54.夜の手前

カードゲームの行方

その後、夕方まで何回か勝負した。

一進一退の攻防戦、しかも一回ごとに精神力を消耗するこの勝負は、長期戦になると澪が不利だった。

もう勝敗の回数はお互いどうでもよくなっていたので数えていなかったが、2人とも何回か質問した。

九条 → 澪

澪は頭を使う勝負が好き。しかも張り合いたくなる。

九条の考えを読むきっかけになるし、互角に戦える状況が楽しかった。

長期戦になると、体力で劣る澪には不利。

途中から九条が勝つことが多くなり、最終的には追い越された。

それまでに、お互いに勝つたびに得る質問の権利を行使して、なかなか普段の生活の中で訊けない事を訊いた。

①「俺のことを、信じてるか?」

ふいに投げかけられた問いに、澪は少しだけ目を伏せた。

すぐに答えず、呼吸をひとつ整えてから、ゆっくりと口を開く。

「信じることにしたよ」

それは潔い宣言というより、自分に言い聞かせるような、静かな決意だった。

「自分を守ろうとして疑ってばかりいるのって、すごく疲れるんだよね。

信じられない相手と関わるぐらいなら、最初から関わらなければいい。

でも関わるって決めたなら、信じる。……その方が、楽だし、きっと健全」

九条は何も言わなかったが、目線だけでそれを受け止めた。

②「なんで、あの夜――帰らなかった?」

質問の調子は軽かったが、どこかに迷いが残っているようだった。

澪は苦笑する。

「あの時、あなたが一言、『帰るな』って言ったでしょ。

それがなかったら、私はきっと帰ってた。

何でも言うことを聞くわけじゃないけど……ちゃんと、望まれてるって思えたから。

だから、残ったの」

ほんの少し、部屋の空気がやわらぐ。

ジョーカーを引いた澪に、九条は目だけを向けた。

③「どこに置くと思ってた?」

「……もっと意地悪な場所に置くと思ってたけど」

と、澪はカードの位置を指先でなぞる。

「案外、素直に考えるべきだって気付いた。裏をかきすぎると、逆に負けるね」

九条の口元がわずかに緩む。

④「今、俺が何を考えてるか、分かるか?」

澪は少しだけ眉を上げて、じっと彼を見た。

「……お腹すいた、とか?」

すかさず返ってきたのは低い声のひとこと。

「お前と一緒にするな」

「失礼な。私はお風呂入りたいなー、だし」

じゃれ合いのような応酬に、ふっと笑いがこぼれる。

カードをめくる音が、再び部屋に響いた。

澪→九条

①「最初の夜の時、どうして避けられるって思ったの?」

(しばらく沈黙)

「……お前みたいな子が、俺といる理由がないと思った」

「嫌われるか、警戒されるか……どっちかだろうと」

少し間を置いて、続ける。

「それに……誰にでも優しいのかと思ってた。

俺だけに残ったわけじゃないなら、俺は“帰れ”って言う側だと思ってた」

②「じゃあ、さっきの質問の続き。あなたの立場だと、私みたいな一般人とは関わらないって思ってたんだけど、どうして関わってみようと思ったの?」

(少し視線を逸らしてから、言葉を選ぶように)

「……最初は、お前が俺を知らなかったから」

「気を遣われるのも、媚びられるのも嫌だった。

でも、お前は……何も知らなかった。俺を“普通の客”として扱った」

そこでふと間を置き、

「それが、俺には……“贅沢”だった」

③「一般人の私と深く関わることは、リスクが高いとは考えなかった?」

澪の問いに、九条は少しだけ視線を落とした。

「リスクだとは考えた。……だが、そんな奴じゃない、と思えた」

それは事実だけを静かに置くような言い方で、

澪を評価するとか、褒めるとか、そういうニュアンスは一切なかった。

でも、“選んだ”という事実だけは、否応なく伝わる。

そして、ほんの一瞬だけ、視線を合わせて――

「……違ったか?」

と問いかけるような声。

九条の言葉に、澪はしばらく黙っていた。

けれど、ふっと笑って――

「あなたも強いじゃん。先に信じた」

その言い方は、どこかさらっとしていて、

でもきちんと相手の選択を受け止めている。

九条はその言葉に、少しだけ目を伏せて、水のカップに手を伸ばした。

(……強い、か)

