港の船の音
横浜の事務所に、夜の九時過ぎまで澪がいた。
Sunreefのカタログを三案抱えて、月曜の締め切りに間に合わせなければならなかった。デスクの上には、顧客ごとのファイルが積まれていた。ヨット一隻に関わる案件は、それだけで何十ページにもなる。
通知は切ってあった。
集中が途切れるのを嫌うから、スマートフォンの通知は仕事中はすべてオフにしていた。SNSも、ニュースアプリも、鳴らない。
ただ、自分で調べることはした。
マドリード・オープンの決勝戦が今日だということは、知っていた。澪は画面をタップして、スポーツニュースを開いた。
「マドリード・オープン決勝:九条雅臣(日本)がルーカス・ヴォル(ノルウェー)を6-4、4-6、6-4で下し、優勝。」
文字を読んで、息を吐いた。
ホッとした。それが正直なところだった。優勝、という言葉を見て、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
それから、すぐに計算した。
三セット。今日の試合は三セットかかっている。六四、四六、六四。タイブレークなしだが、体力の消耗は大きいはず。次はローマだ。ローマまでの日数を数えた。準備時間が、少ない。
九条が大会を捨てるという選択をしないことは、澪にはわかっていた。目の前の試合に全力を尽くす。それが彼の性質で、今年グランドスラムを四つ取るという目標を持ちながら、その前のマスターズで手を抜くという計算を、彼はしない。できない、と言った方が正確かもしれない。
心配しないわけではなかった。
連絡はなかった。
連絡するなと言われているから、こちらからもしない。それはわかっている。わかっているが、優勝した夜に一言もないのは、少しだけ寂しかった。少しだけ、だ。彼がそういう人だということも、知っている。
澪はスマートフォンを伏せて、Sunreefのファイルに目を戻した。
私にも仕事が、ある。
窓の外に、みなとみらいの灯りが見えた。港にいくつかの船の輪郭があった。水に映る明かりが、揺れていた。
二時間半
マドリード・バラハス空港を、夜の便で出た。
フィウミチーノまで二時間半。時差はない。国境を二つ越えるのに、腕時計を直す必要がない。ヨーロッパのクレーシーズンは、そういう距離でできている。モンテカルロ、バルセロナ、マドリード、ローマ、そして全仏。四月から六月までの二か月を、選手たちは赤い土の上だけで過ごす。
機内は静かだった。
九条はiPadを開いていた。昨日の決勝の映像だった。
第二セット、四ゲーム目。ここから入れなかった。潜ろうとして、水面に弾かれた。その感触だけが残っている。映像の中の自分は、正しく動いている。足も、打点も、修正の速度も、いつも通りだ。数値にも異常はない。
原因の項目が、埋まらない。
巻き戻して、もう一度見た。同じところで止まった。
「まだ見てんのか」
蓮見が通路側から覗き込んだ。
「勝った試合だぞ」
九条は画面を閉じなかった。
「内容が違う」
「違わねえよ。ヴォルが良かっただけだ」
蓮見は隣の席に腰を下ろした。シートベルトを締めずに、背もたれを倒す。
「それより、明日から別の球を打つ話をしろ」
九条は視線を上げた。
「マドリードは標高六百五十七メートル。空気が薄い分、球が飛ぶ。速い。お前はあの条件で二週間、身体を作ってきた」
蓮見は指を二本立てた。
「ローマは海抜ゼロだ。しかも地中海が近い。湿気を吸ったクレーは、球を殺す。同じ力で振っても、伸びない。バウンドは高くなって、遅くなる。ラリーが長くなる」
「知っている」
「知ってるのと、明日打てるのは別だ」
蓮見は前の座席を顎で示した。三列前で、三上遼が首を伸ばしてこちらを見ている。目が合うと、慌てて前を向いた。
「あいつ、ローマの本戦は初めてなんだよな」
「予選なら、二年前に」
通路の向こうから氷川が答えた。ノートパソコンを閉じずに、顔だけをこちらに向けている。
「三上君、来ていいよ」
レオンが後ろから声をかけた。三上が立ち上がって、通路を戻ってくる。
「すみません、盗み聞きしてました」
「聞けよ。金取らねえから」
蓮見が笑う。三上は肘掛けに寄りかかって、氷川の方を向いた。
「氷川さん。ローマって、ドロー何人でしたっけ」
「九十六」
氷川は画面を見ないまま答えた。
「マスターズ千の中でも、大きい方です。予選が五月四日と五日。本戦が六日から。上位三十二シードは一回戦が免除されるので、九条は二回戦から入ります。決勝までで六試合。十二日間の日程です」
「六試合」
三上が繰り返した。
「マドリードで五試合して、中三日で、また六試合ですか」
「そうです」
「……えげつないですね」
「だからみんな、どこかで捨てるんだよ」
蓮見が言った。
「マドリードとローマ、どっちかを調整に使う。全仏だけ本気で獲りに行く。ナダルの時代からそうだ。全仏に一番近いのはローマだからな。海抜も、湿度も、球の重さも、パリとほとんど同じだ。だからローマは全仏のリハーサルって呼ばれる」
