59.2月5日 澪のお迎え

仕事終わり、また見覚えのある黒い車がオフィス前に停まっていた。

なかなか見かけない高級車。しかもピカピカに磨き上げられてるから、退社した人々がチラチラ見ていく。

レクサス自体は割とよく見かけるんだけどな…。

ランクと、後部座席フルスモークっていうのがな。

あと運転手と助手席のメンズ2名。

氷川さんと、レオンさん。

目を引くのよ。

後部座席に更に目を引くメンズ1名が乗ってるんだろうけど、外から見えにくいんだよね。

とはいえこの場所に長く停まってるのは危険なので、急いで駆け付けた。

走って行ったら、助手席に座ってたレオンさんが窓を開けて「お疲れ様、澪ちゃん」と挨拶してくれた。

下の名前でちゃん付けされて不快じゃない男性は珍しい。

しかも、これでゲイなんだから、ほんと世の中わからない。

「お待たせしました!」

走って、冬の冷たい空気を肺に吸い込んでちょっと痛い。

後部座席のドアが薄く開いた。

私がいる位置からは遠い席に座っている男性。

九条雅臣。

世界ランク前年1位だったテニスプレーヤー。

今年、全豪オープン優勝者。

今はいろいろあって、彼のレジデンスで一緒に生活している。

テニスプレーヤーという背景を知らないとしても、あまりにも目を惹きすぎる。

「乗れ」

冷静な声で一言。

でも、わざわざ遠い席側のドアを内側から開けてくれた。

外にいる人々からなるべく見えないように、薄く開いたドアから体を滑り込ませた。

「ありがとう。雅臣さんもお疲れ様」

今日も、彼は練習とトレーニングだった。

内容は全然知らないけど、立場上、相当ハードなものだろうな、とは思ってる。

わざわざ練習終わりに迎えに来てくれたのは、私が元々住んでいるマンションに、とある忘れ物を取りに行くためだ。

忘れ物というか、持っていることを雅臣さんに知られてしまい、取りに行けと言われた。

理由は、一緒に使いたいって私が新しいのを買ったから。

前から持ってるのも取りに行けって。

女性用の、大人の”おもちゃ”。

絶対に氷川さんとレオンさんには言えない。

ただでさえ、女性が自分の身体にそういう物を買って使ってると知られたら偏見があるのに、それを複数持ってるとか、雅臣さんのレジデンスに持ち込むとか、絶対に言えない。

恥ずかしさで心が死ぬ。

車が静かに発進した。

氷川さんは何も聞かず、いつも通り淡々と運転に集中している。

車内は落ち着いた暖房が効いていて、冬の冷たい空気が一瞬で和らいだ。

「寒くないか」

隣から、雅臣さんの声が落ちてくる。

「大丈夫。走ったからちょっと体が温まったかも」

ふと見ると、彼はいつも通り表情は静かなまま、だが視線だけがわずかに私の方に向いていた。

「今日はどうだった」

「ん? 仕事? まあまあかな。午前中はちょっとバタバタしてたけど、午後は落ち着いてたよ」

自然と、日常の会話になる。

彼はあまり仕事の細かい内容には踏み込んでこない。でも、こうして一言だけでも聞いてくれるのが嬉しかったりする。

「雅臣さんは今日どんなことしたの?」

そう尋ねた時、何となく車内の空気が変わったような気がした。

気がした、と思うくらいのほんの些細なものだけど。

「…サーブの返球練習と、長時間ラリーを想定したトレーニング」

淡々と告げられたその内容。

「テニスってすっごい体力いる競技だもんね。長い時5時間とか試合するんでしょ?想像できない」

「…日を跨いだ試合もある」

「うそ…ずっと動き続けるの?」

「いや、中断を挟みながら翌日に行う。…俺は経験ない」

「…雅臣さんの試合、展開早いもんね。前は長時間試合したりした?」

彼は少しだけ考えるように視線を前に向けた。

「若い頃は……粘らされる試合もあった」

「粘らされる?」

