50.2月1日(土)午後〜夜

♢澪 帰り道♢

カフェで時間を潰していたら、意外と早く連絡があった。

(もう終わったんだ。早いな)

これは、戻ってからゆっくりする時間がある。

とは言っても、戻ってから何を話そう。

朝、私からの提案を彼は引き受けると言った。

そこまでは決まったけど、そのあとどうするかを話し合ってない。

いつまで、九条さんが日本にいられるのかも分からない。

この滞在期間の間に、どこまで進めるか、それすらも不明瞭。

予定を立てたところで、その通りに進められるわけがないから、お互いの様子を見つつ進めていこうってことなのかも。

ただ、気になってるのが初日に私だけ満足して寝てしまったこと。

今までそんなこと一回もなかったから、ほんと申し訳ないというか。そういう視覚的な楽しみを持っている人もいるのか?って疑問。

いやでも健康的な男性だったら普通しんどいよね。そんな理由でするなんてプライドが許さないとか?…はあり得るな。うん、あり得る。

ってことは、私が意地はっちゃ駄目なんだ。すぐ粋がって意地はっちゃうけど、それじゃ駄目なんだ。それをしたら、多分彼は見抜いて意地悪してくる。

「したい」って言われるまで絶対迫らない。初日でその傾向は掴めた。私がしたがらない日は触ってこない。でも「したい」って言ったら、それがトリガーになって切り替わる。

時間は、夕方4時前。明日休み。

月曜からは仕事がある。彼もいつまでも休みじゃない。

時間を大事にしないと。

(帰ったらシャワー浴びよう)

例によって氷川さんにエレベーターで上の階まで連れてきてもらい(毎回頼むの申し訳ないからカードキーの予備もらおうかな)、玄関ホールに帰ってきた。

今日はなんとなく、脱いだヒールをシュークローゼットにしまった。本当になんとなく。いつまでも床に置いておくのも邪魔な気がして。

スリッパを履いて、一旦リビングへ。やっぱりソファに座ってた。でも今日はコーヒー飲んでるし、タブレット見てた。ちょっとずつ、私がいても自分の時間を過ごせるようになってきたみたい。

私が帰ってきても、タブレットから視線を上げないなんてことはない。画面を閉じて、こっちを見る。

服装が黒のロンTだった。下はラフだけど綺麗めなズボン。朝と服装が違うから、先にお風呂は済ませたみたいだ。初日の夜よりも楽そうな服着てるってことは、少し気を許してくれたってことかな。

「ただいま。本屋さん行ってきた。荷物置いて、シャワー浴びてきていい?」

「浴びろ」

なんか、ちょっと声の温度が少しだけ上がってる気がする。返事も「ああ」とか無言じゃなくて「浴びろ」って。

…いや、あんまり考えすぎるのやめよ。精神的に追い詰められる、いや追い上げられる?逃げ場のない場所へ少しずつ追いやられていく、初日に味わったあの感覚。

今はあの時みたいな肌にビリビリ来るような圧は全然感じない。でも、完全に凪でもない。完全に消えてない暖炉の火みたいな。熱を感じるんだけど、燃えてない。

ゲストルームに荷物を置いて、コートを脱ぐ。すっかりこの部屋は私の部屋って感じになった。過ごしやすい。ベッドルームもバスルームも、綺麗に清掃されている。

シーツも交換済み。個人で毎日清掃とシーツ交換が来るってどんな生活だ。

洗面を見ると、水滴1つもない。アメニティー類も、私が持ち込んだ化粧品もラベルが綺麗にこっち向いてる。

髪を後ろで纏めて、メイクから先に落とす。多分、終わったら朝までまた寝てしまう。元々そんなに夜更かししないし。睡眠のリズムを崩すと肌に出るし、最悪それが続くと体の周期が狂う。

この家は、食事のバランスも良いし、寝具が良いから割と調子がいい。元の生活に戻った時、自炊するの面倒になりそうだ。こっちにいる間もちょっとぐらいはやったほうが良いかも。

外食の料理は美味しいけど、続くとちょっと胃が疲れる。素朴な一般家庭料理が食べたくなる、私は所詮庶民だから。

メイクを落とし終えて、服を全部脱いで、纏めておく。服をクリーニングに出すことにも慣れた。でも洗濯機あるし、洗剤も用意してくれたから、多少は自分で洗っても良いかも。