心の中で、繰り返す。

いつもなら、そんな言葉は自分に向けられた時点で否定する。

でも今だけは――否定しないでおこう、と思った。

GIVE UP

何度目かの勝負が終わったころ、澪は大きく息を吐いて、トランプをテーブルに投げ出した。

「……もう疲れたー!頭使いすぎて、これ以上は無理っ」

崩れるようにソファに身を沈め、両手を上に伸ばして伸びをする。その仕草に、少しだけ勝負への未練がにじむのが、なんだか可笑しい。

「スタミナが足りないな」

九条が静かに呟いた。

「そりゃあ、世界ランカーと一緒にしないでください…!」

ふてくされたように言いながらも、口調は軽い。

「じゃあ、寝る前は頭使わなくていいようにしてやる」

「………楽しみにしてマス」

その言葉には、ほんの少しだけ照れた笑いが混じっていた。嘘じゃない。ほんとに、少しだけ楽しみにしている。

「お風呂、お湯入れるけど……」

と澪が言いかけて、ほんの少しだけ間を空けた。

「……一緒に入る?」

なんでもないような顔をしながら、それでも視線だけはそっと伺っている。

“どっちでもいいよ”というふうに見せかけて、心の中ではもう火照り始めている。

「食事が後回しになってもいいなら」

「え」

「冗談だ。最中に腹の音鳴らされても困る」

「ひっど!!そんなこと……ない……はず……いや、わかんないけど」

朝、ベッドの中で思いっきり鳴らしたのを思い出して、全く自信が持てなかった。

そういえば、「お腹が空いてるときにしたくない」って、前に言ってた気もする。

「……私、もしかして“食いしん坊キャラ”のイメージついてる?」

「もしかしなくても、事実だろ」

「ここのご飯が全部おいしいせいです。私のせいじゃないです」

「そういうことにしておいてやる」

「……意地悪されたから、お湯入れてくる。ジャグジー使ってやる」

ジャグジーのボタンを押して、お湯が静かに流れはじめる。

澪はタオルのまま、バスルームの縁に腰を下ろし、ぽつんと天井を見上げた。

今日一日、けっこう頭を使った。

ゲームの駆け引きも、質問の言葉選びも。

それでも、なんだか心地よかった。

(……夜は、頭を使わなくていい時間、か)

