朝 出発前
室内は、まだ淡く暗い。
カーテン越しの朝の光が、ベッドの片側をわずかに照らしていた。
わずかな空調の音と、鳥の声。
それ以外は、静けさに包まれている。
九条は既に起きていた。
冷たい水で顔を洗い、軽くストレッチを終えてから、寝室に戻ってきたところだった。
澪を起こさぬよう、足音は極力抑えた。
レオンが朝食準備に入るまで、あと数分。
気配で、時間の流れを読めるようになっている。
枕元に腰を下ろす。
静かにベッドに沈む感触とともに、視線を落とす。
隣には、澪。
シーツに包まれた背中は、うつ伏せのまま、静かに上下していた。
昨夜の余韻を残したまま、深く眠っている。
頬にはまだ、薄く赤みが残っている気がした。
「……澪」
名前を呼ぶ声は、ごく低く。
それでも、反応はなかった。
無理もない。
あのまま中で眠ってしまうほど、身体も心も、解かれていたのだろう。
少しだけ、髪に触れる。
乱れたままのそれを、指でそっと梳いた。
それだけで、彼女が微かに身じろぎする。
「……起きろ。もう六時だ。仕事、だろ」
そう囁いた時だった。
「……ん、……ぅ……んん……」
寝惚けたように顔を横に向ける。
目を開けるには、もう少しかかりそうだった。
それでも、そっと髪に指を通せば――
「ん……なんじ…?」
かすれた声が、寝返りと一緒にこぼれる。
「もうすぐ6時だ。レオンが来る」
しばらく沈黙があった。
まどろみの底で、言葉を咀嚼していたような気配。
そして、潤んだ声が返ってくる。
「………ちゅうしてくれたら起きる………」
九条は、わずかに目を伏せる。
苦笑ともつかない表情で、肩を落とした。
「……朝から、甘えるな」
そう言いつつも、顔を近づける。
彼女の唇に、ごく短く、優しい口づけ。
――その瞬間。
「……ん……」
澪の身体がゆっくり動き出す。
目を開けた彼女が、ぼんやりと九条を見上げた。
でも――次の瞬間。
「……もっかい。それで起きる」
囁くように言ったその声は、まだ眠りのなかにいる。
「子どもか」
呆れたように、低く返す九条。
だが、顔は離さない。
今度は少しだけ深く、時間をかけてキスを落とした。
唇を離したときには、澪の頬がほんのり赤く染まっている。
「……起きたか?」
「ん……うん……起きた……」
もそもそと身体を起こして、まだ眠そうに目をこする彼女を見て、
九条はゆっくりと立ち上がった。
「あと十五分でレオンが来る。支度しろ」
ベッドから離れる声は、もういつもの“冷静な指示”に戻っていた。
レオンの朝食
レオンが朝食の準備を進めているキッチンに、
静かに開くゲストルームの扉。
出てきた澪は、すでに完璧に“整っていた”。
アイロンの効いたシャツ。
膝下丈のタイトスカート。
ナチュラルに整えられたメイクに、落ち着いた口紅の色。
髪は昨夜とは違い、首筋に沿うように低く結ばれている。
視線ひとつ、歩き方ひとつまで、“朝”の空気をまとっていた。
九条は、新聞をめくる手を止める。
澪の姿を見て、何も言わない。
ただ――少しだけ、思う。
(まるで昨夜の“あれ”が、なかったみたいだな)
それは、否定ではない。
ただの事実として、頭の片隅に置いておく。
レオンがキッチンから顔を出したとき、澪は自然と微笑んだ。
「初めまして。綾瀬澪と申します。食事の用意ありがとうございます」
「五百旗頭玲央です。レオンでいいよ。お口に合うか分からないけど、今日はビタミンたっぷりでいきます」
彼が差し出したのは、九条のプレートとは別に用意された、小ぶりのフルーツボウル。
彩りも盛りつけも、まるで朝のご褒美みたいだった。
「わ……すごい。私、ただの“おまけ”みたいな存在なのに……」
「そんなことないさ。お客さまは大事にしないと」
「……レオンさん、モテるでしょ?」
「うーん、否定はしないかな」
にっこり笑って、肩をすくめる。
「でも僕、ゲイだから」
「えっ、そうなんですか? 彼氏いるんですか?」
「いるよ。アメリカに住んでるから、そんなにたくさん会えるわけじゃないけど、一緒に住んでるよ」
「そっかぁ……彼氏、寂しいですね……」
ふと漏れた澪の言葉に、食卓の空気が一瞬だけ静まった。
――それは、数日後の自分のことを語っているようでもあった。
レオンはそれを察して、柔らかい声で続けた。
「大丈夫。今は電話で顔も見れるし、便利な道具がいっぱいあるから。時差あるけど、ちゃんと時間作れば話せるよ。僕もそうしてる」
そして――ちらりと、無言の圧を込めて九条に目を向ける。
「ね、九条さん?」
九条は新聞から顔を上げずに、ほんの一瞬だけ視線を上げた。
その目だけで、“分かってる”という返事を返す。
(お前、ちゃんと電話しろよ)
言葉にしない通告が、静かに朝の空気を満たしていた。
🥗 朝食メニュー(練習日Ver.)