お金持ちの生活の良いところは、選択肢が広がることだ。選べる。自分でしてもいいし、人にやってもらってもいい。お金がなかったら、否応なくお金がかからない方法を選ぶしかない。それしか選べない。

人生はお金が全て、とまでは思わないけど、あるに越したことはない。残念ながら、それは事実だ。

貧困は、安全や健康すら犠牲にするしかなくなる。

今日はバスタブにお湯は貯めず、シャワーだけで済ませる。頭からシャワーを浴びながら、考え事をしてしまう。一人になるといつもそうだ。ずっと何かを考えてる。全く何も考えない時間って、私にはなかなか無い。

ボディソープの香りが気持ちを落ち着けて…くれるかどうかは分からない。今日はジャスミンの香りにした。リラックス、というよりは他の効能に期待して。もちろんリラックスも出来るけど。

香りってそれだけで気分を変えたり、体の状態まで変えてくれる。不思議だ。

シャンプーもトリートメントも香りがしないから、体の方は香りを楽しみたい。

シャワーを止めて、タオルで髪や体を拭いて、鏡を見る。

…どこも変じゃない、よね?

自分ではない誰かのために、自分を整えるなんて作業は嫌いだった。美容もオシャレも自分のためにやること。どうして自分以外の人のためにやらなければならない?仕事ならまだしも、プライベートで。

そう思ってたのに。今もそこに変わりはないのに、なんとなく彼にどう思われるかを気にしてしまってる自分がいる。自分一人の時のペースを守れない。

自分一人のことだけ考えてるほうが、心は楽だった。人に好かれるとか嫌われるとか、もうそんなこと気にしないで生きていたいのに。

彼に引かれたらどうしよう、なんて考えてる自分がいる。

…弱くて嫌だ。

人を好きになるとこんなに弱くなるんだな、私。

でも好きなんて言わない。付き合ってとか、言わない。言えない。

いつまでも日本にいるわけじゃない。常に世界中飛び回って移動してる。普通の人の感覚とは違う。

だからこれは、今だけの契約。小賢しい嘘。

機械みたいなあなたは嘘をつかないけど、人間は嘘をつく。

気付かないで。

深呼吸して、ドライヤーのスイッチを入れた。

お風呂上がりの支度を終えて、いい匂いがしたからキッチンの方へ行った。

九条さんが夜ご飯の用意してた。ドライヤーの音聞いて準備してくれてたのかな。

今日は食事の用意をしてくれる人が来てたらしいから、手作り感があった。でもさすがプロ。栄養バランス良さそうな綺麗な色合いの料理ばっかりだ。

サーモン、温野菜、スープ、全部健康的で美味しそう。あっためて食べられるようにしてくれてたみたい。

「食うぞ」

率直。

「…うん」

ちょっと一瞬ドキッとした。

それを落ち着けるために、グラスに入ってたお水を飲んだ。

食卓についてからも、ちょっと緊張してた。食事は美味しい。味は分かる。でも心がソワソワする。

初めてでもあるまいし、何をそんなに緊張してるのか…って思っちゃうんだけど、初めてみたいなものだ。こんな感情になったこと、人生で一度もないんだから。

正直どうしたらいいのか分からない。いつももっと余裕あったはずなのに。

「今日ね、本屋さんで昔読んだ絵本見つけてさ、買っちゃった。タイトル分からなくて、忘れちゃってたんだよね。オチとか無いし、何を言いたいのか分からないんだけど、なんか記憶に残ってたやつ」

「そうか」

一応聞いてくれてる。

土曜日でカフェが混んでたとか、カプチーノ飲んだんだけどハートの絵が描いてあって可愛かったとか、そういう他愛のない話を頑張ってした。

返事はいつも通り端的。ああ、とかそうか、とか。

言葉が少ないのはいつも通りだけど、なんか空間に流れる空気が違うって感じてるのは私だけなのか。

◆九条視点

澪は、時折こちらをそっと見た。

彼はスプーンを口に運びながら、その視線を受け止めつつ、何も表情を変えなかった。

(緊張しているな)