三上が九条を見た。
「九条さんは、捨てないんですよね」
九条は答えなかった。答える必要のない質問だった。
「捨てるっていう選択肢が、この人の頭にはないの」
後方の席から、カザランが顔を出した。膝の上にカメラのバッグを抱えている。機内に持ち込む荷物が、毎回それだけ多い。
「ねえ九条、ちょっといい? フォロ・イタリコって、大理石の像がいっぱいあるとこだよね」
「ある」
「あそこ、撮影許可って要るのかな。関係者パスで入れる範囲、どこまで?」
「知らない」
「はいはい、知らないよね。氷川くーん」
「後で確認します」
カザランはスマートフォンを三上に向けた。画面には、白い石の列が写っている。
「スタディオ・デイ・マルミ。大理石の競技場。カッラーラの白大理石で作った四メートルの裸の男が、六十体、陸上トラックを囲んで立ってんの。イタリア中の六十の都市が一体ずつ寄付したんだって。ムッソリーニの時代にね」
「ムッソリーニ」
三上が眉を寄せた。
「あの、独裁者の?」
「そう。フォロ・イタリコって、もともとフォロ・ムッソリーニって名前だったの。一九二八年に着工して、三八年完成。ローマ五輪を招致するための、国威発揚の施設。戦争が終わって名前だけ変えて、建物はそのまま残してある。世界で一番きれいに残ってるファシスト建築のひとつ」
「……それ、残しといていいんですか」
「よくないって言う人もいるよ。でも壊してない。壊さないまま、上でテニスやってる。それがローマなんだって」
カザランは画面をスワイプした。白い石柱が映った。
「これ、正面入口のオベリスク。十七メートル半。一枚岩だよ。で、ここに何て彫ってあるかっていうと」
指を止める。
「MUSSOLINI DUX。ムッソリーニ、指導者」
三上が声を出さずに口を動かした。
「消してないんですか」
「消してない。八十年、そのまま。世界中の選手が、毎年その下を歩いてコートに行くわけ」
カザランは九条を見た。
「ねえ、あれ何回見た?」
九条は少し考えた。
通路の名前を、覚えていない。石柱があることは知っている。白い。高い。毎年、その横を通っている。何が彫られているかは、読んだことがなかった。
「覚えていない」
「何年来てんの、ローマ」
「七年目だ」
カザランは何か言いかけて、やめた。カメラバッグのファスナーを閉めて、席に戻っていった。
蓮見が小さく笑った。
「観光しに行くわけじゃねえからな」
九条はiPadに視線を戻した。
「水、気をつけてね」
レオンが後ろから紙コップを渡してきた。
「ローマの水、硬いんだよ。石灰質。飲めるけど、マドリードのとはミネラルの構成が違う。汗の量も変わるから、こっちで一回、電解質の配合を組み直す。今夜のうちにやっておくね」
「頼む」
「あと、湿度。夜の試合が入ると、コートが水を吸って重くなる。滑り方が変わるから、膝と足首の負荷が上がるんだよね。早瀬くんが可動域のメニューを変えるって」
窓の外は暗かった。地中海の上を飛んでいるはずだが、何も見えなかった。
三上がまだ隣に残っていた。
「あの、ひとつだけ聞いていいですか」
「なんだ」
「ローマの客って、そんなに違うんですか。予選のときは外のコートだったんで、あんまり」
答えたのは蓮見だった。
「違う。あそこはサッカーの客がテニス見に来てると思え。ミスに笑うし、いいショットには吠える。気に入らない判定には口笛が飛ぶ。フィスキっていうんだ、あれ。ブーイングじゃなくて口笛。抗議の音楽だとか言いやがる」
「怖いですね」
「怖かねえよ。厄介なだけだ。あいつら、五分前まで応援してた選手を平気で見捨てる。逆に負けてる方に肩入れし始める。ドラマが好きなんだ。試合じゃなくてな」
蓮見は背もたれを起こした。
「で、一番嫌われるのが、感情を出さない選手だ」
三上が九条を見た。九条は画面を見ていた。
「ウィナー打っても顔色変えないやつを、あいつらは許さない。何度もDai! って叫んで、それでも反応がないと、最後は黙る。全員で黙って、見てるだけになる。あれをやられると、大抵の選手はメンタルが崩れる」
「九条さんは」
「崩れねえよ」
蓮見はシートベルトを締めた。
「こいつは向こうが黙る前から、もう聞いちゃいない」
降下が始まった。
九条はiPadを閉じた。第二セット四ゲーム目の答えは、出なかった。
ローマで出す。そう決めていた。
二千年分の石
フィウミチーノ空港に着いたのは、深夜だった。
エアブリッジを降りた瞬間、空気が変わった。マドリードとは違う湿り気だった。地中海の近さが、夜の空気にあった。乾いた高原の空気を肺に慣らしてきた体が、湿度を感じた。重さがあった。ただの湿度ではなく、土地の重さだと思った。
藤代が先に動いていた。
