0003.「三年と一隻」― 迂回路

Scene 5|横浜オフィス、2020年3月——通達

世界が止まった、と気づく前に、氷川からメールが届いた。

件名に余分な言葉はなかった。「納期について」。

澪は開封する前に、一秒だけ息を止めた。

内容は三行だった。

『Sunreef社より、電子部品の調達遅延による工程見直しの連絡が入りました。完工時期が当初予定より大幅に後退する可能性があるとのことです。九条より確認がございます。現時点での見込みを、本日中にご連絡ください』

澪は「本日中に」という言葉を目で追った。

ヤンに電話した。繋がるまでに五回かかった。

「Ayase-san、実は——」

「完工の見込みを正直に教えてください」

「……現時点では、二〇二二年の中頃から後半になると思います。部品待ちで主要ラインが止まっています」

「二〇二二年」

「申し訳ない。コロナは誰も予測できなかった——」

「わかりました。ありがとうございます」

電話を切り、澪は氷川への返信を書いた。現状の数字だけを並べた。遅延の原因、見込み、現在取り得る選択肢の整理中である旨。感情的な謝罪は一行も入れなかった。謝罪は問題を解決しない。

返信は三十分後に来た。

今度は件名が違った。「九条より」。

『契約書に定められた完工期限は二〇二一年二月です。それが守られない場合、弊社としては契約不履行として対処します。状況の如何にかかわらず、当初の合意事項に変更が生じるのであれば、契約の白紙撤回も選択肢として検討します』

澪はその文面を、二回読んだ。

二回目を読み終えたとき、胃の奥で何かが冷たくなった。

(コロナだから仕方ない、とは一言も書いていない)

当然だ、と澪は思った。顧客は世界情勢に共感するために発注したわけではない。完工期限という数字に対して対価を支払った。その数字が守られないなら、契約の意味がない——九条の論理は、その一点において完全に正しかった。

だから澪は、その論理を責める気にも、理不尽だと憤る気にも、なれなかった。

ただ——

(解決策がない状態で謝っても無意味だ。今すぐ代替案を作れ)

澪はコーヒーカップを脇に押しやり、スプレッドシートを開いた。新しいシートを作った。タイトルは「オプションB」。

タイピングを始めながら、胃の冷たさをそのままにしておいた。それは焦りではなく、燃料だと思うことにした。


Scene 6|横浜オフィス、2020年2月〜4月

最初のシグナルは、二月の下旬に来た。

「ジャパンインターナショナルボートショー2020」——三月五日から八日、横浜パシフィコで開催予定だったそのイベントが、二月十九日に突然中止を発表した。理由は「新型コロナウイルス感染拡大への対応」。澪は業界チャンネルのニュースアラートでそれを知り、三十秒だけ画面を見つめた。

(国内最大のボートショーが、ギリギリまで準備して中止になった)

理由はわかる。感染リスクだ。密閉空間に大勢の富裕層が集まるイベントは、今この状況では無理だ。

しかし澪が考えていたのは、来場者への配慮ではなかった。

(ショーのために用意した展示艇は、どこに行くのか)

澪はスプレッドシートを開き、国内外のヨットショーの予定一覧をスクロールした。三月のデュッセルドルフ。四月のマイアミ。九月のモナコ——。

各社、今年度の展示向けに仕上げていた船があるはずだ。それらが今、宙に浮いている。

彼女はヤンに短いメールを送った。

「国内ボートショーの相次ぐ中止を受け、展示向けに進行中だった艇の状況について確認させてください。特にモナコショー(9月予定)向けの80 Ecoについて、現在の完成度はいかがでしょうか」

返信は二日後だった。

「Ayase-san……よく気づきましたね。実は今、頭を抱えています。九月のモナコ向けに張り切って進めていた80 Ecoですが、船体と主要システムはほぼ完成しています。内装はまだ手付かずです。ショーが中止になれば、そのまま在庫になります」

澪はその一行を読んで、コーヒーカップを置いた。

三月に入ると、欧州全土が止まった。

イタリア、フランス、スペイン。工場が閉まり、港が機能を失い、航空路線が消えた。グダニスクもロックダウンに入り、Sunreef本社の稼働が大幅に縮小した。

四月上旬、ヤンからのメールが届いた。

「Ayase-san、厳しいことをお伝えしなければなりません。九条様の艇の電子制御部品の調達が止まっています。本社の製造ラインの人員も三分の一に減少しています。現状のペースでは、完工時期を二〇二二年の後半まで延長せざるを得ないかもしれません」