九条が言ったその言葉を思い出すと、心の奥がほんのり熱くなる気がして、自然と頬が火照った。

気のせいか、鼓動も少しだけ早い。

メイクをしていない顔は、きっといつもより感情がにじみやすくなっている。

──カチ。

バスルームのドアがわずかに開いて、九条が無言で顔をのぞかせた。

「……何?」

「様子を見に来ただけだ。静かだったから」

その視線が、一瞬だけ澪の顔にとどまる。

そして、ふとしたように目を細めた。

「……まだ時間かかるのか?」

「あとちょっと。……っていうか、来るの早くない?様子見っていうか、気になるだけでしょ」

「見に来たって言っただろ。風呂場でぼーっとしてるのは危ない」

「子ども扱い……」

「違うな。子どもなら、あんな表情はしない」

「……っ!」

どんな表情だ、聞きたいけど聞けなくて、思わずタオルを握り直して、睨み上げた澪に、九条はあくまで涼しい顔。

「冗談だ。……顔、まだ赤い」

「……うるさいです。今日メイクしてないからです」

「じゃあ、今の顔、ちゃんと見とくか」

そう言って、近寄ってくる。

澪は慌てて身を引こうとしたけど、後ろは壁で逃げ場がない。

九条はそのまましゃがみ込み、目の高さを合わせる。

澪の顔の横に片手をついて覗き込む。

「……顔が、変わったな」

「…変わってません」

「そうか?」

わざとらしく、ほんの指先で澪の頬に触れる。

ぴくっと震えるのが面白いのか、九条は表情を崩さない。

「風呂、長くなるなら先に入る」

「待って待って待って、入るなら入るって言って!」

「言っただろ。“場所は空けとけ”って」

「それ予告じゃない!ほぼ宣戦布告!」

「お前が忘れる前に思い出させてるだけだ」

そう言いながら、澪の耳元に低い声で――

「……夜、頭使わなくていいようにしてやる。そう言っただろ?」

「~~~~~っ」

九条の言葉に、耳の奥まで真っ赤になった澪は、残った気力を振り絞って言い返す。

「ゲームしてる時は少年みたいでしおらしかったのに……やっぱり意地悪」

視線は合わせられないまま、口元だけが少し膨らんでいた。

そんな澪を置いて、バスルームのドアが、静かに閉まる。

バスルームのドアが閉まったあとも、しばらくその場にいた。

顔の熱はなかなか引かないし、心臓の鼓動がうるさい。

それでも、湯気に包まれて少しずつ落ち着いてきたころ、澪はタオルを整えて、ゆっくりと立ち上がる。

ドアの前で一度深呼吸してから、部屋に向かって歩いていく。

でも、気持ちはまだちょっとだけむくれたまま。

「……お風呂、お湯入ったよ」

リビングに顔を出して、視線は合わさないまま、ぼそっと言った。

ちゃんと知らせに行くところが、澪という人間の優しさだった。

「……お風呂、お湯入ったよ」

少し頬を膨らませたまま、澪はドアの隙間から顔だけ覗かせてそう言った。

声は小さく、視線はまだ合わさない。

むくれている、けど、それでもちゃんと伝えに来た。

そういうところが、本当に不器用で、優しい。

九条は本を閉じるような仕草で視線を上げて、ゆるく頷いた。

「先に入ってろ」

それだけ言って、深く追わない。

けれどその声には、確かに“待ってろ”という響きが含まれている。

澪は返事をせず、ちょっとだけ頬をふくらませたまま、また足音を忍ばせてバスルームへ戻っていった。

先に洗う

背中はもう――

“先に入る”というより、“一緒に入る前の準備運動”に近い。

澪は裸になって、シャワースペースに向かった。

お湯に入るすぐには入らず、先に体を洗う。

誰かと一緒に入るなら、なんとなく先に洗っておきたかった。

「……先に洗っておくに決まってるでしょ……」

自分に言い聞かせるように呟いて、シャワーをひねる。

音が壁に反響して、少しだけ現実感を連れてくる。

泡を立てて髪を洗いながら、ふと頭の片隅にさっきのやりとりがよぎる。

(頭使わなくていいようにしてやる、って……)

思い出しただけで、耳の奥がまたじわじわと熱を持ち始めて、額に落ちた泡が気にならなくなった。

(……ほんと、やっぱり意地悪)

そう思いながらも、内心は――

少しだけ、期待してしまっている自分がいる。

湯に身を沈めると、全身の力がじわりと抜けていくのがわかった。

ふぅ、と息を吐いて、澪は頭を縁に預けた。

(……やっぱり、ジャグジーすごいな)

細かい泡が腰のあたりで弾けて、ほどよく身体を撫でてくる。

さっきまでのゲームの駆け引きや、ちょっとした会話の一つひとつが、じんわりと余韻になって、湯気の中に溶けていく。

(こんな風にのんびりできるなんて、今朝は思ってなかった)

