0132.【Madrid Open | Semifinal】Ganaste

前夜の解析

 マドリードの夜は遅くまで騒がしい。

 ホテルの窓の下、広場のテラス席からギターの音と笑い声が断続的に上がってくる。九条雅臣はカーテンを閉めた。外の音はBGMにもならない、ただのノイズだった。

 スイートルームの中央に置かれたテーブルに、三人分のコーヒーが並んでいた。九条のカップだけ、減っていない。

「対戦成績、確認します」
 氷川がタブレットを開いた。画面には、エンソ・バルガスの今季試合データがスプレッドシートで展開されている。

「クレー勝率、八十三パーセント。マドリードでは過去三年、ベスト四以上をキープ。高地適性は明らかに平均を上回っています。サービスは武器じゃない、フォアハンドとフィジカルで試合を作るタイプ。長いラリーになるほど強くなる」

「わかってる」

「はい。なので次」
 氷川がスワイプする。画面が切り替わり、試合映像のサムネイルが並んだ。

「ラケット破壊の記録です。今季だけで六回。うち四回がファーストセット。そしてこれが問題で」
 氷川は一つの映像を再生した。バルガスがラケットをコートに叩きつける瞬間、審判がコードバイオレーションを宣告する瞬間、そして——次のポイント。

「破壊後のポイント取得率が、七十二パーセント」

 九条は画面を見た。数字は確かだった。

「感情的な反応の後に、一時的に集中が高まるケースは報告されている」

「そうですね。ただ、割合が高すぎる。偶然じゃないと思います。バルガスの母親を、調べたんですが」

「スポーツ心理学者だな」
 氷川が少し目を上げた。九条はすでに資料を読んでいた。

「ラケットを壊すことが、感情処理のプロトコルに組み込まれている可能性があります。学習された行動だとすれば、単純にペナルティとして計算するのは危険かもしれない」

「つまり」

「壊した後のバルガスは、リセット済みです」

 沈黙が落ちた。エアコンの低い音だけが続く。

 蓮見が、ソファの背もたれに深く沈み込んだまま口を開いた。

「わかりやすく言うと」
 全員が蓮見を見た。

「怒りを燃料にできる人間だ。爆発させて、燃やして、それで前に進む。お前とは逆だな、九条」
 九条は蓮見を見た。

「感情で動く選手はパターンが読める。怒りを感じたら壊す、壊したらリセットする、それが行動の予測軸になる。御し難い相手ではない」

「そうだな」
 蓮見の口調は同意していたが、目は違った。九条のどこか——顔でも手でもない、もう少し内側の何かを見ているような目だった。九条はそれに気づかなかった。

「弟が帯同してるらしいです。今大会も」
 氷川が補足した。

「試合中、スタンドで見ています。あの選手、弟に精神的に依存している傾向があって——といっても依存というより、弟が視界に入るだけで数値が安定する…そういう感じです」

「外部の冷却装置か」

「うまい表現ですね」

「弱点だ」
 九条はコーヒーカップを一度手に取り、置いた。

「自分の外側に安定の根拠を置く選手は、それを遮断すれば崩れる。弟の位置を把握しておけ」
 氷川がメモを打ち込んだ。

 蓮見は九条の方を一瞬見た後、もう何も言わなかった。ただ、手元のコーヒーを静かに飲みながら、窓の外のギターの音を聞いているようだった。

 ミーティングが終わったのは、日付が変わってからだった。

六百五十メートル

 マドリードの赤土は、他のクレーとは少し違う感触がある。

 高度六百五十メートル。空気が薄い分、ボールが伸びる。バウンドが低い。同じショットを打っても、パリやモンテカルロとは別の球が飛んでいく。九条はそれを、コートに入って最初のウォームアップの十分間で測り直した。毎年のことだった。

 バルガスはウォームアップから音を立てた。
 フォアハンドを打つたびに短い声が出る。スペイン語で何かを呟く。自分に言い聞かせているのか、コートに話しかけているのか、九条には判別できなかった。どちらにしても関係なかった。

 試合が始まった。

 第一セット、九条はまずフォアハンドの射程を測った。バルガスのフォアは確かに重い。高地でさらに伸びる。ただ、打点に入るまでの予備動作が一拍長い。そこを突けばいい。バックハンド側への展開を増やし、フォアを打たせない。単純な結論だったが、単純なことを正確に続けるのが九条の仕事だった。

 四ゲーム目。
 バルガスのフォアがサイドラインを割った。アンフォーストエラー。バルガスは振り抜いたラケットをそのまま地面に叩きつけた。赤土が跳ねた。審判が何か言う前に、バルガス自身が手を上げて審判に向いた。怒りではなく、確認するような動作だった。コードバイオレーション。警告。

 九条はベースラインに戻りながら、バルガスを見た。
 予測通りだった。壊す。リセットする。次のポイントに備える。氷川のデータが正確だったということだ。
 それ以上でも、それ以下でもなかった。

 第一セット、六対三。

 セット間のインターバル、九条はタオルで顔を拭きながらスタンドを一度だけ視線が流れた。チームの位置を確認する習慣だった。蓮見が腕を組んで座っている。氷川がタブレットを見ている。志水が立ったまま九条を見ている。

 その少し先に、見慣れない人間がいた。
 若い。バルガスに似た顔つきだが、もう少し線が細い。レオ・バルガス。九条は視線をすぐにコートに戻した。

 第二セットに入った。
 バルガスが変わっていた。
 フォアの振り抜きが早くなっている。ファーストサービスの確率が上がっている。リセット済み、と氷川が言った言葉の意味を、九条は数字で確認した。脅威ではない。ただ、予測が一段階複雑になった。対応を修正する。それだけのことだった。