澪はそのメールを三回読んだ。

三回目を読み終えたとき、既に開いていたスプレッドシートに、新しいシートを追加した。

タイトルは「オプションB」。

『展示艇:ハル+システム完成済み。内装未着工。モナコショー中止の可能性=九十%超』
『九条用カスタム艇:着工段階。電子部品調達停止。完工2022年後半へ延伸確定的』
『スワップの可能性:展示艇を九条用に転用。九条用着工分を2021年展示用に転用』

三行を十秒間見つめた。

法的には、当事者間の合意があれば覚書一枚で処理できる。造船所のメリットは明快だ——在庫が即座に売上に変わり、九条用の着工分は来年の展示用に流用できる。資金繰りが改善する。九条側のメリット——遅延なし。ハルと心臓部はすでに完成している展示艇を使うため、納期が大幅に短縮する。

問題は一点だけだ。

九条は、他人が「展示予定だった」船を受け入れるか。

澪はペンを止めた。

(……その点は、プレゼン次第だ)

彼女はメモを伏せて、氷川への連絡メールの草稿を開いた。


Scene 7|横浜・自宅および国内造船所、2020年4〜5月

ロックダウンが一部緩和されたタイミングで飛ぶ、という選択肢は、最初から存在しなかった。

日本は緊急事態宣言の最中だった。欧州、特にポーランドはシェンゲン協定域外からの入国を実質封鎖していた。そもそも澪が無症状でもグダニスクに乗り込んだとして、九条陣営との商談に戻ることは許されない。アスリートのトレーニング環境に、自分が感染源になるリスクを持ち込むことは、プロとしてあり得ない選択だった。

だから澪は、画面越しで戦った。

日本とポーランドの時差は七時間。ヤンとの通話は深夜か早朝にしかつながらない。部品調達先の確認のために台湾の窓口に当たれば、今度は時差が一時間。ヤンとは高速のビジネス英語で、台湾・中国の工場担当者とは中国語で直接やり取りした。一次情報を翻訳待ちにする時間は、今の澪には一日も惜しかった。

二週間、澪はほとんど事務所の仮眠室に寝泊まりした。

「Ayase-san、上長からの承認、取れました」

ヤンが画面の中で言ったのは、五月の第一週だった。時刻は日本時間の午前二時すぎ。

「ハルの識別番号の差し替え手続きと、覚書の雛型について確認させてください。私の側で弁護士を通して草案を作ります。御社の法務がチェックできる状態で送ります」

「わかりました。ありがとうございます、Ayase-san」

「ヤンさん、もう一点」

澪はメモを手元に引き寄せた。

「右舷と左舷のゾーニング変更を前提に内装を設計したいのですが、現在の展示艇の隔壁の正確な位置と、各コンパートメントの内寸を確認したいです。図面を共有いただけますか」

「もちろんです。ただ……実際に船の中に入って計測した方が確実ですよ。図面と実測は誤差が出ることがあります」

「国内に同型の艇はありますか。カタマランで、できれば同じ80クラス」

ヤンは少し考えてから言った。

「横浜に、同型に近い別オーナーの艇が停泊していると思います。オーナーに連絡を取ってみましょうか」

「……お願いします」

その翌週、澪は横浜の係留施設に一人で向かった。

許可を取り付けた他オーナーの艇は、確かに似た構造をしていた。澪はメジャーとスケッチブックを持ち込み、左舷ハルの三部屋を這いつくばって計測した。天井高。隔壁の厚み。給排水管の位置。既存の照明配線の取り回し。

コンパートメントの一つに入ったとき、天井の低い部分に額をぶつけた。

ヘルメットは被っていなかった。

(……痛い)

声には出さなかった。スケッチブックに数字を書き込み続けた。

オーナー代理の管理人が横から声をかけてきた。

「大丈夫ですか? 出血してますよ」

「問題ありません。ここの給排水管、この位置で合ってますか」

「……はい。でもあの、本当に出血が」

「メジャーを押さえてもらえますか。数字を確認したいので」

管理人は一瞬だけ澪の顔を見て、黙ってメジャーの端を持った。

三時間後、澪は全ての数字を手に入れた。

船を出るとき、額の傷に絆創膏を貼りながら、澪は内心でヤンの言葉を思い出した。

「Ayase-san、あなたは小さいのに、すごく怖い人だ」

(……そうかもしれない)

正確な数字があれば、九条を説得できる。そのためなら這いつくばって計測する。それだけのことだ。

その夜、澪は右舷/左舷の完全ゾーニング案を設計図に落とし込み、ヤンにデータを送った。


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URB製作室

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