🍚 主食
• 雑穀ごはん or 玄米ごはん(お茶碗軽く一杯)
• エネルギー源として。白米よりもビタミン・ミネラルが豊富
🍳 メインプレート
• 鶏胸肉のグリル・ハーブ風味(150g)
• しっとりジューシー、ローズマリーとレモンの香り
• スクランブルエッグ(全卵+卵白でふわふわ)
• 良質なたんぱく質&ビタミンB群を補う
• 焼きアスパラ&パプリカ、マッシュルームのソテー
• ビタミンC・食物繊維・彩り担当
🥣 スープ
• かぼちゃと人参のポタージュ(豆乳ベース)
• 疲労回復&整腸作用。甘みとクリーミーさのバランス
🍇 サイド/スイーツ
• ベリーとキウイのフルーツボウル(澪にも)
• 抗酸化作用と消化促進。ハチミツ少量で甘み追加
• ヨーグルト(無糖・蜂蜜・シナモン少々)
• 腸内環境を整え、たんぱく質も補える
☕ ドリンク
• 白湯+コーヒー(ブラック)
• 目覚ましと代謝アップ用。白湯で胃腸を温める
澪は、テーブルの向こう側にいる九条をちらりと見てから、
ベリーとキウイが彩られた小さな器を手元に引き寄せた。
ひと口、スプーンで口に運ぶ。
――甘い。
酸味は控えめで、蜂蜜の優しい甘さがじんわりと広がる。
一緒に添えられた豆乳のポタージュも、まろやかであたたかくて、身体の内側がほぐれていくようだった。
「……おいしい……」
思わず小さく呟いた声は、誰に向けたものでもない。
でも、耳に届いたのか、レオンがにこっと笑ってウィンクをひとつ返してくる。
こんな朝食、きっと、今までの人生で食べたことがない。
しかも、朝6時。
いつもは急いで詰め込むようにしていたパンとインスタントスープ。
だけど今、目の前には温かい料理と、彩り豊かな果物と、白湯さえも整えられていて――
澪はそっと、深呼吸をした。
目の前にある料理も、この静かな空気も、
全部、彼が“日常”として手にしているものなんだと思うと、少しだけ胸がぎゅっとなった。
でも、不思議と苦しくはない。
あたたかい食卓で、自分も同じように息をしている。
それが、ただ嬉しかった。
澪がスプーンを動かすたびに、小さく「おいしい」と呟く声が漏れる。
そうして、何度も噛み締めるように味わっている。
いつものレオンの料理。
特別な食材を使っているわけじゃない。手間とバランスに気を配っただけの、ルーティンの朝食。
だが――
(そんなに、幸せそうに食うか)
九条は、湯気の立つスープに手をつけながら、澪の指先と唇の動きを横目で追っていた。
無防備に、素直に、美味しさを受け取っている。
何かを守るように、小さく丸まった肩。
器を両手で持つ姿も、なんとなく幼い。
だが、そこにあるのは依存ではなく、信頼だった。
“これは、安心して受け取っていいものだ”と、彼女の身体が覚え始めている。
そう思うと、少しだけ――胸が温かくなる。
「……」
朝のテーブルには、言葉がなくても構わない。
レオンは澪と柔らかく会話をしていたが、九条は黙ってコーヒーを口に運ぶ。
それだけで、十分だった。
もう一度、彼女の皿に目をやる。
残りはあとひと口。
(しっかり食べろ)
そう、静かに思う。
昨夜、泣いて、乱れて、初めて“満たされた”身体で迎えた朝。
澪が、ちゃんと起きて、ちゃんと食べて、出勤の支度をしている。
――そのすべてが、心地よい。
ふと思い出したように、澪が顔を上げた。
