129.感情を預けた怪物

感情なきノート

試合が終わったあと、九条は一切の余韻を持たなかった。

歓声も、拍手も、結果の数字も、彼の中には入ってこない。

あの空間はすでに終わっている。

まず、軽く身体を動かす。

呼吸を整え、心拍を通常域に戻す。

痛みも疲労も、評価対象にはならない。数値が戻ればいい。

シャワーを浴びる。

湯の温度を確認し、皮膚感覚を現実に戻す。

競技場にいた自分と、今ここにいる自分を、物理的に切り分ける。

ユニフォームを脱ぎ、私服に着替える。

戦うための服を脱いだという認識だけが残る。

終わった、という感慨はない。ただ工程が完了しただけだ。 

ラケットを拭き、バッグに戻す。

動作は正確で、無駄がない。

高ぶった神経は、静かな集中へと自然に移行していく。

ノートを開く。

九条は、淡々とペンを走らせた。

どのポイントで主導権を完全に握ったか。

どこでラリーを切る判断が最短だったか。

もっと早く終わらせられた局面はなかったか。

感情の記述は一行もない。

必要なのは記録と修正点だけだ。

次は、こうする。

次は、ここを削る。

それだけを書いて、ノートを閉じる。

レオンが用意した食事を摂る。

必要な栄養素が、必要な量だけ並んでいる。

味を評価することはないが、残すこともない。

その夜、九条はきちんと眠る。

興奮も、空虚感も、後悔もない。

脳も身体も、正常に休息へ入る。

戻ってきた現実は、退屈ではなかった。

もともと、面白さや刺激を求めていない。

喜びも、高揚も、ここには不要だ。

ただ、静かであればいい。

邪魔が入らなければ、それでいい。

そこには何もない。

何も起きない。

何も求められない。

九条にとって、それは欠落ではなく、最も安定した空間だった。

機能としての献身

チームは、そこにいた。

志水は身体の状態を確認し、早瀬は可動域と負荷の抜けを見て、神崎は視線と反応速度を静かに観察する。

氷川はスケジュールを整理し、レオンは食事を用意する。

誰一人、手を抜いていない。誰一人、九条を放置していない。

必要な言葉は、すべて用意されている。必要なケアも、すでに差し出されている。

ただ、九条は、それを受け取っていない。

拒絶しているわけではなかった。

拒む意志も、反発もない。そもそも、受信するための器が存在していない。

寄り添われる、という概念が、彼の中では実装されていない。

サポートは機能として理解している。役割として認識している。

だから感謝も、反感も生じない。

あるのは、正常に稼働しているかどうか、それだけだ。

神崎は、それを理解している。

だから声をかけない。戻ってこい、とも言わない。

ただ時間を測り、深度を記録し、「今日はここまでだ」と判断する。

チームは寄り添っている。間違いなく、全力で。

だが九条は、寄り添われる場所に立っていない。

それでも彼は、壊れてはいない。

ただ、人間としては、極端に偏った構造をしているだけだ。

管理対象外の不安

神崎は、安心して九条を見ていない。

視線は穏やかだが、観察は止めていない。

ちゃんと戻ってきているかどうか、それだけを、秒単位で確認している。

九条は、戻すための手順を一つも外していない。

呼吸は整えた。筋の緊張も落とした。

着替え、記録し、栄養を摂り、休息の準備も済ませた。

どれも正確で、無駄がない。だから理解できない。

神崎が、何をそんなに気にしているのか。

試合には勝った。

次に進んだ。

フローから戻す工程も完了している。

条件はすべて満たしている。

それ以上、何が必要なのか。

どうなれば安心するのか。

その問い自体が、九条には非生産的に思えた。

考える理由がない。

互いに、必要な仕事をしていればいい。

感情の確認も、言葉の往復も要らない。

九条にとって重要なのは、結果が出ていることと、次に支障が出ないことだけだった。

神崎の不安は、彼の責任であり、自分の管理対象ではない。

そう線を引いたまま、九条は次の準備へと意識を移した。

コートで起きた事実だけ

九条のこの日の試合内容は、あらゆるメディアで消費されていた。

スポーツ紙は見出しに「圧倒」「支配」「異次元」を並べ、解説者は言葉を選びながらも、人間の領域を越えていると評した。

ネットには一般人の書き込みが溢れ、切り取られた映像が何本も上がる。

