0004.「三年と一隻」― 氷川の刃

Scene 8|横浜オフィス、2020年6月——上層部の介入

グダニスクとのスロット交換交渉がまとまって三日後、有本に呼ばれた。

いつものデスクではなく、会議室だった。そして有本の隣に、営業本部長の立花が座っていた。

立花は五十代で、白髪交じりのこめかみと、常に正しいことを言っているような表情をしていた。

「K.M. Holdingsの件だが」

立花が口を開いた。

「ロックダウン以降、富裕層のヨット需要が世界的に爆発的に伸びている。今の九条は、テニス界の絶対的なトップだ。彼がうちを通してこの船を買ったとなれば、計り知れない宣伝効果がある。過去にも欧州のレジェンド選手たちが購入した際には、それ自体が世界的なニュースになった。この案件は、そういうレベルの話だ」

澪は答えなかった。立花は一人で続けた。

「その規模のVIP案件を、二十代のお前が一人で担当し続けるのは、先方に対しても失礼だ。会社としての『格』が疑われる。ここから先の最終交渉とPRの折衝は、私と有本が役員案件として直接引き取る。お前は裏のサポートに回れ」

澪は手元のファイルをゆっくりとテーブルに置いた。

有本が「綾瀬」と小さく制止する声を出したが、澪は立花の顔から視線を外さなかった。

「……立花さん。今は新種のウイルスが世界中で猛威を振るい、国内も自粛期間の最中です。相手は、ご自身の身体を資本に戦う世界トップのアスリートですよ? ましてや九条様は、感染リスクを極限まで排除するために数億円の船を隔離施設として求めている。その相手を、不特定多数が接触する飲食の場に引きずり出して接待する、と」

澪の声には怒りすら混じっていなかった。ただ、純粋な疑問と呆れがあった。

「……本気でおっしゃってますか?」

会議室の空気が、凍りついた。

有本が息を呑む音が聞こえた。

立花の顔から、先ほどまでの余裕と笑みが完全に消え失せた。白髪交じりのこめかみが、ピクリと引きつる。図星を突かれたこと、そして自分の時代遅れの愚かさを二十代の部下に冷徹なロジックで正面から指摘されたことへの、激しい羞恥と怒りだった。

「立花さん」

有本が、たまらず声を挟んだ。いつもは温厚で声を荒げることのない彼が、必死に澪を庇おうと盾に入った。澪が富裕層相手にどれだけ誠実な仕事をしてきたか、有本は誰よりも知っている。

「綾瀬の言い方は悪かったかもしれませんが、彼女の言う通り、今の時期の対面接待は先方の心証を最悪にするリスクがあります。この案件は彼女が一人でここまで——」

「黙れ有本! お前も部下の教育がどうなっているんだ!」

立花の怒号が会議室に響いた。有本は肩をビクッと震わせ、それ以上言葉を続けることができなかった。

彼には守るべき家族がいる。共働きで小学生の子どもを育てている彼に、役員クラスの決定に正面から反旗を翻す力はない。有本のその「中間管理職としての限界」を、澪も痛いほど理解していた。だから、彼を恨む気にはなれなかった。

「たまたま大口の客の窓口になったからといって、思い上がるな。お前の代わりなどいくらでもいる。今週のプレゼンは俺と有本で行く。お前はもう、K.M. Holdings側と一切の連絡を取るな。……有本、この場で彼女の社内アクセスの権限を外しておけ。余計な真似をされないようにな」

立花は吐き捨てるように言って、会議室を乱暴に出ていった。

重い沈黙が落ちた。

有本は、痛みを堪えるような顔で澪を見た。

「……すまない、綾瀬。俺の力じゃ、どうにもできなかった」

澪は静かに首を振った。

「有本さんのせいじゃありません」

澪はテーブルの上の資料をまとめた。自分が血を吐くような思いで組み上げたスワップ提案書が、組織の力学の前にただの紙切れになった。

「権限の解除、お願いします」

澪はそれだけ言って、一礼して会議室を出た。有本は何も言えず、ただ唇を噛み締めていた。

廊下の突き当たりまで歩き、壁に背を預けた。

頭の中が静かだった。怒りではなく、透き通った冷たさが占領している。

(勝手に自爆すればいい)