ぽつりと、心の中で思う。

何かを選ぶたびに迷って、慎重になって、失うのが怖くて、でも――

「……もうちょっとだけ、こうしてたいな」

独り言のような声がバスルームに落ちた、そのとき。

カチ、と静かにドアが開いた。

「……遅い」

「っ……!」

反射的に湯の中で肩をすくめた澪に、九条は微かに笑う。

バスタオルを肩にかけたまま、ドアの内側に立ち、じっと彼女の方を見る。

「……何かと思った」

「お湯、よく入ってるなと思って」

そんなわけない。

さっきの顔を見ておいて、“様子見”で済むわけがない。

それでも、九条の声はあくまで静かで落ち着いている。

「……入るなら、ちゃんと“入る”って言って」

「言っただろ。“場所は空けとけ”って」

またそれ――。

澪は口を尖らせそうになったが、もう何を言っても軽く受け流される気がして、やめた。

それよりも、視線が落ち着かない。

肩まで湯に浸かっていても、まるで隠れていないような気がして、思わずひざをぎゅっと抱える。

九条の目は、相変わらず澪の表情を読み取ろうとするように、静かに、真っ直ぐに向けられていた。

「……ジャグジー、気に入ったか?」

「うん。すごく、いい。……何も考えなくて済むのが、いい」

「“何も考えなくていい時間”だ。覚えてるか?」

「……うん。覚えてる」

ぼそっと呟いた声に、湯気の奥で九条の目が細められた。

「じゃあ……もう少し、その時間を続けてやる」

そう言って、九条は静かにバスタオルを外し――

澪の向かい側に、何のためらいもなく入ってきた。

湯が静かに波を立てる。

その音すら、今は妙に心臓に響いた。

「……こんなに長く居させてもらえるなんて思ってなかった。すぐ帰されるかと思った」

湯に浸かったまま、ぽつりと漏れた言葉。

それは感謝とも、少しの戸惑いともとれるような、曖昧な響きを帯びていた。

その言葉に、九条は少しだけ間を置いたあと、

「最初から、帰らせるつもりはなかった」

湯気越しに返ってくる声は、低くて穏やかで、でも確信を持っていた。

「居たいなら、居ればいい。俺が“もういい”って言うまではな」

ふざけているようで、けっこう本気。

その言葉の奥に、“居場所を与えてる”のではなく、“自分のそばにいることを許してる”という彼の独特な優しさがにじむ。

澪がぽつりと、

「……めっちゃ私のこと好きじゃん」

と言うと、

九条は少しも動じずに、視線をそらさないまま答える。

「そうじゃなきゃ、こんなに長く一緒にいるか」

その言葉はさらっとしているのに、熱がこもっていて。

思わず湯船の中で、澪は顔まで沈みたくなった。

澪はちょっとだけうつむきながら、顔を隠すように笑った。

「……むふふふ……」

くすくす、じゃなくて、完全に“にやけ笑い”。

わかってる、でも言いたい。わざと軽い口調で、

「じゃあ、100段階でどれくらい好き?」

九条は少しだけ目を細めて、それから視線を泳がせることなく――

「101」

「……っ」

即答だった。

しかも、にやけるでも、茶化すでもなく、まっすぐな目。

澪の顔が一気に赤くなる。

「な、なにそれ、ずるい……」

「お前のそういうとこだろ。聞いといて弱い」

「言われ慣れてないの!」

「知ってる。だから言う」

「~~~!」

湯船の水面が揺れたのは、澪が足をばたつかせたせいだった。

顔を湯船に半分沈めたせいで咽せて、

「げほっ、鼻に入った…!!」

「バカか」

九条が浴槽の付近に数枚積まれていたタオルを1枚手に取って、澪の顔を拭いてやった。

「じゃあ、お礼に……シャンプーしてあげよっか?」

泡で誤魔化せるし、顔も見えないし、これならなんとか平静を保てるはず――

そう思って言ったけど、案の定、九条は一瞬だけ目を細めた。

「……お前が?」

「ダメ?」

「……お前が途中で照れて投げ出さなければな」

「ちょ、なにその信用のなさ!? 最後までちゃんとやりますぅー!」

「なら、頼む」

九条が背を向けて、澪がそっと後ろにまわる。

ゆっくりとシャワーを流し、髪を濡らしていく。

その時、思ったよりも首が近くて、息がかかりそうで――

(……ちょ、ちょっと、これは…む、無理では……!?)

でも逃げられない。シャンプーの泡で誤魔化しながら、必死に平常心を保とうとする澪。