話題は軽いものだ。本屋、カフェ、絵本。

彼女なりに場を和ませようとしているのだろう。だが、言葉の端々に微かな固さがあった。

指先の動き、声の調子、呼吸のリズム。

九条はそれを見逃さない。

(無理をしなくてもいいのに)

心の奥でそう思いながらも、言葉にはしなかった。

指摘すれば、彼女はもっと気を張る。そういう人間だと分かっていた。

彼はただ、淡々とスープを口に運び、目の前の料理を味わいながら、彼女の緊張を静かに観察していた。

♢澪視点

食事してる間も、お腹の奥がちょっとソワソワしてた。呼吸が少し落ち着かない。変な顔してないといいけどな。

料理は全部美味しかった。作り方知りたいくらい。ただ、その感想が出てこないくらいには、緊張してた。

(もうやだ。私結構な年齢なんだけどな)

思春期の女の子じゃあるまいし、と思いながら、どうしても心が鎮まらなかった。

ちらっと九条さんの方を見ても、至って平常心でスープを飲んでるようにしか見えない。

…こんな緊張してるの私だけ?

私からした提案のはずなのに、なんで私が緊張してるんだろ。

「片付け、私やるね」

昨日は色々と九条さんがやってくれたから、今日は私もちょっとは働かないと。

というか動いてないと落ち着かない。業者の人が回収とかやってくれるにしても、片付けくらいはやる。

「任せる」

そういって、彼は席を外した。

なかなか戻ってこない。

(どこ行ったんだろ?)

そう思いながら、ちょっと緊張がマシになった。今のうちに心を落ち着ける。

食べ終わった食器やカトラリー類を集めて、シンクに持っていく。食洗機があるから、それに洗ってもらおう。

広い庫内に、二人分の食器はスペースが余るくらいだ。予洗いが必要な汚れは落として、お皿を慎重に食洗機に入れていく。

高そうだから、割りたくない。今まで割ったことなんて無いけど、今日は特殊な心境だから、そういうヘマをやらかしそう。

深く息を吐いた。落ち着け。気にしすぎるな。今やってることに集中して。

食洗機をセットするだけだから、割と片付けはすぐ終わった。テーブルはほとんど汚れてないけど、なんとなく拭いておく。明日、清掃業者さんが入るんだったら、もっと綺麗にしてくれるけど。

濡れた手を拭いてると、九条さんが戻ってきた。

「…」

なんか、思い当たることがあった。

私も行ってこよ。

何も言わずに洗面の方へ行った。ゲストルームじゃなくて、メインの方の洗面。カランが濡れていた。明らかに今さっき使ってる。

ガラスのコップも濡れていた。

こんな落としたら割れそうな場所なのにガラスのコップを置いてるあたりセレブの価値観よ。プラスチックのコップなんて不衛生なの絶対置かないんだろうな。

私は自分の歯ブラシがゲストルームの方にあるから、そっちで歯を磨いた。

極端な潔癖症ではないと思うけど、こういうのはちゃんとしないと無理。ムードとか流れより清潔感。それが無いと嫌悪感が勝つ。

歯磨きしたらちょっと頭もスッキリした。

リビングのソファのところに戻ったら、九条さん座ってた。

もう空気が違う。肌がビリビリする。あの感じ。

でも今日は、初日より少しだけ慣れた。

目が合った。

「来い」って言う視線。昼間と全然違う。交戦的な視線。

(私も準備してきたよ)

この人、何も言わずに自分だけ準備済ませてるからな。

朝の提案の返事の結果。見せてくれるってことなのかな。

近寄って、彼の足の間に立つ形になる。距離が近い。

顔も、体も熱を持ってくる。

「…ねえ、ご飯食べてる間、もしかしてバレてた?」

緊張してるの。ずっとドキドキしてたの。

「分かってた」

ですよね。

「…ずるい。私だけ緊張して…」

「役割分担だ」

そんな役割分担ある?そっちだけずるくない?