澪はスマートフォンを取り出し、氷川へのメールを開いた。プレゼンの日程確認。それだけを書いた。


Scene 9|東京、K.M. Holdings会議室、2020年6月——氷川の刃

翌日。

有本と立花が「担当変更と役員による引き継ぎ」をK.M. Holdings側にメールで通達した、その三時間後。

澪のPCに、氷川からの返信が届いた。CCには有本と立花のアドレスも入っている。

件名:「担当者変更の通達について」

本文は、氷川の普段の事務的なトーンとは明らかに違う、刃物のように冷たい文面だった。

『マリン・アセット・パートナーズ
立花本部長、有本様

先ほどの担当者変更の通達につきまして、代表の九条より確認がございます。

VIP案件において、顧客の事前承諾も一切ないまま、契約の最終段階で一方的に担当者を変更するという貴社の決定は、業界の商慣習を著しく逸脱しています。綾瀬氏が退職・休職されたわけではないのなら、顧客の意志を完全に無視したこの変更は、弊社に対する重大な契約違反、および背信行為に該当すると認識しております。

また、貴社が本件に「宣伝的価値」を見出している気配を感じますが、代表は本件を一切公開する意志を持っていません。

綾瀬氏以外の人間が本件に介入、あるいは担当を引き継ぐというのであれば、弊社はSunreef社との契約を白紙撤回し、貴社との取引を即刻、全面的に停止いたします。

明日のプレゼンに綾瀬氏が単独で出席されない場合、同席はお断りします。』

澪はそのメールを一読して、画面を閉じた。

(……一撃だ)

「男同士、一杯やりながら腹を割って」——その幻想が、契約違反という一語で粉砕された。

澪はメールをプリントアウトして、有本と立花のデスクに無言で置いた。

フロアの奥で、立花が青ざめる気配がした。有本からは何の反応もなかった。反論の余地など一ミリもなかった。

翌朝、澪は一人でK.M. Holdingsに向かった。


プレゼンの三日前、指定のクリニックからメールが届いていた。K.M. Holdingsが手配した提携先の医療機関だった。本文は簡潔だった。「面会前のPCR検査を受検してください。当日は公共交通機関を使用しないでください。当社の車でお迎えにあがります。以上が面会の条件です」

PCR検査は当日午前に完了した。指定されたハイヤーが事務所の前まで迎えに来た。

K.M. Holdingsのビルのロビーには、藤代が待っていた。無言のまま澪をエレベーターに案内し、会議室の前まで誘導して、そこで立ち止まった。

会議室に入ると、初めて九条雅臣に会った。

部屋は広かった。通常の会議室の倍はある。換気口が複数あり、澪が入った瞬間に空気の流れを感じた。テーブルの向こう端——五メートル以上は離れている——に九条が座っていた。

肘置きに体重を預けている。組まれた足は長い。マスク着用。それでも、整然とした目元と静かな圧が、距離を超えて伝わってきた。圧縮された何かが皮膚の内側に押し込まれている。試合前のアスリートの静けさだ。

澪も当然マスクをしていた。表情の下半分が互いに見えない。声と視線だけで伝える。

澪は軽く会釈をして、タブレットをテーブルに置き、立ったまま口を開いた。

「本日はお時間をいただきありがとうございます。結論から申し上げます。現在進行中のご発注について、対象艇の変更をご提案します」

「聞こう」

九条は短く言った。感情的な起伏は一切なかった。

澪はスプレッドシートと写真を順に展開した。サプライチェーンの崩壊データ、完工延伸の根拠、そしてモナコショー向け展示艇の現状——ハルと主要システム完成済み、内装未着工。

「参考として、二〇一九年夏に別の世界的アスリートが発注した同型艇のケースがあります。翌年六月にギリギリ納品されていますが、これは欧州の規制強化直前に完成していた特例です。現時点から通常ラインで継続した場合、完工は二〇二二年後半になることが確実です」

