの数秒間、澪は自分の心拍数を意識的に落ち着かせていた。

(氷川さんが「万が一開催された場合のスポンサー」で補完してくれたのは、助かった)

それは素直に、そう思った。

缶を一口飲んだ。甘さが、空腹の胃に急速に染みていく。

(とりあえず、今夜は終わった)

覚書のドラフトは明朝確認する。立花はまだ何か言ってくるかもしれない。でも、今夜は終わった。

それで十分だった。

澪は缶を飲み干し、ゆっくり立ち上がった。


Scene 11|モナコ、エルクル港、2021年3月末

地中海の三月は、まだ少し肌寒い。

しかし光は明らかに南のものだった。水面に反射する陽射しが、視界の全部を明るく染める。

澪は桟橋の端に立ち、完成した船を見ていた。

Sunreef 80 Eco。全長約二十四メートル。ハルはディープネイビー——黒に限りなく近い紺。甲板に敷き詰められたソーラーパネルが、光を吸収するように静かに輝いていた。名は入っていない。

(リゾート用と言うより、戦艦みたい)

と澪は内心思った。設計図と数字で追いかけていた対象が、実物として桟橋に繋がれているのを見ると、改めてその大きさに気づく。二十四メートルは、想像より大きかった。

氷川が横に並んだ。

「九条は直接確認に来ます。三十分後に到着予定です」

「はい」

「内装の最終検品は、代表が直接行います。問題があれば指摘されるかもしれない」

「ありません」

氷川はほんの少し目を細めた。

「……自信があるんですね」

「要件を全て満たしたという確認はあります」

四月に入るとモンテカルロ・マスターズが始まる。クレーコートシーズンの開幕だ。九条は本戦前の最終調整のためにモナコ入りしており、今日は調整の合間に時間を割いてきていた。

三十分後——桟橋の入口から、黒いポルシェ・タイカンが静かに滑り込んできた。

エンジン音がない。モーターの低い振動だけが地面を伝う。それだけだ。

助手席から降りてきたのは、大柄な男だった。短く刈り込んだ黒髪、厚い肩。藤代だ。無言のまま周囲を一度確認し、後部ドアを開けた。

九条が降りた。

サングラスをかけていない。周囲を見渡す様子もなく、桟橋を真っすぐ歩いてくる。藤代が二歩後ろについた。

澪は会釈をした。九条はそれに応えず、船を一度だけ見た。

ディープネイビーのハル。甲板のソーラーパネル。タイカンのボディカラーと同じ系統の色が、港の光の中で静かに反射していた。

九条はそのまま乗り込んだ。澪と氷川がそれに続いた。藤代は桟橋に残った。

船内は、静かだった。

正確に言えば、静かさのために設計されていた。防音材が全ての壁に施されており、外の波の音が遠ざかっていく。床材はダークグレーの石材調。天井は低く抑えられ、照明は間接光だけで構成されていた。窓は大きいが、光を選択的に取り込むスクリーンが装備されている。

九条はメインキャビンを通り、リカバリールームに入った。アイスバスの設備、施術台、最小限の医療機器。床は防水素材。匂いは何もなかった。

次に防音の独立空間。壁と床と天井だけがある。音が、内側で止まる感触がある。

最後に機材保管庫。温湿度計のデジタル表示が、二十二度・四十五%を示していた。

九条は温湿度計を三秒間、見た。

甲板に出て、モナコの海を一度だけ見た。

「完璧だ」

それだけだった。

澪は胸の内で、何かがゆっくりと溶けていく感覚を覚えた。この三ヶ月——いや、正確には一年以上前からの全工程が、その二文字に集約された。

(よかった)

口には出なかった。プロとして当然の結果だ、という顔をしていた。

(本当に、よかった)


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URB製作室

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