「自分から攻めきれずに、相手のペースで長引かせられた。4時間、5時間…フルセットまでもつれる試合も経験している」

「…すごい…」

「今は、あまりそこまでかからない。時間が長くなるのは“弱い”というわけじゃないが……自分が主導権を持てば、そこまで引き延ばされる展開は少ない」

「うん…そうだよね。見てても、なんか“飲み込んでる”感じするもん、雅臣さん」

淡く微笑んで言うと、彼はわずかに視線を戻した。

「……勝てる形に持ち込むのが“仕事”だからな」

その声音には、彼なりのプライドと覚悟が静かに滲んでいた。

“勝つ”ことが仕事、ってよく考えるとハードどころじゃない。

勝つか負けるか分からないのが勝負なのに、勝つことを要求される世界。しかも彼は、勝ち続けている。

すごいなんて言葉では片付けられない。

緩やかに減速した車が私のマンションの前で止まった。

ここに連れて来てもらうのは、もう三度目だ。

レジデンスで生活してる間は無人なので、ブレーカーを一部落とし済み。

たぶん今月は水道光熱費がすごく安い。助かる。

「じゃあ、ちょっと取ってきます。すぐ戻ります」

「気をつけて」

すぐそこだし、自分の家なのに、レオンさんが優しく声をかけてくれる。

「一人で持てるか?」

雅臣さんまで。でもあなた”荷物”の大きさ知ってるでしょ?

「そんなに重いものじゃないから、大丈夫。行ってくるね」

運転席をわざわざ降りてドアを開けてくれようとする氷川さんを制して、自分で車を降りた。

私は社長令嬢じゃない、普通の庶民だから、恭しくされるのは慣れてない。

車で送迎してもらえるだけでありがたい。

マンションのオートロックを解除して、自分の部屋まで向かった。

玄関に入ると、室内の空気が止まっていた。

毎日この部屋に帰ってきていた時とは違う空気。

人が住んでない空間の空気。

ベッドがある部屋に真っ直ぐ向かい、しまいこんでいた2つのものを、適当なタオルで包んで鞄に入れた。

充電式で何回も使える、いわゆる電化製品だし、私一人しかこの空間には住んでないから普段は見えるところに充電器ごと出している。

見えてもデザインが柔らかく優しい色合いで可愛いから、変な気にならない。

ただ、前にこの家に来た時は雅臣さんが一緒だったから、先に部屋に入って見えないように隠していた。

結局使う為に持って行くことになったけど。

レジデンスに持ち帰ってから充電したほうが良いだろうな。

ブレーカー切ってたから、充電できてないし減ってるかも。

彼らを待たせないように、さっさと部屋の鍵を閉めて車のところまで戻る。

マンションを出て、車が近付いてくると、ちょっと緊張してきた。

別に変なことじゃない。女性だって欲はある。

それを自分で楽しんで解消するのは何も悪いことじゃない。

そう自分に言い聞かせているけど、やっぱり関係性が浅い男性には知られたくない。

わざわざ言う事でもないって思う。

恥ずべき事ではないのに、恥ずかしいとは思ってしまう。

私は性格上、完全に開放的にはなれないみたいだ。

車まで戻ると、すぐに後部座席のドアが内側から開けられた。

やっぱり雅臣さんだ。私の動きを見て、迎え入れるタイミングを正確に測っている。

「……おかえり」

低く、いつも通りの淡々とした声。

「ただいま。……取ってきたよ」

鞄を抱えたまま、また静かに車内へ滑り込む。

すぐにドアが閉まった。

氷川さんは何も言わず、エンジンをゆっくりと動かし始める。

レオンさんも、こちらをちらりとだけ見て、あえて何も聞かない空気を作ってくれていた。

……ありがたい。

隣に座る雅臣さんは、ちらりと私の鞄に視線を落としただけで、それ以上は何も聞かない。

でも、そのわずかな視線の動きだけで――

“確認は終わった”