「……」

九条は一拍、黙った。

「造船所の不良在庫の処理に、俺を使う気か」

声のトーンは変わらなかった。しかし、五メートル先から、会議室の温度が一度下がったような感覚があった。

「展示用に作りかけていた船を、うちに押し付けて在庫リスクを帳消しにする。そういうスキームだと理解しているが、違うか」

澪は動じなかった。

「一面では、そうです」

「……正直だな」

「否定しても意味がないので。ただし——」

澪はタブレットを操作して、フロアプランを出した。

「造船所の在庫処理という側面と、九条様の利益は、今回は完全に一致しています。展示艇への切り替えで、九条様は二年以上の遅延を回避できる。これは交換条件ではなく、双方にとって最適解です。数字をご確認ください」

九条は資料に目を落とした。数字は、正確だった。

「内装は」

「ハルと隔壁の構造は変更できません。ゲスト用客室が三部屋あります。しかし九条様はお一人での使用が前提です。従って、壁はそのままに、各部屋の機能を完全に書き換えます」

澪はフロアプランを指で示しながら、三部屋の転用案を説明した。リカバリールーム。防音の独立空間。機材保管庫。

九条は黙っていた。

三十秒——いや、もっとかもしれなかった。

澪には、その沈黙の中で九条が何を計算しているかが見えた。広いジムが作れないなら白紙にするか。いや、他で買っても納期は遅れるだけだ。この船を買う最大の目的は、完全な隔離だ。ならば——

(頼む。早く)

口には出なかった。胃が、小さくねじれていた。

九条が口を開いた。

「壁を取り払うことはできなくとも、通り道として開口部を設けることはできないのか。補強素材を使えば構造的な強度は維持できる」

澪は一秒も迷わなかった。

「不可能です」

「……理由を言え」

「双胴船の隔壁は、単なる間仕切りではありません。船体のねじれ耐性と浸水時の水密性を担保する構造隔壁(バルクヘッド)です。ここに新たな開口部を設けた場合、船級協会による安全基準の再審査が必要となります。最低でも八ヶ月の工期延長が確定します。スワップ取引の最大のメリットである最速納品が、完全に破綻します」

九条は黙った。

「それに——」澪は続けた。「開口部を設けることは、万が一の浸水時に隔壁が機能しなくなるリスクを生みます。九条様の価値は、テニスプレイヤーとしての身体です。その身体を、安全基準を下げた船に乗せることの経済的損失は、ラグジュアリーな空間を得るメリットを遥かに上回ります」

九条の視線が、わずかに動いた。

澪はタブレットを操作して、フロアプランの別のビューを出した。双胴船の断面図。右舷ハルと左舷ハルが、くっきりと分かれて表示されている。

「右舷ハルを、九条様の完全な聖域として確保します」

澪は右舷の区画を指で示した。

「主寝室は右舷の半分以上を占有します。キングサイズベッド、大理石仕上げのバスルーム、ウォークインクローゼット。こちらには機材もトレーニング機器も一切持ち込みません。純粋な休息と睡眠のための空間です」

次に左舷を指した。

「左舷ハルの三部屋は、全て機能に特化させます。一部屋目——トレッドミルとエアロバイクと高反発マット。有酸素とアジリティのための空間です。一部屋ごとの面積は約十二平米。機材を絞れば、動線は十分に確保できます。二部屋目——パワーラック、高重量ダンベル、アイスバス。ウェイトとリカバリーのための空間です。左舷には給排水の配管がすでに通っています。追加工事なしでアイスバスが設置できます。三部屋目——温湿度制御の機材保管庫です」

九条は黙って図面を見ていた。

「プロのトレーニングにおいて、有酸素と高重量ウェイトを同一空間で行う必要はありません。時間軸で切り替えるなら、空間も切り替えればいい。一部屋を二十四平米にするより、十二平米の部屋を目的別に二つ持つ方が、動線が明確で効率的です」