「――あ、そうだ。Amazonの配達先、ここにしてもいい?」
九条は一拍置き、短く答えた。
「構わない」
「そんな大きい物じゃないから。宅配ポストに入ると思うし」
そう前置きしながらも、彼の視線に気づいたのか、少し笑う。
「……家電買うなよ」
「買いませんってば。でも、電化製品ではあるかな」
その瞬間、九条の眉がわずかに動いた。警戒ではなく、確認。
「……何を買った?」
「内緒」
澪は楽しそうに笑う。何か含みがある笑顔。
気にはなるが、それ以上は問わない。彼はごく当たり前のように話題を切り替えた。
「何時に出勤だ?」
「うーん……7時半くらいには出ようかな」
軽く伸びをしながら答える澪に、九条はわずかに視線を向けた。
「お前が行った後で出る」
「……自分で時間コントロールできるって、いいな」
ふっと漏れたその言葉には、羨望よりも、少しだけ疲れたような響きがあった。
澪は食器をキッチンへと運び終えると、バッグと上着を手に取った。
「たぶん、トラブルがなければ、7時前には帰れるかな。もし残業になりそうだったら連絡するね」
「わかった」
九条は新聞から顔を上げることもなく、淡々と答える。
「万が一遅くなりそうだったら、ご飯、先に食べてね。……まあ、冬は閑散期だし、たぶん遅くならないと思うけど」
そのやりとりを、レオンは食器を拭きながら黙って聞いていた。
気遣いと生活のリズム。
まるで、何年も連れ添った夫婦のような会話だった。
「じゃあ、行ってきます」
玄関へ向かうスリッパの足音と、続いてエレベーターの小さな電子音。
そして――
静かになった室内。
新聞をめくる音さえ止んだあとで、レオンが楽しそうに笑った。
「九条さん、彼女がいると雰囲気全然違うね。……初めて見たよ、そんな優しそうな九条さん」
九条は何も答えなかった。
答えなかったが、ページをめくる手の動きが、わずかに止まった。
澪が出て行ってから数分。
九条は、何も言わずに椅子を引いた。
新聞を閉じる音とともに、立ち上がる。
そして――
「着替えてくる」
ただ、それだけを残して、寝室へと姿を消した。
レオンはテーブルを片づけながら、ふとその後ろ姿に視線を送る。
(……やっぱり今日、練習の日だよね)
なのに、さっきまで着ていたのは――
襟元の整った、綺麗めのニットとスラックス。
動きやすさ重視の服ではなかった。
まるで、「練習なんかしない」人間の装い。
レオンは一瞬だけ目を細めて、ふっと笑った。
「……そういうことか」
キッチンの隅で、小さく呟く。
(ジャージ姿とか、トレーニングウェアとか……彼女に見せたくないってことね)
自分のそういうところを、彼は絶対に言わない。
言わないし、表にも出さない。
でも――
ちゃんと“恋する男子”じゃん。
レオンは、心の中でにやにや笑いながら、グラスをすすいだ。
(九条雅臣って、ほんと分かりやすい)
出発
「……帰りの服、持って行っときます?」
いつも通りなら、汗だくになったあとの着替えを用意するのが当たり前だ。
だが――
「練習時間に制限を設ける」
静かに返されたその言葉に、レオンは一瞬、固まった。
「……え?」
思わず、聞き返す。
(今、なんて?)
何時間も詰め込み続けるのが当たり前だった男だ。
食事も睡眠も最適化のためだけにあり、練習時間は“限界を超えるための手段”だったはずなのに。
それが――「制限」?
