Scene 12|エルクル港近くの路地、夜
その日の夜、全ての手続きが完了したのは午後九時を回ったころだった。
造船所側の代理人との最終書類確認、引き渡し証明、九条名義への正式な所有権移転。一つ一つを処理し終えると、澪は宿に戻る前に港の近くのデパニュに立ち寄った。
冷えたガス入りのミネラルウォーターを一本買い、店の外のベンチに座った。
モナコの夜の海が、街の灯りを反射してぼんやりと光っていた。
澪はボトルの蓋を開けて一口飲み、空を仰いだ。
胃が、久しぶりに「空腹」を主張していた。ここ数日、何を食べたか正確に思い出せなかった。プレッシャーの最中は、食欲が消える。それが澪の癖だった。
(通った。全部通った)
コワルスキとの交渉——工具が飛んでくる工場で、ヘルメット越しに頭をぶつけながら寸法を測った日。会議室で九条に「造船所の不良在庫に俺を使う気か」と切り込まれた瞬間。貸出条項を切り出して、九条が即座に「断る」と言った一秒間。
(あの一秒は、長かった)
氷川が入ってくれなければ、あそこで全部崩れていた。それは澪にとって、珍しい「感謝」の記憶として残っていた。
ミネラルウォーターを飲み干し、澪はベンチから立ち上がった。明日の朝一の便でチューリッヒ経由、翌日に成田着。帰ったら有本に報告書を——
「綾瀬さん」
声がした。
振り向くと、氷川が立っていた。手にはコーヒーの紙カップ。いつの間に来たのか、気配がなかった。
「……氷川さん」
「最終書類の控えをお渡ししようと思っていました。すみません、遅くなって」
氷川は封筒を差し出し、受け取るのを確認してから、少し間を置いた。
澪はその間を、「話がある」の意味だと読んだ。
「……何かありますか」
「一点だけ」
氷川は港に視線を向けたまま言った。
「代表は『完璧だ』とだけ言って帰りましたが、三秒、機材保管庫の温湿度計を見ていました。代表にとって、三秒は長い確認時間です。あれは、文句のつけどころがなかったということです」
「……ありがとうございます」
「もう一点、別の話をさせてください」
氷川は初めて、澪の方を見た。
「あなたは今回の件で、こちらに一度も泣き言を言いませんでしたね。コロナによる遅延、グダニスクでの交渉、スワップの契約変更——全ての過程で」
「それは仕事の話なので、解決してからでないと言えません」
「そうですね」
氷川は一拍置いてから、続けた。
「今回のスキームの難易度を正確に理解しているのは、チームでは私だけです。あなたが造船所を動かし、展示艇を九条仕様に書き換え、貸出条項という爆弾を会議室で切り出した——その全工程に要した交渉力と知恵の量は、並の仕事ではない」
澪は何も言わなかった。
「そして」氷川の声がわずかに低くなった。「おそらくあなたの上層部は、この案件の結果だけを受け取って、次の大型案件にベテランを充てるか、あなたをサポートに追いやるかの判断を始めているはずです。今回もそうしようとしましたね」
澪は視線を変えなかった。
「実績が積み重なるほど、それは繰り返されます。組織というのはそういうものです」
氷川は内ポケットに手を入れた。名刺が出てきた。今日すでに一度渡している、はずだ。でもこれは別の一枚だった。
「チーム九条に来ませんか」
澪は、今度こそ言葉を失った。
「現在の報酬の三倍を基準に契約します。役職は専属エージェントではなく、正式なチームメンバーとしての位置付けです。担当領域は、アセットマネジメントとプロジェクトコーディネート。遠征帯同の機会も発生しますが、全ての費用はチームが負担します」
「……」
「うちのチームでは、手柄は担当者のものです。あなたが動かした交渉は、あなたの実績として記録されます。そして——」
氷川は少し間を取った。
「あなたの代わりは、いません。今回の件でそれは明らかになりました」
澪は名刺を受け取ったまま、しばらく動かなかった。
(……え)
頭が一拍、止まった。
プレゼンの想定問答は二十パターン作っていた。造船所への説得ロジックは三通り準備していた。
でもこれは、準備していなかった。
氷川は澪の顔を一度確認して、ほんの少し、目尻の線が変わった。
「即答はいりません。一週間、考えてください。連絡先は名刺に」
それだけ言って、氷川は振り返り、桟橋の入口に向かって歩き出した。黒いタイカンがそこに待っていた。藤代が後部ドアを開ける。氷川が乗り込む。
エンジン音がない。モーターの低い振動だけが地面を伝って、そして消えた。
澪はベンチに座ったまま、名刺を見ていた。
夜のエルクル港に、自分一人が取り残されていた。
Sunreef 80 Eco——完成した船が、波に揺れながら静かに浮いていた。
(三倍)
数字は数字だ。でもそれより、「あなたの代わりはいない」という一言の方が、澪の中でしばらく音を持って響き続けた。
組織の中で長く働いてきて、その言葉を真顔で言われたのは、初めてだった。
(……どうする)
答えは出なかった。
澪はしばらくそのまま座っていて、ふと我に返った。
「……あ、帰国しないと」
呟いた。声に出たのが自分でも少し意外だった。
彼女は立ち上がり、名刺をコートの内ポケットに入れた。
モナコの夜風が港を吹き抜けた。
足元に、船の影が長く伸びていた。
一週間後
澪はスマートフォンを持ったまま、三分ほど画面を見つめていた。
氷川尚登。チーム九条。
名刺の文字はとっくに暗記していたが、それでも一度だけ確認してから、発信した。
二コール。
「氷川です」
「……山田澪です。先日はありがとうございました」
「お待ちしていました」
声に感情はない。でも、それが氷川の通常だということは、一週間前で学んだ。
澪は少しだけ息を整えてから、言った。
「お断りします」
間があった。
「理由を聞かせていただけますか」
「遠征への帯同は、今の仕事と両立できません。チームに正式参加するとなると、九条選手のスケジュールに合わせて動くことになる。それは今の職場への不義理になります」
「……なるほど」
「ただ」と澪は続けた。「ヨットのアフターサポートは、引き続きやらせてください。機材管理、現地調整——遠征に帯同しなくても、できることはあります。九条選手があの艇に乗る限りは、責任を持ちたいと思っています」
しばらく、氷川は黙っていた。
「わかりました」
「……怒っていますか」
「いいえ」即答だった。「ただ、一つだけ」
「……はい」
「考えが変わるときは、最初に連絡をください」
澪はしばらく、何も言えなかった。
「…………はい」
電話が切れた。
澪はスマートフォンを机に置いて、少しだけ天井を見た。
(考えが変わるとき、か)
断ったのに、なぜかそちらの方に現実感があった。
——Episode 1「三年と一隻」 了——
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