蓮見のデジタル音痴事件簿

コーチ・蓮見拓也。元トップ10プレイヤー。野生の勘と圧倒的な現場経験を持つ男。
ただし、デジタル機器に関してだけは、チーム最大の脅威である。


Episode 1 ── Apple IDという名の難攻不落の壁

移動中の車内。九条は外を眺め、氷川はタブレットを叩き、志水はデータを確認している。蓮見だけが、自分のiPadと無言で睨み合っていた。

「……なあ、氷川。これ、なんか『Apple IDまたはパスワードが違います』って出るんだけど」
「……何回目ですか」
「……7回目」
「あと3回間違えると1時間ロックです。パスワード、何にしたか覚えていますか?」
「……覚えてたら聞かねえよ!」

氷川が深いため息をつきながらタブレットを置く。蓮見が恐る恐るiPadを差し出す。

「……蓮見さん、パスワードのヒントに『テニス』と入力していますね。テニスに関係する言葉で、数字が含まれて……」
「あ、そうだ。『Wimbledon2003』だ!」
「……なぜ2003年なんですか」
「俺が初めてウィンブルドンに出た年だよ! いい思い出じゃねえか!」
「……ロマンティックですね。では入力を……あ」

「何だよ、あ、って。……あ?」
「10回目でした。1時間ロックです」
「お前が喋らせるから!!」

九条が窓の外を見たまま、静かに言った。
「……氷川、こいつのApple IDは全部お前が管理しろ。こいつに自分でやらせるな。こいつの脳のリソースは、ピッチ上の野生の勘に100%割かせろ」
「……賢明な判断です」
「おい! 俺のことをどんな生き物だと思ってんだよ!!」


Episode 2 ── Campusノートと、最強の戦術会議

ローマ、深夜の戦術会議。ホテルのスイートルームに、大型モニターと美麗なデータが並んでいる。九条と志水はiPadで最新のトラッキングデータを確認中だ。

「敵の右SBは、後半20分を過ぎると内側への絞りが5ミリ甘くなります。データは各自の端末に飛ばしました」
氷川がそう言った時、蓮見だけが机に分厚いCampusノートを広げ、ボールペンを走らせていた。

「……蓮見。お前の端末には入っていないのか」
「ああ……なんかパスコード入れたら『1時間待て』って言われてよ。今、文鎮になってる」
「……救いようがない」(氷川)

「で、ノートの方はどうだ」

九条の問いに、蓮見がノートをめくる。そこには、データには決して現れない、殴り書きの図解と筆圧の強いメモがびっしりと。

「データじゃそうだろうな。……でも、この右SB、後半20分から瞬きの回数が増えてる。あと、左足を軸にする時に一瞬、芝を蹴り直してる。……古傷が疼いてやがるな。こいつ、追い込まれると必ず左に逃げる。データに出る前の『予兆』だ。俺なら、そこを食う」

志水が眉をひそめる。「……映像のどこにそんな……」
九条がノートを覗き込み、わずかに口角を上げた。
「……アナログな観察眼だな。だが、悪くない」

その直後。

「よし、このノートを頼りに明日は——」
「待て。そのノート、コーヒーで汚れてるぞ」
「ゲッ!? ……さっき吹いた時のやつだ……! 肝心なところが読めねえ!」
「……だから、バックアップを取れと言ったんです」(氷川)
「誰か、俺のノートを写メれ!! 早く!!」


Episode 3 ── 72時間でチタンを沈める男

氷川が、最新のiPhone(画面が蜘蛛の巣状にバキバキで、背面のチタンも凹んでいる)を指先でつまむように持ち、虚空を見つめていた。

「……3日。わずか72時間です。防塵・防水、耐衝撃性を謳った最新のチタン筐体が、なぜローマの石畳の階段でここまで無残な残骸に成り果てるんですか」
「……手が滑ったんだ。……10段分くらい。ゴン、ゴン、バウンドして……最後、噴水にドボンと」
蓮見が正座で頭を下げている。

「計測の結果、蓮見さんのスマホの落下速度と衝撃荷重は、Appleの想定する『日常の事故』を300%上回っています。……もはやテロです」(志水)
「テロって言うな!」

九条が横を通り過ぎながら、一切足を止めずに言った。
「……氷川、修理しろ。蓮見、お前は次は糸電話でも使っていろ」

翌日、届いた交換品を氷川が厳かに差し出す。そこに収まっていたのは、もはやスマートフォンのシルエットを留めていない漆黒の塊だった。

「工事現場用の超耐衝撃フルカバーケース、厚さ3センチです。あと、極太のネックストラップをつけました。デバイスのパスコードは私が管理します。あなたは顔認証以外でのログインを禁じます」
「えっ、俺、スマホ持ってるっていうか……デカい文房具を持ち歩いてるみたいじゃ……」

九条が一瞥して言った。
「お似合いだ」
「……はい、おっしゃる通りでございます」(完全敗北)