レオンは、問い詰めるような視線を向けかけて、でもやめた。
九条はもう、トレーニングウェアに着替えていた。
完全に“戦闘モード”の顔をしている。
着替えはいらない、ということか。
九条は無駄な言葉を挟まず、スマホを手に取ると、短く一言。
「氷川。5分で出る」
それだけを告げて通話を切った。
レオンがキッチンから顔を出す。
「……切り替え早っ。氷川さん、もう下にいるの?」
「そうだ」
「……ほんとに、スイッチ入ると別人だよね」
苦笑まじりに呟きながら、レオンは手にしていた皿を片づける。
たった数分前まで恋人と朝食を囲んでいた男は、もう“世界ランク1位”の表情に戻っていた。
レジデンス地下駐車場|九条の出発直前
⸻
地下駐車場の空気は、朝というより“無”に近い。
空調の低い音と、自分の呼吸音だけが響いていた。
エンジンも暖め済み。もちろん、指示がなくても。
――あと3分。
予測はしていた。
今日が“練習日”なら、確実に呼び出される。
“5分で出る”と連絡が来る前から、既にここにいた。
後部座席側へ移動する。
乗り降りに合わせて、扉を開けるためのポジション取り。
振り返ると、エレベーターから九条が現れる。
既に着替えは済ませていて、表情も“試合モード”に切り替わっている。
私服ではない。だが――彼女がいた時とは、明らかに違う服装だ。
目が合うことはない。
彼はそのまま無言で車に乗り込む。
私は、それに合わせて後部座席のドアを閉めた。
乗車を確認してから、運転席へ戻る。
ドアを閉じ、シートベルトを締め、ギアを入れる。
「おはようございます」
形式だけの挨拶。
彼は何も言わない。それでいい。
“いつも通り”が戻ってきた。
衝突
会議室。
テーブルの上には今日の練習プラン案が置かれているが、誰も手をつけていない。
九条が先に口を開く。
「本日からの練習メニューを変更する。全体方針も、見直す」
視線を動かすことなく、淡々と。
「今後、練習は週5日。18時まで。それ以上は詰めない」
その言葉に、一瞬だけ間が空く。
志水がノートを持ち直す。
蓮見は、軽く眉を動かしたまま、横目で氷川を見た。
だが、氷川は視線を逸らすでもなく、無表情のまま。
蓮見は何も言わず、問いも発さず、静かに受け取る。
九条は構わず、続ける。
「その代わり、密度は極限まで上げる。コンディション管理は志水に一任。1分刻みで構わない。数値管理と実戦想定の融合。休憩も測定対象だ」
「はい。了解しました」
志水は即座にうなずく。
こういう圧がかかった場面には慣れている。だが、少しだけ声が硬い。
すると、九条が振り返りもせずに言った。
「……時速260kmの球出しマシン、用意しろ。今週中だ」
蓮見が息を呑んだ。
「……260?」
「それ以下の速さでは反応速度の維持にならない。対人では再現できないラインを作る」
「機械の耐久、大丈夫か……?」
「壊れたら次を用意しろ。予備を含めて最低3台。部屋は個別で作る。氷川、手配しておけ」
「了解」
あまりにも淡々と返事する氷川に、蓮見がまたチラリと視線を投げる。
(……これは、練習の話だけじゃないな)
だが、誰も口には出さない。
九条が、会議室の空気を切るように言い放つ。
「限られた時間の中で、今よりも高負荷に耐えられる体を作る必要がある」
視線は誰にも向けず、ただ“事実”だけを投げるように。
「持久力、反応速度、筋出力。全項目で数値の底上げを図る。
今年は、全大会で“最短の勝利”がテーマだ」
蓮見が再び氷川を見た。
(“最短の勝利”?)
九条が今まで“勝つ”こと以上に、“早く終わらせる”ことを明言したことはなかった。
(……何のために?)
その問いを口に出す者は、誰もいない。
ただ、空気だけが静かに変わっていく。
そして――誰もが思った。
(なにが、あった?)
だが、答えは誰の口からも語られない。
「全豪決勝での“あの状態”――あれを、長時間持続できる身体を作る」
志水が一瞬、言葉を飲み込んだ。
「あれを“持続”…?」
九条は頷きもせず、淡々と続ける。
「全身を削るような集中と、極限のゾーン。あれを維持しながら、動ける体が必要だ」
「……それ、普通の人間には……」
志水が口を挟みかけたが、九条はその先を聞いていなかった。
「“普通”の話をしているつもりはない」
練習前のブリーフィングが終わった後、スタッフがそれぞれの準備に散っていく中、蓮見は動かなかった。