九条は終始無言。けれど、わざと動かずに任せてくれているのがわかる。

(……信じてくれてる、のかも)

ほんの少しだけ、手の動きが優しくなる。

九条の髪を洗い終えたあと、静かにシャワーを流していると、ふいに低い声。

「……顔も、洗ってくれるのか?」

その一言に、澪の手がぴたりと止まった。

数秒の沈黙のあと、絞り出すように――

「……顔は、自分で洗ってくださいっ」

語尾がちょっと上ずってて、耳の先まで赤い。

本人は真面目に答えたつもりでも、九条の中では「拒否=照れてる確定」になっている。

「そうか。拒否されるとは思わなかったな」

「ちがっ……そういう意味じゃなくて!べ、別に触りたくないとかじゃなくて……っ!」

「ああ、触りたくないわけじゃないのか」

「~~~~っっ!!」

湯気の中で、ぷしゅーって音が聞こえそうな澪の頭。

九条は見えないふりをしてるけど、ちょっとだけ口元、笑ってる。

「トリートメント、普段してる? 私のやつ使っとくね。大丈夫、いいやつだから」

そう言いながら、澪は手にとったトリートメントを九条の髪に馴染ませていく。

泡のときよりも、ずっと滑らかな手触り。指先で丁寧に梳かすように。

「……雅臣さんさ、髪質いいよね。羨ましい」

「寝癖はつく」

「寝癖すぐ直るでしょ?」

「シャワー浴びるから直る」

会話の端々に、澪の照れ隠しがにじむ。

さっきまでの狼狽はほんの少しずつ薄れて、かわりに“気遣い”が前に出始めていた。

「……よし、あとは流すだけ」

シャワーを手に取りながら、ふと九条の背中を見る。

こんなふうに触れることを許されているのは、自分だけなんだろう――

そんな思いが、心の奥でじんわりと広がる。

「……背中、流す?」

一瞬だけ、九条が振り返る。

その瞳にある静かな熱は、“からかい”じゃなくて、ちゃんと彼自身の答えだった。

ボディソープを泡立てながら、少しだけ照れた声で言う。

「……じゃあ、背中。洗ってあげる」

九条は何も言わずに身をゆだねた。

その沈黙が、かえって信頼を感じさせる。

澪はそっと背中に泡を滑らせながら、ふと笑いながら呟く。

「……私、なんか介護してない?」

肩が少しだけ震えて、九条が低く笑った。

「それは、どっちかというと“世話好きな嫁”ってやつじゃないか?」

「やめて。なんか重い」

「じゃあ、介護でもいい」

「もっとやだ!!」

後ろを向いてて顔が見えないのをいいことに、九条はあくまで真面目な顔で続ける。

「だが、悪くない」

「そりゃあ、あなたは快適ですから」

泡のついた手を止めて、澪は小さくため息。

でも、口元にはちゃんと笑みが浮かんでいた。

身体の違い

湯けむりのなか、九条が後ろからそっと澪を抱きしめる。

広い浴槽だからこそできる、余裕のある距離感。

それなのに、心は妙に近かった。

澪の両手は、お湯の中でそっと包みこまれた。

九条の手が、自分の手の上に重なる。

大きい。

まるで別の生き物みたいに、厚くて、力強くて、でも熱くない。

ちゃんと、お湯の温度を感じる柔らかさがあった。

指先を少し重ねてみる。

爪のかたちも違う。長さも、厚みも、何もかも違う。

手の甲の骨格、血管の浮き方、ほんのり違う肌の色――

「……全然違うね、手」

澪がぽつりと呟くと、九条の返事はなかった。

ただ、握る力がほんのすこしだけ強くなった。

「ねえ、雅臣さんの手って、冷たくならないんだね。

 もっとこう、すぐ冷えそうなイメージだった」

「お前のは柔らかい」

視線は向けない。後ろに抱かれたまま、ただお湯の中で、指先と指先を絡めていく。

自分じゃない誰かの手が、

こんなにも優しく、確かに、今ここにある。

「……もうちょっと、こうしてていい?」

「言わなくても分かってる」

九条は、ゆったりと湯に沈む澪の背中を、静かに見つめていた。

こうして見るのは、初めてかもしれない。

髪が濡れて、肩にかかる部分が透けるように肌に張り付いている。

首筋が、湯気の中でゆっくりと呼吸していた。

手を伸ばし、そっと髪をかき上げてみる。

耳の後ろがあらわになり、そこから首のライン、肩甲骨にかけての曲線が一瞬、浮かび上がる。

(……こんなふうに、見たことなかった)