そう無言で伝えられたような気がした。

別に、咎めるわけでも、茶化すわけでもない。

ただ事実として把握し、受け止めているだけのあの冷静さ。

だけど、その背後にあるのは――

「支配する側の権限」

……そう思わせる静かな圧が、ほんのわずかに滲んでいる。

私は鞄を膝の上に抱えたまま、なんとなく小さく唇を引き結んだ。

「…………」

少しだけ耳まで熱くなるのが、自分でも分かる。

彼はそれを分かってるのか、分かっていないのか。

いや――分かってるんだろうな。たぶん。

だけど、わざわざ何も言わない。

だからこそ、余計に緊張する。

車内には暖かな空気と、わずかな沈黙。

その中で、私はそっと鞄の中身を押さえたまま、前方を見つめていた。

海外ドラマに出てくる女性が、すごく堂々と性に開放的な生き方をしてるのを見るけど、日本はまだそういう空気じゃない。

性に開放的に生きることを”悪いこと”とする空気すらある。

女性用のこういうものが真剣に考えられて、世に生まれたのも、最近のことだ。

以前からあったのは、どちらかと言えば”男性が女性に使う”もの。

硬いプラスチック製、冷たい、触り心地が良くない、見た目がグロテスク。

そういうものばかりだった。

私がこれを購入しようと思ったのは、そういうイメージを根本から払拭してくれたものだったから。

優しい色、シリコン製で柔らかい、冷たくない、サラサラして手触りが良い、見た目が可愛いのに女性らしさを押し付けてない、しかも充電できて経済的。

そういう作った人のコンセプトに感銘を受けたから。

会社としては主に男性用のものを多く作ってるから、新しい挑戦だったんだろう。

会社内の女性陣が頑張った企画。それを後押ししたいというのもあった。

ぜひ続けてほしいから。

車は夜の首都高を滑るように進んでいく。

窓の外には、オフィス街のビル群がきらめいていた。

雅臣さんはずっと黙ったまま、何も言わない。

さっきまでの会話が終わってから、ずっとこの沈黙が続いている。

でも、それが居心地悪いわけではなかった。

むしろ、彼のこういう静けさには、不思議と安心する部分もある。

静かに呼吸を整えながら、私はふと思う。

(……なんでこんな人と、私は今ここにいるんだろう)

プロテニスの頂点にいる人。

本来なら、きっと別の誰かが隣に座っていたはずの人。

でも今、この車の後部座席には私がいて。

膝の上の鞄には、さっき自宅から持ち出してきた――私だけの秘密が入っている。

ちら、と視線を送ると、雅臣さんはわずかに目を伏せてこちらを見た。

ただ、確認しただけのような、でも何かを含んでいるようなその目線。

私は小さく、無意識に唇を噛んでしまった。

やっぱり――

わかってるんだと思う。

わかっていて、わざと何も言わない。

彼のそういう支配的な優しさというか、余裕というか――

言葉にできない感覚が、胸の奥をじわじわと熱くしていく。

「もうすぐ着く」

低い声が落ちてきた。

「うん」

短く頷く。

やがて、見慣れたタワーマンションの地下駐車場へ車が入って行く。

レジデンスへ戻ってきた――。

駐車スペースに車が完璧に真っ直ぐ停められた。

運転に慣れてるのもあるんだろうけど、ほんと氷川さんの運転は無駄がない。

雅臣さんが自分でドアを開けて降りた。

私もそうやって降りたら、周りこんできた雅臣さんが手を差し出してきた。

鞄を渡せ、という意味だろう。

「そんな重くないよ?」

本当に、別に重くないんだけど、持ってくれた。

そうやって女性をエスコートするのが自然なことなのかもしれない。

彼に女性として扱われるのは、嫌じゃない。

「行くぞ」

「待って、僕には言ってくれないの?」

レオンさんが寂しそうに言うけど、顔は笑ってる。

「いつも九条さんに愛情込めてご飯作ってるのに…」

ヨヨヨ…となっている。

雅臣さんはレオンさんの茶化しには反応せず、軽く顎だけ動かして歩き出した。

私も小走りで追いかける。

レジデンス専用エレベーターに乗り込むと、氷川さんが静かにカードキーをかざした。

「お疲れ様でした」

そう一言だけ残して、氷川さんはエレベーターに乗らず、そのまま駐車場に残る。

「氷川さん、ありがとうございました」

彼は雅臣さんに付き添って仕事しているだけだけど、私も恩恵にあやかってるから、お礼は言う。

扉が閉まると、雅臣さんとレオンさんと3人。

今日は、レオンさんのご飯なんだろ。

人が作ってくれるご飯を楽しみに待つなんて、何年ぶりだろ。

鞄は雅臣さんの腕の中。

本人は特に何も言わない。ただ、黙ってそれを持っている。

使うのは、週末。

そう約束した。

エレベーターが到着すると、レオンさんは「ご飯スピードコースでささっと作っちゃいますね」と言って、いそいそとキッチンの方へ向かって行った。

「私の事で、遅くなってごめんなさい」

「全然。こういうことがあるのも慣れてるから」

まるでお母さんみたいだ。

雅臣さんはリビングへ。

私は自分の鞄をゲストルームに置きに行った。

コンセントに差して、一台充電する。

充電をセットして、静かにゲストルームを出た。

リビングでは、すでにレオンさんがキッチンでリズミカルに動いていた。

「ご飯、もう少し待っててね〜!今日は“時短回復コース”ですから!」

彼が言う通り、コンロの上には鶏の甘辛煮がもういい色に煮詰まっている。

ツナと枝豆のおにぎりもすでに用意され、ヨーグルトにはバナナと蜂蜜がトッピングされていた。

(いつもながら早い…)