荷物をピックアップしながら、藤代はターミナルの外に出て、手配してあった車を確認した。イタリアに入るたびに、車両が変わる。国ごとに変える。九条が特に指示したわけではないが、氷川がそうしてきた。会場からホテルまでの動線を、事前に確認してある。
市内へ向かう道で、石の建物が続いた。
ローマの建物は、重い。マドリードの建物も古いが、ここはさらに違う重さがある。石の色が違う。石の積まれ方が違う。何百年か、何千年か、それより前のものが混ざって、道になり、建物になり、街になっている。窓の外をただ見ていた。考えるわけではなかった。ただ通り過ぎた。
テヴェレ川を渡った。
夜の川は黒く、橋の街灯が水面に落ちていた。ローマの水は茶色いと聞いていたが、夜はわからなかった。橋の上を車が走って、橋を越えて、また石の街に入った。
助手席で、カザランが窓に張りついていた。
「ねえ見て、あれヴァチカン。近いよ。フォロ・イタリコって、ここから三キロちょっと北なんだって」
誰も答えなかった。三上だけが身を乗り出した。
ホテルは、パリオーリにあった。
ローマの北東、ヴィラ・ボルゲーゼの緑に隣接した高級住宅街だ。パルコ・デイ・プリンチペ。ローマ大会に出る上位選手の多くが、毎年ここに泊まる。会場までは車で二十分ほど。近くはない。
スパがある。インドアプール、フィンランドサウナ、トルコ式のハマム。大きな試合の翌日、選手たちはここでアイスバスと温浴を繰り返して身体を戻す。氷川が毎年この部屋を押さえるのは、そのためだった。
石張りのロビーに、夜の照明が低く落ちていた。氷川がすでに立っていた。
「明日は六時から練習です。コートは三番を押さえてあります。蓮見さんと志水さんには連絡済みです」
三文で終わった。氷川の報告はいつもそうだった。
部屋に入った。スイートルームだった。窓を開けると、真下に庭園があった。プールの水面が、消し忘れたような照明を受けて静かに光っている。その向こうは、ヴィラ・ボルゲーゼの闇だった。樹々の輪郭だけが、空との境に黒く並んでいる。街の音はほとんど届かない。ジャスミンの匂いがした。庭のどこかで咲いているのだろう。夜風は湿っていて、ローマの夜はまだ終わっていなかった。
左手を見た。
マドリードで振り続けた手だった。熱はなかった。飛行機の中で、熱が落ち着いた。関節の感触を確かめた。明日、打てる。
九条はそのまま窓を閉めた。
大理石の選手たち
朝五時、目が覚めた。
カーテンを開けると、ローマが白く霞んでいた。夜の重さはそのままで、しかし明かりが変わっていた。庭園灯が消えて、空の端が白み始めていた。昨夜は輪郭だけだった樹々が、朝の光の中で形を持ち始めている。プールの水は、動いていなかった。
六時に蓮見と志水が来た。コンディションを確認して、そのままフォロ・イタリコへ向かった。ヴィラ・ボルゲーゼの緑を抜け、テヴェレ川に沿って北へ、二十分。
関係者用のゲートを抜けると、白黒のモザイクタイルの大通りが始まる。古代ローマの技法を踏襲したものだと、いつか誰かが言っていた。選手も、スタッフも、審判も、全員がこのタイルの上を歩いてコートへ向かう。
その突き当たりに、白い石柱が立っていた。
朝の光を受けて、まだ半分が影になっている。高い。近づくほど、上を見上げなければ全体が入らない。
九条は足を止めなかった。ただ、正面に彫られた文字が、視界の端に入った。
MUSSOLINI DUX.
七年、この横を歩いてきた。読んだのは、初めてだった。
読んだところで、何も変わらなかった。石は石だ。文字は文字だ。歩調は乱れなかった。
ただ、目に入るようになった、という事実だけが残った。
会場に入る前に、大理石の像が並んでいた。
六十体の選手像だった。ムッソリーニの時代に建てられたものだと、いつか読んだことがあった。どの像も、スポーツの姿勢をしていた。投げる形、走る形、構える形。しかしどれも動いていない。どれも競っていない。ただそこにある。スポーツの形をした石だった。
九条はその列の横を歩いた。毎年歩くだけの場所。特に何の感情も動かない。
コートに入った。
クレーの色が、マドリードと違った。テラコッタに近い、赤みの強い土。スペインのクレーより少し深い赤だ。跳ねるボールの音も少し違う。九条はそれをウォームアップの最初の一球で確かめた。毎回のことだった。土ごとに調整する。足の裏が、土の感触を読んでいた。
頭上に、ピニ・ロマーニが並んでいた。
傘を逆さにしたような形の松だった。ローマの空にだけある形だ。青い空に向かって広がって、その下でボールが行き来した。マドリードの空は高かったが、ここの空は近かった。松があって、石があって、テヴェレが近くにあって、二千年の都市がコートを囲んでいた。
球出しが始まった。
九条はベースラインに入った。ラケットを握った。フォアから始めた。
テラコッタの土が、靴底の下にあった。
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