九条の前に立ち、腕を組んだまま言った。
「お前、やる事が極端すぎねえか?」
その声は思ったより低かった。
どこか諦めと、苛立ちと、焦りが入り混じったようなトーンだった。
「最短で勝つ必要なんて、どこにもねえだろ。全仏だって、普通に勝てばいいだけじゃねえか」
九条は椅子から立ち上がると、無表情のまま答える。
「“あの状態”で長時間戦うと危険だと忠告したのは、お前たちだ」
蓮見の眉が、ぴくりと動く。
「だからって、あの状態にそんな頻繁に入る必要あるか?」
「入れば、誰が相手でも勝てる」
静かで、決して揺れない声だった。
蓮見は思わず鼻で笑い、それから言葉を詰まらせた。
「……勝ってもよ、その結果、選手生命終わったら意味ねーだろ。お前、自分の人生、本気で考えてんのか?」
その言葉に、九条の視線が一瞬だけ、微かに逸れる。
「……先のことは、いい」
蓮見は、数秒、まるで固まったように黙っていた。
そして、声を張った。
「よくねえだろ!」
その一喝に、部屋の空気がきしむ。
まるで硝子の箱の中に閉じ込められたような圧。
九条はただ黙って、それを受け止める。
「今はそれでいいって思ってても、この先何があるかなんて分かんねえんだよ。目先の勝利だけで、全部投げ打つような真似すんなよ」
蓮見はもう、コーチじゃなかった。
一人の人間として、九条という選手の人生に食らいついていた。
「……なあ九条。俺はお前の十代の頃から、全部見てきてんだよ。
壊れてもいいって顔、何度も見た」
九条の指先が、わずかに拳を握るように動いた。
だが、言葉は出てこない。
「でもな――俺には家族がいる。嫁も、子供もいる。だから未来を考える。
……それで、やっとわかったんだよ。お前、今だけで生きすぎてんだ」
九条は黙ったまま、蓮見の顔を見た。
その瞳の奥に、ほんのわずかに、“迷い”の色が揺れた気がした。
だが、それはすぐに消えた。
「――練習を始める」
九条はそれだけ言って、背を向けた。
蓮見は追いすがらなかった。
ただ、背中に向かって一言だけ、呟いた。
「……生きろよ、ちゃんと」
その声は届いたかどうかも、分からなかった。
けれど蓮見は、それで良かった。
あいつは今、“自分を守る”という選択肢を持っていない。
ならせめて、言葉だけでも、渡しておきたかった。
練習開始
トレーニングウェア姿の九条が、無言で靴紐を締めている。コートには何の音もない。聞こえるのは、靴紐が擦れる音と、靴底がハードコートの床に当たる音。
「……最初に言っとく」
蓮見は、立ったまま言った。
「明らかな疲労や痛みが出たら、練習は止める。例外はない。
お前は、痛みを訴えない。顔にも出さない。だから、反応速度が落ちたら、止める。
志水の介入は拒否するな。筋肉に異常が出た時点で止める。お前がどう感じてるかは関係ない。
睡眠、絶対に削るな。寝れてない日は練習中止。縛ってでも寝かせる。嫌なら、ちゃんと寝てこい。
……俺には、お前を止める責任がある。
強くなりたいなら、“休むこと”をサボるな。追い込むだけが強さじゃねえ」
九条は何も言わなかった。
だが、手は止まらず、いつも通りの手順で準備を終える。
蓮見も返事を求めてはいない。
監督者として、コーチとして、あの背中に言葉を投げただけだ。
あとは――今日の練習で、九条自身がどう動くかでわかる。
足音を立てずについてきたレオンに、蓮見は振り返らず続けた。
「レオン、こいつが食ってるかどうか、最後まで見ろ。疲労が溜まりすぎると、食えなくなる。胃が受け付けなくて吐くこともある。毎日、体重も管理な」
「了解。口に入れた量、皿の残り、食後の顔色まで、全部記録する。朝昼晩、三回とも俺が見る」
相変わらずの冷静な返答に、蓮見は満足げに頷いた。
「志水も頼む。筋肉に異常が出たら、九条の意思は無視して止めろ。……あいつの“無理してない”は、信用できん」
目の前では、ストレッチを終えた九条が黙ってフードを被り、ラケットを手に立ち上がる。何も言わない。だが、それは無視ではなかった。ただ、返事をする必要がないと判断しただけだ。
蓮見もまた、何も言わずに一歩引いた。
ここから先は、”軍の時間”だ。
『志水メモ:九条ウォームアップ内容(高強度メニュー)』
目標:短時間で神経系・心肺系を限界に追い込み、瞬発力とゾーン突入確率を高める