「澪ちゃん、着替えてきても大丈夫だよ。もうすぐ出せるから」

「ありがとうございます、すぐ戻ります」

軽く会釈して、寝室の方へ向かう。

部屋着に着替えて戻ってくる頃には、食卓に湯気が立ち始めていた。

レオンさんは得意げに両手を広げる。

「さあ、完成です!」

🏷 今日の帰宅アスリートご飯:レオン即席ナイトプレート

鶏の甘辛煮(電子レンジ仕上げ)

• オイスターソース+みりん+生姜すりおろしでレンチン。

• レオン「昼は酸味入れたから、夜は血糖落ち着ける甘辛系に寄せようか」

ツナと枝豆の混ぜおにぎり

• ツナ缶・枝豆・白ごま・大葉を刻んで混ぜて軽く握る。

• ※レオンが食べやすく“お茶碗盛り”で出す可能性もあり

かぼちゃとブロッコリーの温サラダ

• かぼちゃはレンチンして甘味引き出し、ブロッコリーはサッと茹でる。

• オリーブオイル少々+黒胡椒で味付け。

あおさと豆腐の味噌汁

• これは鉄板で継続。身体を冷やさない基本セット。

バナナヨーグルト(はちみつ少量)

• 「糖質は控えすぎず、でも翌朝残さない絶妙ゾーン」とレオンがニコニコ説明してそう。

どれも重すぎず、でも栄養はしっかり詰まってる“アスリート飯”だった。

「ほんとにプロですね…」

あの短時間でこのクォリティ。

思わず感嘆の声が漏れる。

「ふふ、まあね。九条さんの胃袋と筋肉は、僕の腕で育ってますから」

隣では、雅臣さんがいつも通り静かに席につき、無駄のない所作で箸を取る。

「……いただく」

それだけの言葉で食事が始まった。

私はその隣に腰掛けて、同じく手を合わせた。

「いただきます」

ゆっくりと、静かな夜が流れていく。

仕事終わりのご飯、こうして誰かと並んで食べる食卓――

当たり前じゃなかった日常が、今はここにある。

(……なんだか、すごく幸せ)