ちょっとむくれたのが分かったのか、頬に大きな手を当ててくる。温かい。体温が高い。でも肌がサラサラしてるのはなんでなんだろ。

もう片方の手は、腰に回される。逃げ道を塞ぐように。

「もう1つ、お願いがある」

朝の提案に加えてもう1つ。

「聞く」

吸い寄せられるように、彼の肩に手を置いた。

「………名前で呼んでもいい?」

もう、苗字で呼ぶのやだ。

彼の瞳がわずかに細まった。

沈黙。

そのまま腰に回していた手の力が、ごくわずかだけ強まる。

まるで“逃げられるとでも?”と無言で言われたような感覚。

そして低い声が落ちる。

「――許可する」

短く、淡々と。

けれど、言葉の奥には、昼間とはまるで違う温度があった。

そのまま彼の手が、ゆっくりと背を撫で上げる。

呼吸が、少しだけ荒くなる気がした。

「雅臣さん」

小さな声でそう呼んで、自分からキスをした。

首に腕を回し、柔らかく開いた唇の隙間に、彼の舌が静かに入り込んでくる。

ミントの香り。柔らかさ。でも、生々しい動き。

無意識に、太ももに力が入った。

心臓の音が耳の奥でゴンゴン響く。

(今日は……私からも押してみたい)

思い切って舌を絡めにいく。

でもすぐに、絡め取られる。

「……っ、ん……」

奥まで深く、強く。息が詰まって、肩が震えた。

後ろに引こうとしたら、後頭部を優しく、でも絶対逃がさない力で固定される。

熱い、喉の奥まで侵食されるような感覚。

唇が濡れた音を立て、下唇がそっと甘噛みされたとき、

びくっと背筋が跳ねた。

「……っ!」

反射的に肩を押し返そうとするけど、腰を引き寄せられて密着する。

お腹の奥が、きゅっと疼いた。

「……っ、は……」

やっと離れた唇から、喉の奥で溜まっていた息が一気に溢れた。

熱い、唇がじんじんする。

見上げた先、すぐ近くの彼の瞳。

真っ直ぐに、澄んだ光で、私だけを見てくる。

(……綺麗。ずるい、そんな目……)

「……勝てると思ったか。」

耳元に低い声が落ちた瞬間、ぞくっと背筋がしびれる。

視線を逸らせないまま、ほんの少しだけ頷いてしまった。

顔が熱い。額が、うっすら汗ばんでいるのが分かる。

(負けた……でも、いやじゃない……)

ちょっと悔しいから、睨みながらぼそっと言った。

「……寝室行く」

前は連れて行かれたけど、今日は自分で行くって思ったのに。

背中に回された手、太ももの裏に入るもう片方の手――

「きゃっ!」

短い悲鳴が出る間に、彼が立ち上がる。

肩に担がれたと気づいた瞬間、心臓が跳ねた。

視線が高い。天井が近い。

(こんな高さで世界見てるんだ、この人……)

「ちょっとっ、何この抱き方……!」

「そのほうが通りやすい」

淡々と頭の横で響く声に、ぐっと悔しさを覚える。

確かに、抱っこだとドア通れないし、ドアノブ触れない。

「荷物じゃないんだから……!」と小さく抗議すると、肩越しに、

「ふっ」と短く笑った気配がした。

(余裕すぎる……ずるい……)

視界が揺れ、体がふわっと浮く感覚。

頭がぼうっとして、顔が熱くなる。

扉の前に着いても立ち止まらず、天井まで一枚のドアが静かに開く。

「ちょっと……頭ぶつけないでよ……」

「ぶつけない」

短い返事。でもそれだけで、変に信じられるのが悔しい。

———

ベッドに下ろされるとき、驚くほど優しかった。

頭に衝撃がこないように支えながら、慎重に。

(ずるい、こういうとこ……)

ベッドの上、シーツが沈み込む感覚。顔が熱い。絶対赤くなってる。

真正面から覆いかぶさってきて、視線を交わす。

「今日は、私だけ脱がさないでね……ちゃんと、最後までしよ……」

低く小さく、でも震える声でそう言うと、彼は何も答えず、でも――聞こえたのが分かった。

左手だけでパジャマのボタンを外してくる。

布と布が擦れる音、急に空気が触れる感覚。

「……っ、ん」

小さな息が漏れて、自分でびっくりする。

片方ずつ、袖から腕を抜かれていく感覚。

普段の着替えと違う、背中がじわっと熱くなるような感覚。

最後に、腰の布地をゆっくり引かれたとき、

心臓がドクンと跳ねて、耳の奥で大きな音が響いた。

(ああ……もう、戻れない……)

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URB製作室

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