▼セッション①:自重+心肺の瞬発メニュー(HIIT式)
- スクワットジャンプ(フォーム保持+最大跳躍20秒×2)
- マウンテンクライマー(肩と膝の位置を厳密に統制、全速20秒×2)
- バーピー(ジャンプ時の滞空時間記録。空中で腰を反らせてはいけない)
- ハイニー(心拍数180超でフォームが崩れないか検証)
- ジャンピングランジ(前脚にかかる荷重に対する反応テスト)
→ 以上、各20秒+10秒インターバル、2周(計8セット)
▼セッション②:筋力の追い込み(静域手前で制御を保つ)
- ベンチプレス:ドロップセット3段階 → 上限重量→85%→60%。フォームのブレが出たら強制中止。
- ラットプル+ベントオーバーロウ:スーパーセット → 背筋の持久力と正確性に課題あり。
- レッグプレス:ネガティブ強調(4秒かけて戻す)
- 補助つきダンベルカール:フォースレップ → 九条は「限界」判断を他者に任せないため、蓮見が手を出すタイミングが極めてシビア。
▼セッション③:有酸素+反復負荷系
- 40mダッシュ×3(心拍150〜170維持)
- 方向転換後のパス動作(反復ジャンプ後にパスフォーム再現)
- 90%スピード→3分休息→再び最大出力のスプリント(3セット)
備考:
睡眠時間記録:7.1時間(志水チェック済)
心拍はApple Watch記録。170を上回った後の反応速度の低下時間に注目。
食事はレオンが管理。体重は前日比+0.2kgで維持。
蓮見視点:鉄ポール訓練
「がむしゃらに振るだけの練習は意味がない。お前が言う“あの状態”ってやつには、極限まで神経を集中させないと入れない」
そう言って俺が持ち込んだのは、壁じゃない。
直径10センチに満たない鉄のポールをコートの一角に数本、等間隔で立てる。
使うのは、その中の一本だけだ。
「壁打ちじゃない。ポール打ちだ。ずれたら全部無駄になる」
ポールの中心を狙って打つ。スイングがミリでも狂えば、ボールは変な角度で跳ね返る。
ラリーの継続は不可能。
「まず100回。1球たりとも外すな。それができたら200。…メトロノームも使う。テンポが落ちたら即終了だ」
音と振動も判断材料だ。
どんなに速くても、スピンが乗っていても、テンポがブレた瞬間に全部終わる。
誤差は許さない。それが、この練習の前提。
「練習中に返せるのが当たり前じゃない。失敗してる練習には、意味がない」
九条は無言で頷き、ラケットを握り直す。
目はすでに“あっち側”にある。
鉄のポールに向かって打ち込まれたボールが、カン、と乾いた音を立てて跳ね返る。
1球、2球――そのテンポが、正確にメトロノームと重なった。
この男は、正気のまま、狂気に入り込んでいく。
だから強い。
そして俺は、その強さに、責任がある。
九条視点
昼食を終えた頃には、胃が少し重かった。
体温がほんの少しだけ上がっていて、食事がいつもより通りにくい。
――それでちょうどいい、と九条は思う。
午後一番の練習は、ポール打ちだった。
直径10cmの鉄ポールに、連続で100回正確に当てる。
スピン量、打点、スイングの角度――誤差は許されない。
振る、当てる、戻る。
テンポは、心臓の鼓動よりわずかに速く。
体は疲れている。HIITでの心拍は今朝すでに185を超えていた。
それでも。
「85、86、……」
九条の打球音が、ポールに淡々と響いていく。
その音に、わずかな変化も許されない。
「テンポ、5上げる。維持できなきゃカウントリセット」
蓮見の声が、容赦なく落ちてきた。
メトロノームの音が、速くなる。
チッ、チッ、チッ。
まるで時限爆弾のように、刻まれるリズム。
「タイミングで振るな。軌道で振れ。反射を削れ」
蓮見の指示は常に“原理”に基づいている。
九条は、言葉ではなく身体の誤差で、それを理解するしかない。
打点のわずかなズレが、ボールの軌道を歪ませる。
反射角が変われば、ポールに当たらない。
一度でもミスをすれば、振り出しに戻る。
「90回目。次、ラスト10」
蓮見の声が遠くに響く。
九条は、返事をしなかった。
必要なのは声ではなく、精度だった。
「93、94……」
九条の肩に汗が光る。
スピン量を殺し、ミリ単位でスイングを矯正しながら、
100回目に、鉄柱が澄んだ音を響かせた。
「終わり」
蓮見の一言と同時に、志水が近づいてくる。
