0006.「三年と一隻」― エルクル港

Scene 12|エルクル港近くの路地、夜

その日の夜、全ての手続きが完了したのは午後九時を回ったころだった。

造船所側の代理人との最終書類確認、引き渡し証明、九条名義への正式な所有権移転。一つ一つを処理し終えると、澪は宿に戻る前に港の近くのデパニュに立ち寄った。

冷えたガス入りのミネラルウォーターを一本買い、店の外のベンチに座った。

モナコの夜の海が、街の灯りを反射してぼんやりと光っていた。

澪はボトルの蓋を開けて一口飲み、空を仰いだ。

胃が、久しぶりに「空腹」を主張していた。ここ数日、何を食べたか正確に思い出せなかった。プレッシャーの最中は、食欲が消える。それが澪の癖だった。

(通った。全部通った)

コワルスキとの交渉——工具が飛んでくる工場で、ヘルメット越しに頭をぶつけながら寸法を測った日。会議室で九条に「造船所の不良在庫に俺を使う気か」と切り込まれた瞬間。貸出条項を切り出して、九条が即座に「断る」と言った一秒間。

(あの一秒は、長かった)

氷川が入ってくれなければ、あそこで全部崩れていた。それは澪にとって、珍しい「感謝」の記憶として残っていた。

ミネラルウォーターを飲み干し、澪はベンチから立ち上がった。明日の朝一の便でチューリッヒ経由、翌日に成田着。帰ったら有本に報告書を——

「綾瀬さん」

声がした。

振り向くと、氷川が立っていた。手にはコーヒーの紙カップ。いつの間に来たのか、気配がなかった。

「……氷川さん」

「最終書類の控えをお渡ししようと思っていました。すみません、遅くなって」

氷川は封筒を差し出し、受け取るのを確認してから、少し間を置いた。

澪はその間を、「話がある」の意味だと読んだ。

「……何かありますか」

「一点だけ」

氷川は港に視線を向けたまま言った。

「代表は『完璧だ』とだけ言って帰りましたが、三秒、機材保管庫の温湿度計を見ていました。代表にとって、三秒は長い確認時間です。あれは、文句のつけどころがなかったということです」

「……ありがとうございます」

「もう一点、別の話をさせてください」

氷川は初めて、澪の方を見た。

「あなたは今回の件で、こちらに一度も泣き言を言いませんでしたね。コロナによる遅延、グダニスクでの交渉、スワップの契約変更——全ての過程で」

「それは仕事の話なので、解決してからでないと言えません」

「そうですね」

氷川は一拍置いてから、続けた。

「今回のスキームの難易度を正確に理解しているのは、チームでは私だけです。あなたが造船所を動かし、展示艇を九条仕様に書き換え、貸出条項という爆弾を会議室で切り出した——その全工程に要した交渉力と知恵の量は、並の仕事ではない」

澪は何も言わなかった。

「そして」氷川の声がわずかに低くなった。「おそらくあなたの上層部は、この案件の結果だけを受け取って、次の大型案件にベテランを充てるか、あなたをサポートに追いやるかの判断を始めているはずです。今回もそうしようとしましたね」

澪は視線を変えなかった。

「実績が積み重なるほど、それは繰り返されます。組織というのはそういうものです」

氷川は内ポケットに手を入れた。名刺が出てきた。今日すでに一度渡している、はずだ。でもこれは別の一枚だった。

「チーム九条に来ませんか」

澪は、今度こそ言葉を失った。

「現在の報酬の三倍を基準に契約します。役職は専属エージェントではなく、正式なチームメンバーとしての位置付けです。担当領域は、アセットマネジメントとプロジェクトコーディネート。遠征帯同の機会も発生しますが、全ての費用はチームが負担します」

「……」

「うちのチームでは、手柄は担当者のものです。あなたが動かした交渉は、あなたの実績として記録されます。そして——」

氷川は少し間を取った。

「あなたの代わりは、いません。今回の件でそれは明らかになりました」

澪は名刺を受け取ったまま、しばらく動かなかった。

(……え)

頭が一拍、止まった。

プレゼンの想定問答は二十パターン作っていた。造船所への説得ロジックは三通り準備していた。

でもこれは、準備していなかった。

氷川は澪の顔を一度確認して、ほんの少し、目尻の線が変わった。

「即答はいりません。一週間、考えてください。連絡先は名刺に」

それだけ言って、氷川は振り返り、桟橋の入口に向かって歩き出した。黒いタイカンがそこに待っていた。藤代が後部ドアを開ける。氷川が乗り込む。

エンジン音がない。モーターの低い振動だけが地面を伝って、そして消えた。

澪はベンチに座ったまま、名刺を見ていた。

夜のエルクル港に、自分一人が取り残されていた。

Sunreef 80 Eco——完成した船が、波に揺れながら静かに浮いていた。

(三倍)

数字は数字だ。でもそれより、「あなたの代わりはいない」という一言の方が、澪の中でしばらく音を持って響き続けた。

組織の中で長く働いてきて、その言葉を真顔で言われたのは、初めてだった。

(……どうする)

答えは出なかった。

澪はしばらくそのまま座っていて、ふと我に返った。

「……あ、帰国しないと」

呟いた。声に出たのが自分でも少し意外だった。

彼女は立ち上がり、名刺をコートの内ポケットに入れた。

モナコの夜風が港を吹き抜けた。

足元に、船の影が長く伸びていた。

一週間後

澪はスマートフォンを持ったまま、三分ほど画面を見つめていた。

氷川尚登。チーム九条。

名刺の文字はとっくに暗記していたが、それでも一度だけ確認してから、発信した。

二コール。

「氷川です」

「……山田澪です。先日はありがとうございました」

「お待ちしていました」

声に感情はない。でも、それが氷川の通常だということは、一週間前で学んだ。

澪は少しだけ息を整えてから、言った。

「お断りします」

間があった。

「理由を聞かせていただけますか」

「遠征への帯同は、今の仕事と両立できません。チームに正式参加するとなると、九条選手のスケジュールに合わせて動くことになる。それは今の職場への不義理になります」

「……なるほど」

「ただ」と澪は続けた。「ヨットのアフターサポートは、引き続きやらせてください。機材管理、現地調整——遠征に帯同しなくても、できることはあります。九条選手があの艇に乗る限りは、責任を持ちたいと思っています」

しばらく、氷川は黙っていた。

「わかりました」

「……怒っていますか」

「いいえ」即答だった。「ただ、一つだけ」

「……はい」

「考えが変わるときは、最初に連絡をください」

澪はしばらく、何も言えなかった。

「…………はい」

電話が切れた。

澪はスマートフォンを机に置いて、少しだけ天井を見た。

(考えが変わるとき、か)

断ったのに、なぜかそちらの方に現実感があった。

——Episode 1「三年と一隻」 了——

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URB製作室

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