澪はそこで少し間を置いた。

「もう一点。休暇中であっても、身体のメンテナンスや打ち合わせのために、専属のトレーナーやスポーツドクター、スタッフが乗船される機会があると想定しています。彼らの動線は、左舷の階段を降りるだけで完全に完結します。右舷の九条様の生活空間に他者が立ち入る必要は、物理的に生じません」

九条は図面から目を上げ、澪を見た。

何も言わなかった。

澪も何も言わなかった。

言い切った。これ以上、付け加えることは何もない。

沈黙が続いた。

「……良い」

九条が言った。

「進めろ」

「承知しました」

澪の声は、揺れなかった。

「もう一点、確認です。もしモナコショーが開催された場合に備えて、造船所側との契約に貸出条項を組み込んであります」

九条の目が、わずかに細くなった。

「俺の船を他人に見せるということか」

「完全予約制のVIP招待客のみ。立入区域は甲板と外部デッキに限定。キャビンへの立入は一切禁止。終了後は造船所負担による完全クリーニングを契約書に明記します」

「断る」

九条は即答した。一秒の猶予もなかった。

「間取りの変更には目を瞑った。だが、他人が俺の船に上がるリスクを、なぜ俺が引き受けなければならない。そもそも納期が延びたのは俺側の問題ではない。造船所の在庫処理に協力してやるだけの、明確な実利を提示しろ」

完全に理詰めだった。反論の余地のない正論に、氷川でさえわずかに息を呑んだ。

澪は一切怯まなかった。

「おっしゃる通りです。九条様が造船所を救済する義理は一切ありません。ですから——この『貸出条項』を人質にして、通常では絶対に引き出せない条件を造船所から全額持たせました」

九条の眉が、ほんのわずかに動いた。

「一つ。左舷のリカバリーエリア全域に、最高レベルの医療用HEPAフィルターとUV-C殺菌システムを造船所の全額負担で導入させます。二つ。今後五年間、Sunreefのトップエンジニアによる最優先メンテナンス権限を付与させます」

澪は九条の目を真っ直ぐに見返した。

「そして——今年のモナコショーが実際に開催される確率は、一〇%未満です」

会議室の空気が、ピンと張り詰めた。

「ウイルスの感染力、変異の特性、ワクチン開発に要する期間を逆算すれば、九月時点でのパンデミック収束は疫学的にあり得ません。それに加えて——ヨットショーは、生活維持に不可欠なインフラではありません。世界中の人間が死の恐怖と経済的困窮に直面している最中に、超富裕層がモナコで娯楽を楽しむ。その映像が世界に配信されたときのリスクを、主催者は必ず計算します。目の前の開催中止による損害より、『未曾有のパンデミック下に富裕層の娯楽を強行した』という決定的な悪名を背負う未来の損害の方が、比較にならないほど巨大です。世界のトップブランドが集まるモナコが、そのレピュテーションリスクを冒すはずがない」

澪は言い切った。

「九条様は、10%以下の確率を引き受けるだけで、医療機関レベルの殺菌設備と五年間のメンテナンス権を無償で手に入れられます。もしショーが中止になれば貸出条項は白紙になります。しかし導入されたHEPAシステムと最優先メンテナンス権は、そのまま残ります。造船所の焦りを利用した、九条様にのみ圧倒的に有利な非対称の契約です」

九条は、マスク越しに澪を見た。

(造船所の首根っこを掴んで、全て俺の為に引っ張り出したのか)

怒りや不快感は、すでに消え失せていた。

「代表」

氷川が口を開いた。

「万が一開催された場合、乗船するVIPのリストは私が事前に全てスクリーニングします。欧州における今後のスポンサー獲得のカードとして、私が完全にコントロールします。リスクに対するリターンとしては、極めて優秀な投資かと」

九条は二秒間、沈黙した。

「……条件の文言は氷川が確認する。正確に契約書に反映されなければ、サインしない」

「承知しました」

九条は立ち上がり、図面を一度だけ見てから、会議室を出ていった。

氷川が静かに言った。

「覚書の法務確認は並行して進めてください」

「はい」

「……今日の仕事は、見事でした」

澪はタブレットを鞄に収めた。

「ありがとうございます」

それだけ言って、会議室を出た。


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URB製作室

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