無言で九条の肩にアイスパックを貼り付け、腕の腱を指でなぞる。
ポール打ち 難易度アップ
「慣れてきたな」
鉄ポールへの打ち返しが100、200と安定し始めた頃。
俺は静かに、次の難題を提示する。
「じゃあ、難易度を上げる」
取り出したのは、縫い目に色を塗った数種類のボール。
赤、青、黄色――ボールのステッチに、それぞれ対応する色を入れてある。
そして、同じ色のテープをポールに巻いた。
「赤のボールは赤のポールへ。青は青だ。色を見分けて、正確に返せ」
正確性の狂気だ。
でもこれが、“支配”ってやつの本質だ。
「目で見ろ。0.5秒以内に判断しろ。
視界に入らなかったら、それはお前の集中力が足りない証拠だ」
わずかな色の違い。ほんの一瞬の縫い目の線。
見誤ったら、返しても無意味だ。
色を間違えれば、正確に打っても“ミス”になる。
「反応速度、識別能力、フォームの再現性――
どれか一つでも欠けたら、この練習は成立しない」
九条は一言も返さない。ただ、頷いた。
静かな狂気。
命中精度に魅入られた人間だけが辿り着ける、完璧の領域。
次のセットで、メトロノームのテンポを一段階上げた。
部屋の奥で「カチッ、カチッ」と響く規則音が、静かに狂気を煽っていく。
「60からスタート。2分ごとに5上げる。
100を超えたら、意識がズレた瞬間にアウトだ」
ポールは6本に増えた。
色も、赤・青・黄に加え、緑、紫、白。
光の加減で識別が難しくなるように、照明の角度も変えてある。
「お前の目、どこまで色を見分けられる?」
問いはしても、返事は求めていない。
俺が求めてるのは、反応と精度だけだ。
九条は、黙って構えた。
マシンが動く。
ボールが放たれる。
0.3秒で見極め、0.5秒で反応、1秒未満で“色”と“方向”を一致させて返す。
テンポが落ちれば、即終了。
ミスれば、初めから。
これは練習じゃない。選別だ。
完璧な動作を“選び続ける”人間だけが生き残る世界。
暗闇の中の狂気
午後五時。
日が傾き、コートのカーテンがすべて閉められる。
人工照明も落とされた。
最後の一灯が消えた瞬間、世界から“目”が消えた。
クレーコートの表面には、軽く水が撒かれている。
ラリー中の足音、打球音、ボールが地面を叩く音――
すべての感覚は“音”に委ねられる。
「目、閉じろ」
蓮見が低く言った。
九条は無言で、黒い布のアイマスクを自分で結んだ。
きつく、光が一切入らないように。
完全な暗闇。
何も見えない。
「ラリーってのはな、見てやるもんじゃねえ。感じて返せ」
蓮見がボールを1つ、コートに落とす。
パサッ――
そのわずかな音に、九条の身体が反応した。
「最初は打ち返すだけでいい。フォームも距離も合ってなくていい。
ただ、“聞け”。地面の音と、俺の打球音を」
「…始めろ」
俺の声に、九条はラケットを構え直した。
視線なんて、もう意味をなさない。
代わりに頼るのは、足音。砂の跳ねる音。ボールが土を打つ音。
蓮見がボールを打つ。
音だけが走る。
スウッ――バスッ
その打球音のあと、クレーに吸い込まれるような土の音。
ボールがバウンドした瞬間を、九条の耳が捉えた。
――キュッ。
相手が踏み込んだ音。
――バッ。
ラケットを振った風の切れ。
――ザッ。
ボールが地面に刺さるように跳ねた音。
一瞬の静寂のあと、九条が動く。
フットワークに迷いはない。
まるで“音の軌跡”をなぞるように、最短距離で打点に入った。
次の瞬間、ラケットを振り抜いた。
打球音は、ほんのわずかにズレた。
「早い。0.2秒ズレてる」
蓮見の声が飛ぶ。
だがそのまま、もう一球。
もう一球。
蓮見はテンポを崩さずに打ち続ける。
暗闇の中、九条は呼吸すら静かに、
まるで音の気配と空気の流れだけを頼りに、
ラリーの距離を保ち続けた。
十球目、ようやく正面から打球音。ネットを越えた。打球が入った。
「……そうだ。それが“聞いた”時の音だ」
蓮見が呟いた。
志水はその様子を、コートの端で見ていた。
目隠しをした人間が音だけでラリーを続けている。
常軌を逸した光景だった。だが、九条にとっては違う。
それは、“あの領域”に近づくための道だった。
目隠しポール当て
ラリー開始から一時間。
空気の密度が、変わっていた。
九条の動きに、迷いがなくなっていた。
ラケットの振り抜きは滑らかに、呼吸のリズムも一定。