思い返せば、正面から見てばかりだった。

カメラ越しの映像も、最初の出会いも、夜の時間も――

どれも彼女の“正面”しか見ていなかった。

後ろから見ると、少し華奢に見える背中。

けれど、その静かな線には、どこか覚悟のようなものが宿っていて、

ただの“かわいさ”では説明できない何かがあった。

「……お前、後ろ姿も悪くないな」

何気ないふうに口にしたその言葉に、

澪は「それ褒めてるの?」と、振り返りもせず笑う。

九条は、ふとした気まぐれで、澪の濡れた髪をそっと手でまとめた。

後ろで一つに寄せてみると、肌が露出する面積が増えて、

首筋も、耳の裏も、なんだかいつもより無防備に感じた。

(……他の誰にも、見せたくない)

そう思った瞬間、指先からそっと髪を離し、何事もなかったように下ろす。

されるがままの澪は、浴槽の中で目だけを動かして、問いかける。

「…なに?」

「お前、髪まとめないのか?」

「ん?夏はよくまとめてるよ。後ろの低い位置で、お団子にしてる」

(低い位置なら……許す)

九条は無言のまま、視線だけを逸らした。

「……え、終わり!?今の、なんかリアクションあるやつじゃないの?」

「何でもない」

「いや、絶対なんかあるじゃん。言ってよ」

少しの沈黙。

(言ったらどうなるか──)

澪が“絶対ニヤニヤして喜ぶ”のが、頭にありありと浮かんでしまった。

(……言わない)

「……何でもない」

「今の間は絶対なんかあるやつ!!ねえ言って!」

「しつこい女は嫌われるぞ」

「うわ、それめっちゃ図星の時の逃げ方じゃん!!」

「正解だとは言ってない」

「ほぼ言ったようなもんでしょ~~~~~!なに、お団子にしたらダメ?」

「ダメとは言ってない」

「えー?じゃあなんだろ?」

答えてくれないと悟って、澪は自分で推測することにした。

「あ、アップにしたとこ見たいとか?」

「正解だが、不正解だ」

「どういうことよ……」

「………見たいが、見せたくない」

「…………」

沈黙のあと、澪は小さくニヤけた。

「へえ~? そういう独占欲、あるんだ~? ふーん?」

「湯に沈めるぞ」

「それ脅迫だからね?あーあ、今度アップにしたとこ見せようと思ってたのになー」

わざとらしくため息をつきながら、口元だけで笑う澪。

この瞬間ばかりは、明確に“勝った”と分かっている顔だった。

──負けた。

九条は一瞬、湯面の揺れを見つめながら、無言で考える。

確かに、見たい。

髪をアップにして、リップを赤にしたらきっと似合う。

黒のドレスも、きっと映える。

いや、黒のキャミソールワンピースも……。

澪の趣味なら絶対に選ばない。けれど、似合うことだけは確信できる。

(……どうしたら着せられる?)

水面下で計算が始まる。

本人には決して悟られないように。けれど、静かに、確実に。

(絶対に自分からは着ないタイプだ。

「似合わない」とか「そういうのじゃないから」って、きっと真顔で拒否する)

九条は澪の髪を軽くすくい上げたまま、視線だけを湯に落とした。

今のままでも十分に魅力的なのはわかってる。

でも――だからこそ、“あえて”見てみたい姿がある。

(言えば、きっと笑って誤魔化す。拒否はされなくても、絶対に本気にはされない)

無理に押し付けるのも違う。

だが、自然と彼女が「着てみようかな」と思える流れをつくるには――

「風呂から上がったらまたゲームするか?」

「なに急に。このタイミングだと怖いんですけど」

「怖がるな」

「じゃあ…なんでゲームしたいの?質問したいの?」

「いや、負けた側は、買った側の要望を1つ受け入れる」

「完全に王様ゲーム方式じゃん。諸刃の剣すぎない?駄目。もっとマイルドな罰ゲームにするか、ちゃんと要望の内容を言えば考える」

「………」

九条、考え中。

「ほら、素直になった方が良いって誰かさんもおっしゃってましたし?」

「…………とある服を着せたい」

観念してぼそっと呟いた九条に対し、澪は意外なほどあっさり頷いた。

「あ、それならいいよ。ただし、私が勝ったら私のリクエストの服も着てもらう。あと今日はもう頭が疲れたから明日以降。別のゲーム考える。この家、雅臣さんの服はある程度あるの?」

