0131.オークウッドの窓から

オークウッドの朝

カーテンを開けると、海が広がっていた。

横浜港の水面が、朝の光をさわさわと返している。遠くにベイブリッジのシルエット。コンテナ船がゆっくりと動いている。

澪はそれを、特別な感情もなく眺めた。

良い部屋だと思う。海側で、高層で、夜は港の灯りが水に溶ける。仕事の資料を広げるにも、オンラインミーティングをこなすにも、支障はない。

ただ、自分の家ではない。

それは別に、不満ではない。ただの事実だった。

契約者は九条雅臣。澪はそこに、住まわせてもらっている。サービスアパートメントだから、清掃も週に一度入る。タオルは補充される。備品は揃っている。快適なのに、どこかホテルの匂いがする。

だから澪は、少しずつ自分のものを持ち込んでいた。

上書き

洗面台の脇に、自分で選んだハンドクリームを置いた。

キッチンには、いつも使っているルイボスティーのティーバッグと、豆から挽くコーヒーのための小さなグラインダー。

リビングには、アロマディフューザー。ゼラニウムとシダーウッドを混ぜた、自分だけの配合。

九条の気配はほとんどない。もともとほぼ使っていない部屋で、スーツケースひとつで来てはまた出ていく人の痕跡は薄い。それがかえって澪には、遠慮なく自分の匂いを持ち込める理由になっていた。

(自分のペースで使えばいい)

そう決めてから、少し楽になった。

営業の仕事

午前中は資料整理と見積もりの作成。午後にオンラインで取引先との打ち合わせが二件。

澪はダイニングテーブルをデスク代わりにして、ノートPCとタブレットを並べ、モニターアームで画面を増やしていた。持ち込んだ備品で、完全に自分の仕事環境が出来上がっている。

窓の外では、港が動き続けていた。

オンラインミーティングの間、背景はぼかしにしている。本当は海が見えるのに、と思うことがある。でも、プライベートな場所から繋いでいることを悟られたくなかった。

「綾瀬さん、先日の件ですが——」

「はい、グダニスク側の回答が来まして。仕様変更の件は対応可能とのことでした。詳細は後ほどメールで共有します」

淡々と、手元のメモを確認しながら答える。

仕事は仕事だ。九条が何回戦にいようと、ここでやるべきことがある。

夜の海

打ち合わせが終わると、もう夕方になっていた。

澪はPCを閉じ、キッチンに立った。冷蔵庫を開けると、昨日スーパーで買ってきた食材が並んでいる。豆腐、小松菜、鶏むね肉。シンプルな夕食のための材料。

フライパンに油を引き、鶏肉を焼く。

音だけが部屋に広がった。油のはぜる音、換気扇の低い唸り。

一人分の食事を作るのは、別に苦ではない。もともとそうやって生きてきた。

バスルームの在庫

食事の片付けを終えてから、バスルームに向かった。

シャワーを浴びながら、棚に並んだボトルを眺める。

サボン、ロクシタン、イソップ。ボディウォッシュ、バスソルト、シャワーオイル。開封済みのものと、まだラップも剥がしていないものが、整然と並んでいた。

二月、九条のペントハウスにいた頃のことだ。

ある日気づいたら、バスルームの棚がいっぱいになっていた。澪が持ち込んだ荷物ではない。九条が、いつの間にか揃えていた。

「俺は使わない。邪魔なら捨てていい」

それだけ言って、あとは何も言わなかった。

澪は捨てなかった。少しずつ使っている。

九条が香りの強いものを好まないのは、一緒にいた時間でなんとなく分かっていた。無香料のシャンプー、無香料のボディソープ。嗅覚は余分な刺激を入れたくないのか、それとも単純に好みなのか、理由までは知らないけれど。

なのに、棚に並んでいたのはぜんぶ、香りのあるものだった。

サボンのバスソルトはローズとアロエ。ロクシタンのシャワークリームはシア。イソップのボディバームはゼラニウムとレモン。端から端まで、ブランドも種類もバラバラに、でも一本ずつ丁寧に選ばれた形跡があった。

(自分では絶対に使わないくせに)

確認するまでもなかった。一本ずつ、何を喜ぶか分からないまま、とりあえず全部試してみようとした人の買い方だ。不器用というより、不慣れ、という感じの。

今日はサボンのバスソルトを使った。お湯が白く濁って、ほんのりローズの香りが立つ。

良い匂いだった。

食事を済ませてから、ルイボスティーを淹れた。ティーバッグをマグカップに入れ、沸かしたばかりのお湯を注ぐ。ゆっくりと赤く色づいていくのを眺めながら、ソファに移動する。

ディフューザーの香りが、静かに部屋に満ちている。

窓の外では、夜の横浜港が光っていた。

船の灯りが水面に伸び、遠くのビルがそれを囲む。昼とはまったく違う顔をした海が、暗くなるほど近くなる気がした。

(見てる、かな)

思ったことに、自分で少し驚いた。

連絡はしない。そう決まっている。こちらから破る気もない。

ただ、今頃どこにいるのかは、なんとなく分かる。マドリード。試合があるから。それだけ知っていれば十分だった。

マグカップを両手で包む。温かい。

澪はそのまま、夜の海をぼんやりと見ていた。

急かされているわけじゃない。待たされているわけでもない。

ただ、それぞれの場所で、それぞれの時間が流れている。

それで良かった。

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URB製作室

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