27.それでも、俺は打った — 【Australian Open 2025】, Quarterfinal round / Yuto Shigure Side Story

控え室の扉が、静かに閉まる音がした。

ほんの数秒前まで、数万人の視線と拍手の中にいたとは思えないほど、ここは静かだった。
空調の音すら聞こえない。壁の厚さが、世界との境界線になっているようだった。

時雨悠人は、スツールに座り、ラケットバッグを足元に置いた。
まだ汗が引いていない。
ユニフォームの背中が冷たくなっていく感覚だけが、今が“試合後”であることを教えてくれる。

――壊されていない。

まず、それだけを確認した。

感情も、意志も、フォームも、試合前の自分と何ひとつ変わっていない。
負けたのに。セットを一本も取れなかったのに。

それでも、自分は無事だった。
彼は、壊しにこなかった。

壊すことに、興味がないのだと思った。

テニスを始めた頃から、“上に行くには誰かを倒すしかない”と教えられてきた。
奪う。支配する。打ち負かす。
でも今日、コートの向こうにいたあの人は、違った。

あの人は、勝つために誰かを否定しない。

そもそも、勝ち負けを相手との関係で決めていない。

ただ、正しい手順で、正しい場所にボールを送る。
それが彼の試合だった。

彼の目には、相手も、ラリーも、得点も映っていないのかもしれない。
彼が見ていたのは、きっと“完了された未来”だけだった。
その未来へ向かって、淡々と処理を繰り返しているだけのようだった。

……なら、自分は何をしていたんだろう?

あんなにも手を伸ばして、必死に追いかけて、
読み合って、反応して、タイミングをずらして、
打って、走って、

——何度も“届かせよう”とした。

観客に?
世界に?

いや、違う。
あの人に。

でも、届かなかった。

最初からわかっていたことだ。
あの人は、“届くように設計されていない”。

それでも、俺は打った。

誰かにではなく、自分自身に向けて。

この試合を、未来で思い出せたとき、
“あのときの俺は、ちゃんと人間だった”と言えるように。

静かだった。あまりにも静かで、頭の中にさえノイズがなかった。
悔しさも、怒りも、自己嫌悪もなかった。
ただ、ひとつの問いに答えた感覚だけが、残っていた。

——お前は、どう在りたい?

その問いに対して、自分は“打つ”ことで答えた。
逃げずに。媚びずに。祈らずに。
たとえ届かなくても、
「それでも打つ」と決めて立ち続けた、それが今日だった。

シューズの紐をほどきながら、深く息を吐いた。
カラダの奥に残っていた熱が、ふっと抜けていく。

バッグの中からスポーツドリンクを取り出す。
キャップを開けると、プシュッという乾いた音が、部屋の静寂をやさしく裂いた。

その音だけが、彼が戦っていた証拠だった。

今日、彼は負けた。
でも、それは敗北ではなかった。

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URB製作室

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