0001.「三年と一隻」― 受注

Scene 1|横浜・オフィス、2019年12月

神奈川県横浜市。みなとみらいを望む中層ビルの一角に、澪が勤める海洋レジャー専門エージェンシー「マリン・アセット・パートナーズ」の事務所はある。窓の外には鉛色の冬の海が広がり、遠くにベイブリッジのシルエットが浮かんでいた。

「綾瀬、ちょっといいか」

上司の有本が澪のデスクに歩み寄ったのは、午後二時を回ったころだった。手にしているのは薄いクリアファイル一枚。いつも余裕綽々の上司が、珍しく声のトーンを落としていた。

「K.M. Holdings、知ってるか」

「…持株会社ですよね。確認します」

澪はすでに手元のキーボードを叩いていた。法人登記、資本金、代表者氏名——三十秒で基本情報を引き出し、クライアント属性を頭の中で分類する。スポーツ関連会社を束ねた持株会社。代表は九条雅臣個人。

「代表者の方が直接オーナーになるんですか、それとも法人名義で」

「Sunreefを個人名義で乗り出したいそうだ。ただ、窓口は会社のマネージャーを通す形になる」

「ご予算感は」

「上限は設けない、と言ってる。それより仕様と納期を優先したいと」

澪はペンのキャップをカチカチと鳴らした。上限なし、仕様優先。つまり、数字より質で判断するタイプの顧客だ。交渉難度が高い部類に入る。

「ご用途は」

「プライベート用。リゾートとかじゃなくて、どちらかというと移動拠点みたいな感じらしい。一人で乗ることが多いと」

「一人用の仕様で、でも移動拠点として使う。サイズ感はどのあたりを想定してますか」

「それも含めてヒアリングしてくれ。先方のマネージャーが来週、初回の打ち合わせを希望している」

澪はスケジューラーを開いた。来週の火曜日に空きがある。

「承知しました」

有本は安堵と期待の混じった顔で頷き、ファイルを置いて去った。

澪は資料をめくりながら、「九条雅臣」という固有名詞を再度目で追った。スポーツ関連の持株会社。プロアスリートか何かだろう。調べようと思えば調べられるが、あえてそうしなかった。事前に顧客の人物像を検索で仕入れてしまうと、どこかで「この人だから」という感情的なバイアスが混入する。澪にとって顧客は顧客だ。名声は購買力の証明にはなるが、価格交渉のカードにはならない。ならば今の段階で余計な情報を持つ必要はない。

どうせ打ち合わせで本人か代理人に会えば、必要なことは全てわかる。

彼女はファイルをデスクの端に置き、Sunreefのカタログデータを画面に引き出した。同時にもう一つのタブに、グダニスク本社の最新受注状況を確認するためのメールを英語で書き始めた。中東案件の問い合わせが来れば次はアラビア語になる。それが澪の日常だった。

Scene 2|初回打ち合わせ、翌週火曜日

会議室に入ってきたのは、スーツを着た長身の男一人だった。

端正な顔立ち。短く整えた髪。柔らかく見えて、目だけが鋭い。

「氷川尚登と申します。K.M. Holdingsで全体統括をしております」

名刺を両手で差し出しながら、その声はあくまで穏やかだった。澪も名刺を返し、促した椅子に氷川が腰を下ろす。

「本日は代表の九条は同席しません。ご不在の件はご容赦ください」

「問題ございません。まず、ご要望の全体像を把握させていただければ」

氷川は薄いタブレットを卓上に置き、いくつかの写真を澪に向けた。それはシンプルで、徹底的に黒と無彩色で統一されたインテリアだった。家具、壁、照明——全てのトーンが絞られ、装飾は限りなく削ぎ落とされている。

「代表のライフスタイルとしては、こういった方向性を好みます」

「ダーク・モノクロームですね。了解しました。外装のハルカラーは」

「ネイビーからブラック系を想定しています」

「ご使用の主なシーンは」

「遠征先での移動と滞在。競技が終わった後の、外部から遮断された時間の確保です。エンターテインメント用途ではありません」

競技。遠征。澪は視線を手元の資料に落としたまま、頭の中でパラメーターを整理した。このクライアントは、要はオフの時間を完全にコントロールしたいのだ。外から切り離された空間。静寂と機能の両立。ゲストを招いてのパーティーなど、おそらく想定の外にある。

「お一人でのご使用が基本とのことでしたが、スタッフの方が乗船されることは」

「トレーナーや医師が同乗することはあります。ただし、あくまで機能的な目的のみです。彼らの居住スペースよりも、代表が単独で使用する空間の質を優先してください」

「具体的には、どういった機能を最重要視されますか」

氷川は一拍置いてから答えた。

「リカバリー。睡眠の質と、身体ケアのための空間です。次に、外部との完全な遮断。Wi-Fiを含む通信環境の維持は必須ですが、雑音は遮断したい」

「承知しました。サイズ感のご希望は」

「スペックと機能を満たすために必要なサイズ、ということで一任しています。ただし、取り回しの良さも重要です。大型港だけでなく、小規模なマリーナにも入港できる全長を維持してください」

澪はその場でノートを取りながら、既に頭の中でSunreef 80 Ecoの仕様を当てはめていた。全長約二十四メートル。ダブルハル構造のカタマランで、ソーラーパネルを船体に統合した次世代モデル。エンジン稼働を最小化する「静寂の航行」が最大の売りだ。内装は完全にオーダーメイドで構成できる。

「一点だけ確認させてください。環境配慮型のモデル(ソーラー推進システム統合型)についてはいかがでしょうか。エンジン音が極小化されることで、静粛性が格段に上がります」

氷川はタブレットに何かを打ち込み、少し考えるような間を置いた。

「……問題ありません。むしろ適切かもしれない」

おそらく今、氷川は遠隔で九条に確認を取ったのだ、と澪は察した。即答ではなく、一拍ある。でもその一拍は逡巡ではなく、確認の間だ。

「では、Sunreef 80 Ecoをベースにご提案します。発注から完工まで、通常ラインで約十四ヶ月を見込んでいただく必要があります。ポーランドのグダニスクが建造拠点になります」

「納期は」

「現状のオーダー状況を確認した上で、来週中に正確な見込みをお出しします」

「わかりました」

氷川は立ち上がり、再び名刺を取り出さずに——すでに渡していたから——静かに会釈した。

「今後の窓口は私になります。代表は商談の場には出ません。ご了承ください」

「はい。ご予算の上限は、改めてご確認させていただいてよいですか」

「上限は設けません。ただし、無駄な費用は一切認めません」

二律背反のように聞こえるが、澪には意味がわかった。金を惜しむのではなく、意味のないコストを嫌う。機能に対して対価を払う、という思考回路だ。

「承知しました」

氷川が出ていった後、澪はノートを閉じてデスクチェアに背を預けた。

厄介な顧客だ、とは思わなかった。要件が明確な顧客は、実は仕事がしやすい。問題は、その要件に完璧に応えることだ。

Sunreef 80 Eco。ダーク系インテリア。静粛性。リカバリー機能特化。一人用。

澪はコーヒーを一口飲んで、造船所への問い合わせメールを書き始めた。


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URB製作室

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