澪の帰宅
仕事を終えてレジデンスに戻った。
大きなトラブルもなく、業務を滞りなく終えて、スムーズに帰宅できた。
エントランスで氷川さんに新しいカードキーを渡してもらえた。流石にもう自分で帰れるだろ、ってことで信頼のお墨付きもいただいた。
お風呂に入ってる時に雅臣さんに「隙が多い」と言われた特徴を踏まえて、表情に出さない、声にも出さないって言うのを意識してみたけど、職場にいる時と雅臣さんといる時の自分が全然同じだと思えず、あんまり意味なかった。
でもなぜか、今日はあの男も話しかけてこなかった。というか、今日一日、ちょっとでも空き時間ができてしまったり、一人になる時間があるとぼーっとしてしまって、正気に戻すのが大変だった。
日中でも、昨夜の体内の感覚と、聞いたことのないような自分の声が思い出されて、気がつくと視界がぼーっとしていた。
何かミスしなくて良かった。
エレベーターが開くと、ほのかにいい匂いがした。
誰か料理してる?
シューズクローゼットを見ると、雅臣さんのじゃない靴があった。
(この明るいブルーは絶対雅臣さんの靴じゃない。ということは…)
キッチンに入ると、レオンさんが食事の用意してた。
雅臣さんは、ソファに座ってる。もうシャワーを済ませたみたいで、練習してきた日なのに汗かいた痕跡もなく、涼しげにそこにいた。
「ただいま」
「おかえり」
雅臣さんの一言の後、
「お帰りなさい、お疲れ様」
レオンさんの爽やか笑顔。
仕事帰りに男性二人にお帰りを言われるって、変な感じだ。
奥さんを持つ男性の気持ちがわかった。
帰ったら清潔な家で、誰かにご飯作って待っててもらえるって、すっごい幸せな気分。
ちょっとだけ結婚したがる男性の気持ちがわかった。
「ご飯もう食べられるので、荷物置いてきてください」
レオンさんにそう言ってもらえて、「はーい」と返事をして、ウキウキと荷物をゲストルームに置きに行った。
夕食
🍽 レオンの夜ご飯メニュー案(栄養×美味×香り)
🔹メイン
• 鶏もも肉のローズマリーレモンロースト
→オーブンから漂う香りが強く、澪が「いい匂い!」って即気づくレベル
→タンパク質◎、油はオリーブオイル使用で吸収効率UP
🔹サイドディッシュ
• 焼き野菜(ズッキーニ、パプリカ、赤玉ねぎ)
→色鮮やかで、見た目に華やか
→甘味が引き立って、澪が箸を伸ばしやすい
• キヌア入りグリーンサラダ(ベビーリーフ、アボカド、トマト)
→疲労回復のためのビタミン・ミネラルも補強
→レモンドレッシングで爽やかさあり
🔹スープ
• ミネストローネ(豆と野菜多め)
→体を温めつつ、食欲のない九条にも優しい味
→澪は「このスープ、好き」と言ってそう
🔹デザート(澪向け・レオンの心遣い)
• ギリシャヨーグルトのベリーソースがけ
→九条の様子を見つつ、澪には甘いものをそっと出す
→澪が「今日デザートあるの?」って目を輝かせるやつ
九条サイド
レオンが盛り付けた皿が、テーブルに並ぶ。
香ばしい鶏のローストに、彩りの良い焼き野菜。スープは湯気が立ち、食欲をそそる香りが立ち上っている。
澪は「わぁ、すっごくいい匂い!」と目を輝かせて席に着いた。
対して、九条は無言のままナイフとフォークを手に取る。
体は、午前と午後のトレーニングでほぼ限界に近い。
脚の芯が重く、握力もほんの少し遅れて戻ってくる。
けれど、食べなければ――明日は練習なしにされる。
(ルールだ。俺の意思は関係ない)
一口。
咀嚼。
飲み込む。
何も言わないまま、機械のようにナイフを動かす。
澪が隣で「このズッキーニ甘いね」と言っても、九条は頷くだけ。
彼の“平然とした沈黙”は、今日も完璧だった。
澪サイド
(雅臣さん、なんとなく静かだな……?)