そう思いながら、ほんの少しだけ雅臣さんの横顔を盗み見た。

無駄のない、整った食事の所作。

まるで、全てが計算された美しい流れのようだった。

でも。

時折ふと、目が合う。

その瞬間だけは、少しだけ柔らかい。

「今日はお風呂は?」

ふと、軽い気持ちで尋ねた。

「アイスバスに入った」

「……アイスバス?」

思わず首を傾げる。

彼はわずかに視線を落とし、静かな声で説明した。

「氷水浴だ。水温は10度前後。数分間だけ入る。筋肉の炎症を抑えるためのリカバリーだ」

へえ、と小さく息を飲む。

──アイスバス。

ニュースや海外のドキュメンタリー映像で見たことがある。氷の浮かぶ冷たい水に、肩まで静かに沈む選手たち。

でもまさか、彼の毎日の中に、あの映像の光景が当たり前のように組み込まれていたなんて。

「……寒くないの?」

少しだけ驚き混じりに尋ねると、彼は一拍の間も置かずに返した。

「慣れてる」

その声に、迷いも苦しさもなかった。まるで「寒さ」という感覚そのものが、彼の中には存在しないかのように。

──そうだ。

私が想像するより、きっと遥かに厳しい世界を生きている。

黙って、当たり前に積み重ねる日々の中で。

「あったかいお風呂には入らない? 私入るけど……一緒にどう?」

無邪気に誘ったつもりだった。

けれど、隣の彼は一瞬だけ、ほんのわずかに視線を逸らすように間を置いた。

「……必要ない」

それだけ、静かに答えが返ってくる。

拒絶ではない。ただ、彼の中ではもうリカバリーの工程がすべて終わっている、というだけの事実。

もちろん、冷たく断ったわけじゃない。

この人はいつだって、必要なものだけを、必要なだけ手に入れて、整えて、切り替えて生きている。

私は少しだけ苦笑いを浮かべた。

「そっか……。じゃあ、私は入ってくるね」

「……ああ」

淡々とした返事。

でもその低い声の奥に、微かに柔らかなものが混ざっているのに気付いて、私は少しだけ胸が温かくなった。

鞄の横に置いておいた部屋着を手に取り、バスルームへ向かう。

歩きながら、ほんの少し、唇を噛んだ。

──ちょっとだけ、一緒に入りたかったんだけどな。

そう思った自分が、なんだか可笑しくて、心の中で小さく苦笑いする。

湯気がもう立ち上り始めているバスルームの扉をそっと開けた。

静かな水音の向こう側に、彼の気配だけが、優しく残っていた。

バスルームのドアを閉めて、ふぅっと小さく息を吐く。

誰もいない空間。

だからこそ、今日はちょっとだけ贅沢してみようと思った。

ガラス棚の奥に仕舞ってあった、香りの良い入浴剤を一つ取り出す。

淡いピンク色のパウダー。

バラでもラベンダーでもなく、ふわっと柔らかい、ほんのり甘さを感じる香り。

湯船にゆっくり注ぎ入れると、透明だったお湯がゆるやかに色を変えていく。

細かな泡がふわふわと立ち上がって、湯気に香りが混じる。

(……こういうの、好きなんだよね)

普段はつい時間がなくて、シャワーで済ませてしまうことも多い。

でも今日は――少しだけ、ゆるめる日。

髪をまとめて、ゆっくりと湯船に体を沈めた。

肩まで浸かった瞬間、冷えていた身体がじんわりと解けていく。

「……あぁ……」

自然と漏れた声に、少しだけ笑ってしまう。

ほんの少しだけ寂しかった気持ちも、こうしてお湯に溶けていく気がする。

誰にも邪魔されない、誰にも気を使わなくていい時間。

目を閉じると、静かに水音だけが響いていた。

雅臣さんのことを考えないわけじゃない。

むしろ、考えない時間なんてないくらい、ずっと心のどこかに彼はいる。

でも、今はちょっとだけ“自分の時間”にする。

身体を温めて、香りを吸い込んで、深く息を吐く。

(……整える、ってこういうことかな)

彼が言っていた“整え終えた”という言葉を思い出す。

私にはまだ、そこまで完璧には出来ない。

だけど、少しずつ、自分のペースで整えていけばいいのかもしれない。

(……もう少しだけ、浸かってよ)

湯船の中で膝を抱え直し、しばらくの間、静かな贅沢を続けていた。

ふわっと湯気の残るバスルームから出ると、肌がほんのりピンク色に染まっていた。

髪を軽くタオルドライして、バスローブの前を留める。

(今日は、せっかくだから)

洗面台の横に並べてあるスキンケアアイテムを、一つ一つ手に取っていく。

普段はオールインワンで済ませる日も多いけど、今日は“フルコース”。

コットンにたっぷり取った化粧水を、優しく肌に押し当てる。

乾燥した冬の空気でちょっと荒れていた頬が、しっとり潤っていく。

(あー…染み込む…)

次に、美容液。

さらっとしてるのに濃密なやつを、両手で包み込むように馴染ませる。

お風呂で柔らかくなった肌が、すっと吸い込んでくれる感じが心地いい。

(たまには、こういう時間も大事だよね)

ふと鏡の中の自分と目が合う。

頬にほんのり赤みが残っていて、目元も少し緩んで見えた。

(……なんか、ちょっと可愛いかも)

自分で自分を褒めるのは少し照れくさいけど、誰にも聞かれてないからいい。

最後に、クリームを重ねて蓋をする。

手のひらを頬に当てて、もっちりとした肌を確認。

仕上げは、ほんの少しのリップオイル。

乾燥対策と、寝る前のささやかな楽しみ。

(……うん、これで完成)

雅臣さんの前では、たぶんこんな細かいケアしてるって思われてないかもしれない。

でも、彼に触れられるときに“綺麗でいたい”っていうのも、本音だったりする。

(週末、使うんだもん……)

ほんの少しだけ、さっき持ち帰ってきた鞄のことが頭をよぎる。

熱くなるのを自分で誤魔化して、髪を整えた。

(さて、リビング戻ろうかな)