 五ゲーム目。
 バルガスのバックハンドがネットに刺さった。続けてサービスがフォールト。セカンドサービスを九条がリターンエースで抜いた。ブレーク。

 バルガスは動かなかった。
 ラケットを握ったまま、数秒、コートのどこも見ていなかった。九条はその静止を観察した。次の行動を予測するための観察だった。バルガスはゆっくりと顔を上げた。

 スタンドを見た。

 九条の視界の端に、それが入った。
 レオ・バルガスが立ち上がっていた。何かを言ったのかもしれない。声は届かなかった。ただ、兄と目が合った瞬間、弟は片手を小さく上げた。それだけだった。

 バルガスがネックのグリップを握り直した。肩から力が抜けるのが、遠目でもわかった。

 九条はベースラインに戻った。
 今見たものを処理しようとした。感情的なノイズが一時的に収束した、という氷川の分析は正確だった。弟が視界に入れば安定する、という傾向も正確だった。

 ただ。
 なぜ、目が合っただけで。
 答えが出なかった。出ない理由も、わからなかった。九条はそれをファイルの端に追いやって、試合に戻った。

 第二セット、七対五。
 試合が終わった。

Ganaste

 ネット際で、バルガスが先に手を差し出した。
 汗で濡れた手だった。九条はそれを握った。

 バルガスは九条の目を真っ直ぐ見た。負けた選手の目ではなかった。疲れた目だったが、空ではなかった。

“Ganaste.”
 勝ったな、と言った。

 それから少し間を置いて、
“Pero… el calor que tienes, no es el de la altitud.”
 九条は言葉を受け取った。
 意味は、取れた。


 お前の持つ熱は、高地のせいじゃない。

 何を言われたのか、わからなかった。バルガスが自分の何を見て、そう判断したのか。「熱」が何を指しているのか。九条には参照できるものが何もなかった。

 バルガスはすでに踵を返していた。スタンドに向かって歩いていく。レオが一段、また一段と降りてきていた。

 九条は自分の右手を一度だけ見た。
 少し熱かった。
 試合の疲労だと、思った。

廊下で

 コートの出口に、蓮見が立っていた。
 スタンドから降りてきたのか、腕を組んで壁にもたれていた。スタッフ用の通路で、照明が一段暗い。九条が近づいても、蓮見は動かなかった。

「お疲れ」
「ああ」

 九条は立ち止まらなかった。蓮見が並んで歩き始めた。

「バルガス、試合前の取材で何か言ってたな」と蓮見が言った。「自分の長所を聞かれて、頭が良いことだって」

「見た」

「あいつは間違ってないな」

 九条は前を向いたまま歩いた。

「クレーの読みが正確だったということだ。高地の適応も早かった」

「そうだな」

 蓮見の相槌は、同意の形をしていなかった。

 九条は蓮見を見た。蓮見は前を向いていた。何かを確認し終えたような顔だった。

「何が言いたい」

「別に」

 廊下の角で、蓮見は足を止めた。ロッカールームは直進だった。

「お前が勝ったのは事実だ。お疲れ」
 それだけ言って、蓮見は別の方向に折れた。

 九条はしばらくその場に立っていた。
 何かを言われた気がした。何を言われたのか、わからなかった。蓮見の言葉を反芻したが、引っかかる箇所が見つからなかった。バルガスの頭の良さ、それは九条もすでに評価済みだった。新しい情報ではない。

 九条はロッカールームへ向かった。
 廊下の照明が、一歩ごとに足元を照らした。

志水の手

 ロッカールームは静かだった。
 他の選手はすでに引き上げていた。シャワーの音もない。九条が入ると、志水が隅のベンチに道具を広げて待っていた。アイスパック、テーピング、マッサージオイル。毎試合後と同じ配置だった。

「念入りにやってくれ」
 九条はウェアのジッパーを引き下ろしながら言った。

「高地で二セット動いた。熱が溜まってる」

「はい」
 志水は短く答えて、アイスパックを手に取った。

 九条はベンチに腰を下ろし、上体を起こしたまま目を閉じた。左膝にアイスパックが当たる。冷たさが皮膚から入ってくる。

 志水は何も言わなかった。
 アイシングの時間、志水は九条の足首の状態を指で確認しながら、どこも見ていないような目をしていた。腫れはない、熱感はどうか、可動域はどうか。手が仕事をしている間、顔は静かだった。

 十五分後、アイシングが終わった。
 志水がオイルを手に伸ばした。ふくらはぎから始めて、腿、腰、肩へと順番に進んでいく。力の入れ方が試合後の疲労に合わせてある。九条の体のことを、九条以上に記憶している人間だった。

 肩甲骨の内側に親指が入った瞬間、九条の呼吸が一拍浅くなった。

 志水の手が止まった。

「続けろ」
 九条は言った。

 志水は続けた。
 何かが詰まっているような場所だった。筋肉ではない。志水の手はそこを感じ取りながら、ただ丁寧に解いていった。聞かなかった。原因を探らなかった。九条の体が持ち込んだものを、九条の体に返す。それだけをした。

 最後に可動域の確認で肩を大きく回した。九条は抵抗せずに従った。

「終わりました」

「ああ。助かる」

 九条はゆっくりと立ち上がった。体が少し軽くなっていた。熱は、まだどこかにあった。

 志水が道具を片付け始めた。九条はウェアを羽織り、扉に向かった。

「九条さん」
 志水が呼んだ。

 九条は振り向かなかった。

「明日も同じ時間でいいですか」
 準決勝が終わった。明日は決勝だった。

「ああ」
 九条は扉を押した。廊下に出た。

 マドリードの夜はまだ続いていた。窓のない廊下に、外の音は届かなかった。
 右手が、まだ少し熱かった。

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URB製作室

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