「一通り揃ってはいる」

「じゃあ、そこから私が着てほしいやつ選ぶかなー。でももう持ってる服だもんな。欲を言えば服屋さんで試着させまくりたい。なんならネットで購入したい」

「お前が勝つ前提で話を進めるな」

「欲が絡んだ私の本気舐めないで」

澪の言葉に、九条は視線だけを少し上げて、浴槽の縁に肘をかけた。

(……今の目、完全に狙っているな)

ちょっと目がキラキラしていて、頬も湯気と興奮でほんのり赤い。

さっきまで“されるがまま”だったのが嘘のように、攻めの姿勢に切り替わっている。

「着せたい服って、どんなだ?」

「ふふっ、それは勝ってからのお楽しみ。

あ、でもフリルとかピチピチのやつとかじゃないから安心して。着せてニヤニヤしたいやつ」

「それが怖いと言っている」

「……え、私が着るのは?」

「黒の、背中が開いたドレス」

(一瞬面食らって)

「……即答すぎて笑うわ」

思わず笑ってしまった澪を見て、九条もつい、かすかに口元を緩める。

「わかった。勝負は公平に。

でも、どっちが負けても、逃げないでよ?」

「……ルールを破るほど子供ではない」

「それ、たぶん“私”にも言ってるよね?」

「言った」

「ちょ、そういうとこだけ鋭いのずるい。

……でも、いいよ。勝負、受けて立ちます!」

力強く笑って言う澪に、対し、勝負慣れしている九条は冷静そのもの。

「すぐに勝負がつくようなゲームで勝敗を決めると後悔するぞ。俺が勝てば丸一日は貰う」

「うわ、めちゃくちゃ本気じゃん。服着るだけで丸一日?」

「誰が服だけと言った?全部だ」

「全部って…ヘアメイク全部やるってこと!?」

こくりと頷く九条。目が本気だった。

「それ美容院の予約までしないと出来ないじゃん!むしろ1日で全部揃えるの無理じゃない?」

「化粧は自分でしていい」

「いや髪型の方が大変だから。時間かかるから」

女性の身支度に無頓着な九条に対し、珍しく冷静にツッコミを入れる澪。

澪が抱えるもの

湯船から上がって、タオルで髪や体を拭きつつ、澪はバスローブを羽織った。

もう夜はどうせ脱ぐから、と開き直っていた。

最初は「バスローブなんて無理」と思ってパジャマを着てたのに、慣れたものだ。

「はい、髪乾かすから、ここ座って」

ネイビーのバスローブを纏った九条は、まるでそれが当然であるかのように椅子に腰掛けた。腹立たしいほどよく似合っていて、思わず視線を逸らしたくなる。

澪は静かにドライヤーのスイッチを入れ、ふわりと温かな風をあてる。風量は強いのに、髪は不思議なほどしっとりとまとまり、ツヤすら増していく。

「このドライヤー、すっごい良いやつって知ってた?」

指先で髪をほぐしながら問いかけると、九条は特に驚くでもなく、

「いや。氷川が用意した」

と、当然のように答えた。

「氷川さん、優秀すぎじゃない? 美容の知識まであるなんて何者なの」

「大抵のことは、言えば何とかする」

「逆に、何とかできなかったことってあるの?」

しばらく沈黙があり、それから低く、

「……いくつかある」

とだけ返ってくる。

「あるけど言いたくないのね」

澪はふっと笑い、ドライヤーの音に紛れて続けた。

「じゃあ、聞かない。でも、そういうのが“ある”ってだけで、ちょっと安心する」

「どうしてだ」

「なんでもできて、なんでも持ってて、完璧な人って、ちょっと怖い。隙がないっていうか……こっちが息詰まりそうになること、あるよ」

九条がほんのわずかに顔を上げ、鏡越しに彼女を見た。

「お前は、隙だらけだ」

「……どの辺が?」

「すぐ顔に出る。声にも出る。見ていれば分かる。……だから、疲れない。お前は、わざとじゃない“余白”がある。たぶん、俺はそこに逃げてるんだと思う」

その言葉に、澪は少し黙ってから、ぽつりとこぼした。

「そっか……私、隙あるのか。外でその隙をなくすには、どうしたらいい?」

「なくすな」

「……え?」

ドライヤーを手にしたまま動きを止めると、九条は鏡越しにまっすぐ視線を合わせた。

「外で鎧を着るのは構わない。だが、“それ”を消したら、お前じゃなくなる」

ドライヤーの音だけが、しばしの沈黙を埋めた。

「……ありがとう。でも、怖いの。時々、自分でも分かる。誰かに刺されるなって」

「刺した奴を、俺が潰す。そのくらいの“逃げ道”なら作っておけ」

「ありがとう。でも……刺される前に、遠ざけたいの。無理かな? 耐えるしかないのかな……」

「遠ざけるのは、生き延びるためだ。それを“逃げ”だなんて、誰にも言わせるな」

静かに頷くように、澪は九条の髪を最後まで乾かしきった。手櫛で整えながら、息を吐くように笑う。

「……うん」

「ただ、俺のことまで遠ざけようとしたら、止める。そのときは、力ずくでも引き戻す」

「……あなたのことは遠ざけないよ」

そう言って一瞬だけ目を合わせると、すぐに視線をそらした。

「はい、終わり。次、私乾かすから、先にご飯の用意してきてください」

バスタオルを手にして、軽く顎で指し示す。

九条は無言のまま彼女を見つめた後、わずかに口元を緩め、静かに立ち上がった。

「了解」

その背中がリビングのほうへと消えていくまでを見送ってから、澪はようやく、小さく息を吐いた。

九条が出ていったあとの、静かな空間。

バスルームにはまだ湯気が残っていて、鏡もほんのり曇っている。

タオルで軽く髪を拭きながら、澪はふと自分の目を鏡越しに見つめた。

(……あなたに頼らずに、誰にも害をなされない自分になるには、どうしたらいい?)

声には出さなかった。

出せなかった。

その問いは、まるで自分の奥底から立ちのぼってきた煙のように、形を持たないまま心に滲んだ。

その答えは――

今も、わからない。

けれど、それでも今日を生きるしかない。

誰かの傘の下にいる時も、自分の足元を見失わないように。

澪がドライヤーのスイッチを切り、濡れたタオルを一箇所にまとめてからキッチンへ向かうと、九条はすでに冷蔵庫の扉を閉めていた。

「…………多くない?」

ダイニングテーブルの上には、整然と料理が並べられている。グリーンサラダに根菜のマリネ、冷製ラタトゥイユ。温め直されたスープの湯気がゆらぎ、オーブンからは香ばしく焼かれたチキンと白身魚の香りが漂う。横には雑穀入りのごはんも控えめに盛られていた。

「これでも控えめな方だ。練習がある日は、もっと食べる」

「うっそ」

思わず素の声が出た。

一品一品は低脂肪・高タンパク、野菜もたっぷりで、身体づくりを意識したものばかりだが――量が、とにかく多い。ざっくり半分に分けたとしても、澪が普段一食で口にする量の、三倍はある。