パジャマの上からカーディガンを羽織り、静かにドアを開けた。

リビングの照明は落ち着いた間接光だけが灯っていた。

ソファの片側に座る雅臣さんが、何かの資料を静かに読み込んでいる。

(……いつもながら、無駄がないなあ)

私の足音に気づいたのか、彼はほんのわずかに視線を上げた。

でもすぐに、また書類に目を戻す。

この一瞬のやり取りが、なんだかもう”いつもの感じ”になっているのが、ちょっと嬉しい。

「お風呂、ありがと。気持ちよかった」

「……そうか」

淡々とした返事。

けど、どこか声のトーンは少し柔らかい。

しばらく二人で静かに座っていたけれど、ふと雅臣さんがわずかに身体を傾けた。

「髪……乾いたのか」

「え? あ、うん。ちゃんと乾かしたよ」

つい、指先で毛先を触って確認してしまう。

お風呂上がりの髪は、まだほんのり柔らかい熱を残している。

「……少しだけ、甘い香りがする」

「えっ」

不意にそう言われて、思わず目を瞬かせる。

「今夜は普段と違うスキンケアやったから?かな」

「ああ、だからか」

彼はまるで確認作業のように静かに呟いた。

(……確認って何の)

内心で少しだけツッコミたくなるけれど、きっと彼の中では“情報の整理”なんだろうなと思う。

私のことも、いつも静かに全部、把握してるみたいで。

「週末に備えて?」

「……まあ、そういう感じ」

正直に答えたら、彼の口元がほんのわずかに緩んだ気がした。

けれど、それ以上は何も言わない。

ただ、じっとこちらを見つめるその視線の熱だけが、ゆっくりと強まっていく。

「――期待しておけ」

低く、抑えた声で、ぽつりと落とされた言葉。

その一言だけで、胸の奥がきゅっと締め付けられる。

「……うん」

私は小さく頷くのが精一杯だった。

そしてまた、静けさが降りる。

けれどその静けさの奥には、さっきまでとは違う、じわりと熱を帯びた空気が混ざり始めていた。

「……ねえ、女が楽しみにしてたら変?」

言ってから、少しだけ視線を逸らした。

声は自然に出たはずなのに、どこかくすぐったくて、照れくさい。

雅臣さんは、すぐには答えなかった。

ただ、その黒い瞳がじっと私を捉えたまま、ゆっくりと言葉を落とす。

「……何もおかしくない」

その声音には、僅かながら熱があった。

それでも表情は崩さず、彼らしい淡々とした抑揚で。

「お前がどう感じるかは、他人の判断には関係しない。……そのままでいい」

「…………」

胸の奥が、またきゅっと鳴った気がした。

ああ、やっぱりずるい。

優しいわけじゃない。けれど、ずっと深いところまで絡め取られる感じ。

「……じゃあ、楽しみにしてる」

そう言って、ようやく視線を戻すと、彼はわずかに目を細めた。

それが、九条雅臣にしては珍しく、“甘さ”を含んだ微笑だったのかもしれない。

「いい子だ」

低く落ちたその声に、心がまた静かに溶けていった。

寝室の明かりはすでに落とされていて、淡い間接照明だけがほのかに灯っている。

雅臣さんは先にベッドへ入り、私は少し遅れてそっと潜り込んだ。

寝室に響くのは、静かな空調音と、お互いの呼吸だけ。

ほんの少しだけ体を寄せてみると、九条さんが無言で腕を伸ばし、私の肩を引き寄せる。

強くもなく、弱くもなく、いつもの距離感で包まれる感覚。

少しだけ、冗談まじりに聞いてみた。

「なんか、流れでいつもここで寝てるけど……たまには一人で寝たいって思う?」

九条さんはわずかに眉を動かし、私を見下ろす。

「いや。お前がいないと回復しない」

あまりにも即答で、思わず笑ってしまう。

「…なにそれ?特殊効果?」

「…そんなところだ」

淡々と答えながら、雅臣さんはもう片腕をゆるく伸ばして私の背中を撫でた。

その手の動きに、どこかほんの少しだけ、優しさよりも執着に近いものが滲んでいる気がして、胸の奥が少しだけ温かくなる。

こうして抱かれているだけで、確かに私も、心がゆるんでいくのを感じる。

(…回復してるのは、たぶん私も同じかもしれない)

温かくて、ちょっと硬い腕の中に包まれて、心地よい眠りの中に落ちていった。

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URB製作室

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