耳で“打球の座標”を捉え、スイングの軌道を合わせていた。
蓮見がボールを1球、少し強めに打つ。
バスッ――乾いた打球音。
九条は数歩踏み込み、目隠しのまま打ち返した。
打球は、ライン上をかすめて入った。
「……なあ、慣れてきたな」
蓮見が笑う。
だが九条は、構えを崩さずに言った。
「さっき使ったポールを持ってこい」
「……は?」
「目隠ししたまま当てる」
その瞬間、コートにいた全員の空気が止まった。
レオンが眉をひそめ、志水は一歩、足を前に出す。
だが、止めようとはしなかった。
「お前、本気か?」
「精度は感覚で覚える。目は関係ない」
「見えないのに、10cm以下のポール狙うのか?」
「自分の立ち位置は感覚で把握した。打つ方向を調整して当てる」
蓮見はわずかに唇を吊り上げて、
「……よし」と呟いた。
ポールがクレーコートに再び立てられる。
鉄の音がカン、と響くたび、九条の耳が反応する。
九条はラケットを構えたまま、静かに吸う。
吐く。
わずかな空気の震え。足裏に伝わる土の感触。
“そこにある”という記憶を頼りに、打ち返す。
一球目――外れ。
二球目――ポールの根元をかすめる金属音。
三球目――カン。
正確に、10cmのポールに打球が当たった。
澄んだ金属音が、コート全体に響いた。
「九条さん、かなり深いゾーンに入ってますね」
異様な光景を眺めながら、氷川がポツリと呟いた。
横にいたレオンが
「フロー状態?」
そう問うと、志水が答えた。
「違う。あれは“意識”して集中してる。……領域に入ってるのは確かだけど、自分の意思で」
普通の練習風景じゃない。
本能の底に火を灯して、感覚を研ぎ澄まし、視覚なき空間を制圧する。
常軌を逸した――だが、“理屈”の中にある練習だった。
ラスト10分 濡れたボールの試練
太陽は地平線へと沈み、クレーコートはほとんど暗闇だった。
時計の針は、午後5時50分を指している。
ラリーは既に30分を超えていた。
九条は、未だに目隠しをしたまま。
だがその動きに、一切の淀みはなかった。
蓮見が声を上げる。
「……じゃあ、ラスト10分。これが最後だ」
「……」
「ボールを濡らす」
志水がボールの箱からいくつかを取り出し、
バケツの水にゆっくり沈める。
ボールが水を吸い、重さが変わる。
そしてランダムに乾いたボールと混ぜられ、投げ込まれる。
九条には、それがどれかわからない。
――ここはクレーコート。
濡れたボールは、土を絡めてさらに重くなる。
跳ねも鈍く、スピンも失われる。
目が使えない今、判断できるのは音と空気の“違和感”だけ。
ラリー、再開。
ボールが地面を叩く。
ザッと湿った音がした。
クレーがまとわりついて、打球が沈んでいた。
瞬間――九条のラケットが空を切る。
乾いたボールではなかった。
重さが、違った。
「今の、濡れてたな」
「正解」
蓮見が無表情に返す。
二球目。乾いた打球音。
素早く振り抜き、ポールへ。
カン――当たった。
三球目。
スピンが死んで、跳ねなかった。
水が含まれたボール特有の粘り気。
だが九条は、一歩深く踏み込み、ラケット面を立てて正確に打ち抜く。
「濡れた球はスピンがかからない。土の摩擦がボールを潰す。
跳ねる高さも変わるし、打点を下げないと詰まる」
蓮見が、志水に説明する。
志水は黙って、九条の動きを見守る。
心拍は安定。肩、手首、膝の動きも正常。
“まだ行ける”と判断する。
四球目、五球目……
乾いた音と濡れた音が交互に響く中、
九条はラリーを崩さず、全て打ち返す。
十球、十五球。
乾いた音と鈍い音が交互に響く。
九条の身体は、全てを“聞いて”反応していた。
――ラスト1球。
明らかに濡れていた。
跳ねが潰れ、土がまとわりついた音。
空気が重い。
スピンが滑る感触を、“鼓膜”が捉えた。
一歩、前へ。
振り抜いたラケットが――
カン
狙ったポールに、正確に当たった。
完璧だった。
重いボールを、ポールの中心に当てた。
沈黙。
蓮見が、肩の力を抜いて笑う。
「……お前、ほんとに人間か?」
九条は目隠しのまま、ラケットを下ろした。
「わからない。
でも、もう一段階は上がれる気がする」
クレーの闇に、乾いた息が白く立ち昇った。
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