今朝に比べて、口数が少ない。
昨日の夜も、あんなふうだったし、今日は練習だったみたいだから……疲れてるのかもしれない。
黙々と、料理を口に運んでいる。
表情はいつもと変わらないけれど、少しだけ、食べるペースがゆっくりな気がした。
ふと、キッチンのレオンさんに視線を移すと、機嫌よさそうにデザートの準備をしていた。
私と目が合うと、ニコッと笑ってくれる。
なんか、あるんだろうな。
私の知らない、プロの世界が。
(今日はあんまり話しかけないでおこう)
やたらと喋られると、余計に疲れるかもしれない。
私はひとり、ゆっくりと料理を味わった。
ちょっとした静けさが、心地いい夜だった。
「ごちそうさまでした。今日もすごく美味しかったです」
テーブルの上は綺麗に完食。葉っぱ一枚、残っていない。
雅臣さんも、ペースはゆっくりだったけど、ちゃんと食べてる。……お腹、空いてたのかな。
「じゃあ、片付けたら僕は失礼しますね。明日の朝も、朝食作りに来るから」
「毎日来てくれるんですか?」
「それが僕の任務だからね」
レオンさんがウインクする。さらっとやってのけるこの仕草、似合う人は本当に少ないと思う。
「じゃあ、私お風呂のお湯入れてきます。雅臣さんは、もうお風呂済ませた?」
「ああ」
短く返された。
「私、ささっとお風呂入っちゃうよ。もし疲れてたら、先に寝てもいいからね」
少しでも時間を短縮するため、今日はゲストルーム側の小さな湯船を使うことにした。
ジャグジーほど広くはないけれど、お湯が溜まるのが早い。さっと入って、早めに上がろう。
九条サイド
食器を食洗機に入れ終えたレオンが、静かに口を開く。
「彼女、優しいですね。……さすがに疲れてるのは察してるみたいです。あの“狂気の練習メニュー”までは、想像もしてないだろうけど」
軽口を叩きながら笑うレオンに、九条は最低限の言葉だけを返す。
「早く帰れ。明日もある」
「はいはい。……食洗機の中身は、明日の朝、僕が片付けます。彼女には“そのままでいい”って伝えておいてください。それじゃあ、お疲れさまでした」
「……ああ」
夜は、静かに更けていく。
澪サイド
メイクを落として、顔を洗っている間にお湯を溜めた。
お風呂を手早く済ませて、髪を乾かして、ついでに歯磨きも済ませた。
ゲストルームからリビングに戻ると、もうレオンさんはいなかった。
流石にバスローブ姿を人に見せるのは恥ずかしいので、パジャマを着た。それでもちょっと恥ずかしいから、早めにレオンさんが帰宅したのは、気を遣ってくれたのかもしれない。
「レオンさんもう帰っちゃったんだ」
「ああ。食洗機の中身はそのままでいいと言っていた」
「あれ、そうなの?…そっか。なんか全部やってもらって悪いな。私今日仕事しかしてないや」
仕事と、自分の身の回りのことしかしてない。洗濯も掃除も、料理も食器の片付けも全部誰かにやってもらっている。なんて幸せな生活だろう。
こんな毎日が手に入ることを夢見て、結婚を望むのかもしれない。残念ながら、私は女だから、結婚しても世話をする側の属性になってしまうけれど。
雅臣さんは照明を落として間接照明だけになったリビングで、ソファに座っていた。
手に何も持ってないのはもう慣れたけど、やっぱりちょっと疲れてるように見える。
ソファで、雅臣さんが座る場所からちょっとだけ間を空けて座った。
「あの…」
ちょっと躊躇った。
無言で前を見つめていた雅臣さんが、視線だけこっちに向ける。
最初に会った時くらいの省エネモード。
もしかしたら、初めて会った時も疲れてたのかもしれない。言わなかっただけで。
「…ここ、来る?」
膝を閉じて座った太ももを、手でポンポンと叩いた。
九条サイド
(……そう来たか)
少しだけ目を伏せ、息を吐く。
逃げ道も、拒む理由もない。
この夜だけは、何も考えずに沈んでいたかった。
静かに、彼女の横に身を預けた。
澪サイド
叩いた膝を見て、雅臣さんはほんの少しだけ目を細めた。
でも、それだけ。
無言のまま、ソファに手をついて、私の膝に――頭を、乗せた。
「……」
なんにも言わずに。足を伸ばして、ソファで横になる。
(あ、寝た)
思ったよりも、早かった。
ほんの数秒、目を閉じただけで、もう呼吸のリズムが変わってる。
眉間のしわも、少しだけ緩んで見えた。
私はそっと、彼の髪に指を通す。
硬すぎず、柔らかすぎず、スルスルと指の間を通り抜けていく。
(……おつかれさま)
誰にも言えない言葉を、小さく心の中で。
しばらくこのまま、動けそうにない。
でも、いいや。
今日はもう、これで充分。
時計を見たら、もう23時を過ぎていた。
(……このまま朝まで寝かせるのは、ちょっと無理かな)
いくらなんでもソファじゃ身体が痛くなるだろうし、寒くはなくても、朝までここはきつい。
そっと声をかける。
「雅臣さん……?」
返事はないけど、呼吸が浅くなった気がする。
「ちゃんとベッドで寝ないと……身体冷やしちゃうよ」
膝の上にある頭が、少しだけ動いた。
目を閉じたまま、ぼそっと。
「……スッキリした。ありがとう」
起きてる。寝ぼけてるけど。
九条視点
少し寝たら、体の芯が抜けたみたいだった。
昼間の極限集中が、彼女のぬくもりに触れてると緩む。変な話だけど、安心する。
「寝室行ける?」
「うん。お前も来い」
断る理由がなかった。
⸻
(寝室・ベッド)
ベッドに入ると、九条が無言で澪の腰を引き寄せる。
完全に、抱き枕のように。
「ちょっ……」
「弾力がいい」
「チョップ」
ぱすん、と澪の手が九条の頭に落ちる。
痛くないけど、ちゃんとツッコミ。
九条は口の端だけ上げて、小さく笑った。
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
九条視点
……正直なところ、今日は眠れないかもしれないと思ってた。
昼間の練習は、極限の集中だった。
感覚を研ぎ澄ませて、音だけを頼りに打つ。
反応速度と判断力を限界まで使った。
普通なら、その興奮と疲労で眠れなくなる。
けれど――
澪がいると、眠れる。
肩の力が抜ける。
体も、心も、芯からほぐれていく。
(……遠征に持って行けたらいい)
そう思った瞬間、自分でも可笑しくなった。
人を、持ち運ぶわけにはいかない。
そんなことはわかっているのに――
それでも、本音がふと漏れる。
「……弾力がいい」
軽い一言に、軽くチョップが返ってきた。
そのやりとりすら心地よい。
(もう、いいか。今日は、眠ろう)
静かに目を閉じる。
深く、深く、落ちていく。
コメント