Scene 3|グダニスク・造船所、2019年12月下旬(ビデオ会議)
Sunreef Yachtsのグダニスク本社に接続したビデオ通話の画面に、顔の横に白髪が混じった大柄な男が映った。
「Jan Kowalskiです。製造ラインのリードをしています」
「綾瀬澪です。担当エージェントになります」
以降、二人の会話は専門用語が飛び交う高速のビジネス英語で進んだ。読み書きに留まらず、造船業界の技術的な語彙まで澱みなく繰り出す澪に、ヤンは最初の一分で「こちらは手加減しなくていい」と判断したらしく、すぐにペースを上げた。
「80 Ecoは人気モデルです。今のスロット状況では、一月に発注いただければ、完工は二〇二一年の二月から三月を見込めます」
「十四ヶ月ですね」
「そうです。ただし——」ヤンは太い指を一本立てた。「内装のカスタマイズ範囲によっては、もう少し伸びる可能性があります。今回のクライアント様は、どの程度のカスタマイズを?」
「かなり踏み込んだカスタマイズを希望しています。内装の色彩設計から家具の選定、各部屋の機能的な改変まで」
ヤンは眉をひそめた。
「内装だけですか? 間取りの変更を伴いますか」
「現時点では内装の範囲内を想定しています。具体的な仕様はこれから詰めます」
「了解しました。では、まず基本契約を進めましょう。内装の詳細は着工後、設計士との打ち合わせで詰めていただく形になります」
「ヤンさん、一点確認させてください」
「はい」
「モナコショーの展示艇として計画中のモデルはありますか。二〇二〇年九月の開催分です」
ヤンは少し驚いた顔をした。
「……あります。80 Ecoを一艇、ショー向けに進行中です。なぜですか?」
「参考までに、です。今は発注のラインについて確認したかっただけです」
「わかりました。では来週中に正式な見積もりを送ります」
「ありがとうございます」
通話を切った後、澪はメモに一行書き付けた。
『モナコ展示艇——確認済み。進行中』
それをファイルの隅に小さく貼り付け、彼女は正式な見積もり依頼書の作成に戻った。
Scene 4|横浜オフィス、2020年1〜2月——春節の予測
発注は一月初旬に完了した。
Sunreef 80 Eco、一艇。完工予定は二〇二一年二月。九条雅臣の個人名義で、内装はダーク・モノクローム系を基調に、リカバリー機能の最大化を優先したカスタム仕様で設計することが合意された。
氷川との往復メールは、常に事務的で過不足がなかった。感情的な装飾は一切なく、確認事項と決定事項だけが端的に記される。澪はそのスタイルが仕事しやすかった。
最初のノイズは、一月中旬に武漢から届いた。
日本のニュースは、それを「局地的な謎の肺炎」として対岸の火事のようなトーンで報じていた。しかし澪のデュアルモニターの片側——中国のニュースサイトと微博(Weibo)のタイムラインは、全く異なる熱を帯び始めていた。
澪は流暢な中国語でクエリを弾き、現地の一次情報を直接すくい上げた。画面を滝のように流れるテキスト。「原因不明の熱」「病院のパンク」「都市封鎖の噂」——日本語の報道より三日から四日、情報が早かった。
澪はマウスのスクロールを止め、卓上のカレンダーを見た。
数日後に赤いマーカーが引かれている。
一月二十四日——春節。
脳内で、冷酷な計算式が組み上がった。
中国の旧正月。世界最大の民族大移動の時期だ。仮に武漢が封鎖されたとしても、すでに移動を始めた何億もの人間が連休を使って世界中へ旅行に出ている。もしこのウイルスに潜伏期間があれば、元気な保菌者が平然と国際線に乗り、世界中のハブ空港に降り立つことになる。水際対策など、物理的に間に合うわけがない。
(これは中国だけで終わらない)
彼女はその日の午後、スプレッドシートを開いた。Sunreefの主要部品サプライヤーの国別リスト。電子制御システム——韓国と台湾。ソーラーパネルモジュール——中国。エンジン補助部品——ドイツとイタリア北部。
澪は地図を頭に広げた。ウイルスが陸と海を渡り、これらの工場地帯を直撃するシミュレーションが、黒い染みのように広がっていく。
彼女はすぐさまヤンに英語でメールを送った。
「現在の調達状況に変化がありましたら、お早めにご連絡ください。特に欧州域内、およびアジア圏のサプライヤーの状況について」
返信は三日後だった。
「今のところ問題はありません。ただ、一部の部品について問い合わせ中です。追ってご連絡します」
その「一部」という言葉の重さと、数ヶ月後に訪れる絶望的な未来を、澪はこの時点ですでに推量していた。
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