「テニスをするために生まれてきた存在だ」

「どんな試合しても感情が見えないのが怖い」

「冷酷すぎる」

賞賛と違和感が、同じ速度で拡散していく。

だが、そのどれも九条の視界には入らない。存在すら認識していない。

スマートフォンは連絡を取るための道具であり、PCは必要な情報を確認するための機械だ。

自分の名前を検索する理由がない。

評価を集める目的も、誤解を修正する動機もない。

エゴサーチは無意味だと、はじめから切り捨てている。

九条にとって重要なのは、コートで起きた事実だけだ。

どんな勝ち方をしたか、どこに無駄があったか、次は何を削れるか。

それ以外の言葉は、すべてノイズに等しい。

称賛も非難も、彼の集中には何の価値も持たない。

世界がどう語ろうと、九条は次の試合へ向けて、静かに思考を畳んでいくだけだった。

神崎は、心配はしていた。

医師として、チームの一員として、そして長く九条を見てきた一人の人間として。

九条は扱いづらい。

極端なまでにストイックで、自分を削ることをためらわず、勝利のためなら限界を無視して踏み越えてしまう。

その危うさを、神崎は何度も間近で見てきた。

テニス以外の時間を持ってほしい。

勝敗とも記録とも関係のない、ただ呼吸をするための時間を。

緊張を解かなくてもいい。ただ、削らなくていい場所をどこかに見つけてほしい。

今は、その願いが九条に届かないことも分かっている。

彼の世界には、まだ必要のない概念なのだろう。

それでも神崎は信じている。

いつか九条自身が、自分を守るための何かを見つけるかもしれないと。

その可能性を、医師として否定したくなかった。

ただ、その「いつか」が来る前に、九条が完全に壊れ切ってしまうことを、神崎は何よりも恐れている。

勝ち続けることでしか均衡を保てない存在は、ほんのわずかな歪みで崩れる。

その兆しを見逃さないために、神崎は今日も九条から目を離さずにいる。

呼吸をするための時間

九条が眠った後、神崎は血圧とバイタルを確認した。数値は安定している。今日は負担が軽く、呼吸も深く穏やかだ。食事も水分もきちんと摂っている。表面上は、何の問題もない。

スイートルームのバルコニーに出て、夜の外気を吸い込みながら、神崎はiPadを開き、Apple Pencilで淡々と記録を付けていく。その背後から足音がして、理学療法士の早瀬が姿を現した。

「今日は九条さん、落ち着いてましたね」

「…試合が長引かなかった。深いフローに入り切らずに済んだんだろう。ただ、決勝に近づくほど安心はできない」

記録を書き終え、神崎は小さく息を吐く。

「神崎さん、心労が絶えませんね」

心配しているのか、事実を述べているだけなのか分からない口調だった。

早瀬は世界でも指折りの理学療法士で、選手の体は選手自身のものだという信念を持っている。

九条の体も徹底的にメンテナンスするが、その使い方に踏み込んで意見することはほとんどない。

できる最大限のサポートはする。だが、どう使うかを決めるのは選手本人だ。たとえそれが、自傷に近い酷使であったとしても。

「俺も、早瀬くらいドライでいられたら、もう少し楽なのかもしれないな」

珍しく神崎が弱音を吐き、苦笑した。

早瀬は笑わなかった。もともと感情の起伏が表に出ない人間だ。

「神崎さんみたいに、強めに止めてくれる人が、九条さんには必要なんです」

「本人には鬱陶しがられてるけどな」

「それでも、やめないでください。九条さんには、あなたが必要です」

言い切りだった。低く落ち着いた声で、感情を乗せることはないが、発せられる言葉だけは真っ直ぐに刺さる。

「俺、一人で九条さんのサポートをする自信はありません。あの人、強く言う人がいないと、もっと暴走します」

本人には決して聞かせられない言葉を、早瀬は淡々と口にした。

「九条は、心の負担をどう感じているんだろうな」

神崎の声は、独り言に近かった。夜風に紛れて、早瀬の耳に届く。

「さぁ……そもそも、感じているんでしょうか」

早瀬は淡々と返す。感情を排した言葉だったが、否定でも楽観でもない。ただの観察だ。

「感じない人間なんていないさ」

神崎は即座に言った。少しだけ、声に力が入る。

「感じないふりをすることはできる。極力、感じないように心を閉じることもできる。でも、完全に遮断することはできない。どこかで必ず歪みは生まれる。時間をかけて、静かに、確実に」