「アスリートって……やっぱり消費カロリー、すごいんだね」

九条は静かに頷いた。

「そうしないと、動けなくなる。トレーニングも、回復も、全部“燃料”ありきだ」

「なるほど……プロのテニス選手って、どのくらいカロリー消費するの?」

「試合や練習の内容によるが、3,000〜5,000くらい。多い日はそれ以上」

「一日で?私の倍以上じゃない……?」

「その消費に、お前も付き合わされる」

「……やめてください、そういう不意打ち」

澪は席につきながら、そっとサラダの皿を手元に寄せる。

手間ひまのかかった料理たちには、レオンの気配がそこかしこに宿っていた。

「私、ここにいたらすっごい健康的になりそう」

そう言いながら、澪は小さく笑ってスプーンを手に取った。向かい側で、九条も音を立てずに箸を取る。

「なら、ずっといればいい」

「……」

「健康的になれる場所に、理由がいるか?」

「じゃああなたが日本にいる間は、毎日ここに帰ってきます」

ふたりのあいだに流れる空気は、穏やかで、どこか温かい。

「いただきます」

こんな栄養満点の料理を作ってくれた、まだ見ぬレオンに思いを馳せつつ、感謝を述べる。

九条の食事に加えて、澪のおやつまで用意してくれていたレオンは、会ったことがなくても“気遣われている”と感じていた。

「お前、照れると敬語になるな」

「うるさい」

「わかりやすい」

「わかりにくい女に戻りますけど?」

「今更戻っても無駄だ。どうせ全部バレる」

「……うわ、やっぱり一緒にいると恥ずかしさの死因で死ぬ気がする……」

「それで死ぬなら本望だろ?」

「全然本望じゃない!死因恥ずかしさってどんな理由よ!」

「心配するな。それぐらいじゃ死なない」

「知ってるわ!」

澪はサラダを小皿に盛りながら、ふと気になったことを聞いてみた。

「ヨット買うためにリモートで通話してた時、こういうふうになるって想像してた?」

「してない」

「まあ、流石にそうだよね」

「だが、気にはなってた」

「…いつから?」

そう問いかけた澪は、冗談めかして笑おうとしたのに、声がほんの少しだけ震えていた。

九条はスプーンを置いて、手元の皿から目を上げる。

「顔を見たとき」

「え?」

「初回の通話。…画面越しに“見ている”って気配を返してきたのは、お前が初めてだった」

澪は目をぱちくりさせたまま、反応できない。

「普通はな、顔を見られてる側が緊張する。だが――お前は逆だった」

「……なんか、それ、すごい恥ずかしいこと言われてる気がするんだけど……?」

「違う。あの時、俺は顔を見せていないのに、こっちが“値踏みされている”ようだった」

「私、そんな感じ出してたかなぁ」

九条はふっと目を細めた。

「……それが、良かったんだ。

仕事として完璧で、個人的な感情は見せない。興味も下心もないその距離が、逆に気になった」

「どういうこと?」

「俺は、見られる側に慣れている。だが、お前は俺という存在ではなく、あくまで“顧客”として扱っていた」

「それ、褒めてる?」

「評価してる。警戒心のある女は、嫌いじゃない。むしろ――信頼できる」

澪は苦笑しながら、フォークでラタトゥイユをつついた。

「最初は、ほんとに警戒してたよ。失礼のないように、でも、深入りしないように、って」

「壁があるのは分かった。それを越えたいとは思わなかった。ただ――」

「……ただ?」

「その壁の内側に、何があるのかは、気になった」

淡々と、まるで自分のコンディションを報告するかのような口調だった。

「…そっか」

「お前はいつ気付いた?」

「ん?」

「俺の仕事」

「ああ…たまたま仕事終わりにいつもは入らないカフェに入ったの。その日すっごい寒かったし、残業で疲れてお腹空いてたから、食べて帰ろうと思って。そしたら、そこの店主さんがテニスの中継流してたの。あなたが映ってた」

テニスの中継は、選手の苗字とイニシャルしか表示してないことも多い。澪は九条の容姿を知らない。しかも、その状況なら、テレビから音が出ていなかったはずだ。音が出ていたとしても、九条は試合になっても声を出さない。音の情報がない。

「それだけで気付いたのか?」

「なんとなく、KUJOって苗字見て、まさかなーと思いながら検索したの。フルネームと、教えてもらってたアルファベットで。そしたらいっぱいヒットした。YouTubeで声も確認した。これは間違いないなーって。でも、検索したこと後悔した」

澪のその声は、当時の悲しさや後悔を僅かに含んでいた。

「知りたくなかったのか?」

「うん。今となっては知って良かったんだけど、その時は知らなきゃ良かったって思ったよ。立場が違い過ぎて、絶対に相手にしてもらえない、って思った。もうその時には好きだったのかも。認めたくなくて、自分の感情を見ないようにしてたけど、ショック受けてるってことは、そうじゃんね」

食べながら自嘲気味に笑う澪。

九条は、その言葉に箸の動きを止めた。

「……悪いな」

「え?」

「俺のせいで、後悔させた」

「違うよ。違う。……そんなつもりで言ったんじゃない」

慌てて首を振る澪に、九条はふっと小さく笑った。

「知ってる。ただ――それほどの壁を、知らずに作っていたことが、悔しいだけだ」

「……私が勝手に気にしてただけ。でも結果知って良かった」

澪はぽつりとそう呟くと、少し照れたように笑って、またひとくち、ご飯を口に運んだ。

「でも私、その日帰ってからテニスのサブスク登録したの。準々決勝の日だったかな?日本人の人と試合してた時。それから、決勝戦まで間があったし、仕事終わりに全豪オープンのあなたが出てるとこだけ全部見た」

“あなたが出てるとこだけ”という発言に、惚気が含まれていることに、澪は気付いていない。

ただの事実報告のつもり。

でも、九条が出てない試合は観てないということは、テニスではなく九条雅臣本人に興味があるという、告白だ。

「お前も俺のこと好きだな」

「うっ…ストーカーですみません」

「喜んでる」

「見えないけど」

「表に出さないだけだ」

「…ほんとに、全然見えないなあ」

澪は小さく笑いながら、目の前の料理をすくって口に運ぶ。少し冷めてしまったスープの温かさが、胃の奥にじんわりと広がっていく。

(――でも、たぶん、今のは嘘じゃない)

食事の片付けを手早く終えると、澪はキッチンの水切りラックに最後の一皿を置いて、ふぅと息を吐いた。

「明日、朝食のために起こされそうなので、歯磨きして寝室に行きます」

そう宣言しながら、タオルで手を拭きつつ九条の方を見ると、彼は背を向けたまま冷蔵庫の扉を軽く押し戻していた。

「レオンが朝食を作りに来るそうだ」

「……は?」

予想外の言葉に、澪の動きが止まる。

「うそ、マジで?何時?」

「六時」

ぼそっとした口調だったが、その声には一切の冗談がなかった。

「六時って……レオンさん、何時に起きるのそれ……?」

返事はない。ただ淡々と、食洗機のボタンを押す音だけが台所に響く。

「え、まさか氷川さん、送り迎えするの?」

「ああ」

「えええ……」

思わず引き気味の声が漏れた。完全にハードスケジュールだ。

そのまま洗面台に向かおうとしたところで、背後から静かな声が落ちてきた。

「朝、裸で寝室から出るなよ」

「……誰のせいだと思ってるのよ、それ」

振り返って文句を言うと、九条は食洗機の上に手を置いたまま、ちらりと視線だけをよこした。

その目に、ほんのわずかな愉快そうな色が滲んでいた。

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