バルコニーの向こうで、街の灯りが揺れている。神崎はそれを見つめながら、続けた。

「もしかしたら……もう生まれているのかもしれない」

「それが、乖離ですか?」

早瀬の問いに、神崎は小さく頷いた。

「仮説でしかないがな。九条は、自分の辛さを、自分ではない何かに渡しているのかもしれない。感じる役割を、別の人格に預けている。自分はただ、勝つために必要な機能だけを残している」

それは診断ではない。医師としての断定でもない。ただ、長く観察してきた人間としての推測だった。

「本人の過去に、何があるのか。神崎さんは分かりますか?」

早瀬の問いは静かだった。だが核心を突いている。

神崎は、ゆっくりと首を振る。

「分からない。俺は精神科医じゃない。そもそも、専門医であっても、人の心を完全に理解できるわけじゃない。心は構造物じゃないからな」

一度、言葉を切る。

「まして、本人が語らないなら、理解することはさらに難しい。人の心は、観測すればするほど複雑になる。断定しようとした瞬間に、真実から遠ざかることもある」

神崎は、眠っている九条のいる室内に一瞬だけ視線を向けた。

「だから俺にできるのは、壊れ切る前に、異常に気付くことだけだ。それ以上は……正直、祈りに近い」

医師としてではなく、一人の人間としての本音だった。

バルコニーには、しばらく沈黙が落ちた。夜風だけが、二人の間を静かに通り抜けていった。

観測不能の自分

朝の瞑想の時間。

呼吸を整え、意識を内側へ沈めていく。だが、どれだけ深く潜っても、人格の乖離を起こしたらしき片鱗も、原因も見当たらない。引っかかる感触すら残っていない。そこには、いつもと変わらない静かな空白があるだけだった。

モンテカルロ決勝の映像は、すでに確認している。記憶がない以上、あれは自分の体が残した記録でしかない。それでも、映像の中の動きは明らかに違っていた。判断の速度、反応の質、無駄のなさ。自分が積み上げてきたものの延長線上にあるのは確かだが、どこか決定的に踏み込み方が異なる。

もし本当に人格の乖離が起きていたのだとしたら、その時の記憶が残っていないのは不自然ではない。もう一つの人格が存在すると仮定するなら、それは普段は深く沈み、必要な時だけ浮上してくるものだろう。こちら側が意識的に触れられないのも、理屈としては通る。

他のチームメンバーにも確認した。だが、誰一人として、別の人格らしき自分と対話した覚えはないと言う。言動に違和感はなかった。会話は成立していた。命令も指示も、いつも通り通っていた。

そもそも、これだけ長くこの世界で戦ってきて、同様の事例を自分は知らない。記録にもない。少なくとも、トップレベルの競技者として、公に語られた前例は見当たらない。

気に入らなかった。

自分の内部で、自分が把握していない出来事が起きている可能性。その存在を、確定も否定もできない状態が、不快だった。理解できないものを放置することも、管理下に置けないものを許容することも、九条の性分に反する。

原因があるなら特定したい。構造があるなら把握したい。再現性があるなら制御したい。

それができない状態は、静かだが確実なノイズとして、内側に残り続けていた。

自立という名の言い訳

レオンが用意した朝食を口に運びながら、九条はiPadで次の試合に向けた映像資料を確認していた。画面には相手選手の癖や配球傾向が映し出されている。だが、視線はどこか定まらず、虚空をなぞっている。

「朝から考え事?」

トレイを持って戻ってきたレオンが、妙に楽しそうな声で言った。

「わかった。彼女に会いたいとか?」

「違う」

即答だった。会いたくないわけではない。ただ、今は存在を思い出させられること自体を避けたかった。連絡も取らない。会う予定もない。それなのに思い出して、何になる。

「うわ、即否定。彼女、傷つくよ?」

「彼女は大人だ」

寂しさを理由に連絡してくるような人ではない。待ってほしいと言えば、何も言わずに待つ。人を困らせない。不快にさせない。自分を律し、一人で立っていられる力を持っている。

今生の別れではない。期限も決めてある。彼女には彼女の生活と仕事がある。それでいい。

「じゃあ、何考えてるの?」

「……なんでもない」

説明のために言葉を並べるのが、ひどく煩わしかった。

「なんでもない顔じゃなかったけどなー」

そう言いながら、レオンはそれ以上踏み込まず、軽く肩をすくめて下がっていった。

九条は小さく息を吐き、意識を引き戻す。今、目の前にあるのは次の試合だ。考えるべきはそれだけだ。そう決めて、再び画面に視線を落とした。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

URB製作室

コメント

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください