79.いざ、仮縫いへ

ロンドンの朝

 うっすらと明るくなってきた天井を見上げて、澪はゆっくりと目を開けた。

 深く眠っていたはずなのに、寒さと微かな明るさにふと目が覚めた。

 窓の向こうは、まだ本格的に日は昇っていない。

 時刻は、たぶん朝の七時前後。ロンドンの二月は、こんな風に夜と朝の境目が曖昧なまま始まるらしい。

 ガラス越しに見える空は、淡く煙ったようなグレー。

 光があるようで、どこにもはっきりした輪郭がない。

 目を凝らせば、遠くのビルの屋根がうっすらと濡れているのがわかる。

 たぶん、夜のあいだに雨か霧が降ったのだろう。

 部屋の中は暖かいのに、空気のどこかにしっとりとした冷たさが漂っている気がして、澪は首元まで毛布を引き上げた。

 隣を見ると、九条はまだ眠っている。

 いつものように仰向けで、まるで眠りまで管理されているかのように整った寝姿だ。

 「……すごいな、こんな寒いとこ来てるのに、寝相すら乱れないんだ……」

 小さくそう呟いて、再び天井を見上げる。

 ロンドンの朝は、思っていたよりもずっと静かで、暗くて、でもどこか綺麗だった。

 「……そんな薄着で寝てて、よく風邪ひかないな」

 つい、口からこぼれる。

 九条は昨夜、シャワーのあとにバスローブを羽織ったまま、そのまま何も気にせず寝ていた。足も素肌のままで布団の中に入っていったはずなのに、全く体調を崩す気配がない。

 澪の方はというと、フリース素材の上下パジャマに加えて靴下まで履いている。それでも、布団の中で指先が少し冷たい。 

 スイートルームの空調はしっかりしていて、寝苦しいほどに暖房が効いているはずなのに、九条の体感温度はなんだか別の次元にあるらしい。

 「……寒くないのかな、ほんとに」

 不思議そうに彼の寝顔を見つめる。きちんと整った顔立ちは、寝ている今もピクリとも動かない。毛布はちゃんとかけてあるけれど、明らかに中は薄着すぎる

 “寝てる間に体温が下がる”って、普通の人間なら当たり前の現象なのに――この人、例外なのかもしれない。

 「私が軟弱なだけ……なのかな……いやでも、寒いのは事実……」

 小声で自己弁護しながら、澪はもう一度布団に潜り込む。足先をすり合わせて、なんとかぬくもりを取り戻す。

 「……そんな薄着で寝てて、よく風邪ひかないな……」

 小さな声でそう呟いて、澪は毛布の中で身を丸めた。

 バスローブ姿でベッドに入った九条は、今も仰向けのまま、まったく動いていない。毛布からは胸元すら覗いていて、寒くないのかと疑いたくなるほど。

 部屋は確かに暖房が効いていて、空気も乾燥していないし、ホテル特有の柔らかな温度管理がされている。

 それでも二月のロンドン。外の気温は一桁台で、ガウン一枚で寝る勇気なんて自分には到底ない。

 自分なんて、長袖の冬用パジャマに靴下まで履いて寝たのに。

 それでも足先がじんわり冷たくなって、夜中に何度か毛布を引き寄せた。

 なのに、この人は――。

 横顔をそっと見やる。

 寝顔は静かで、起きているときとほとんど変わらない。

 まぶたが長く影を落としていて、呼吸は深く、一定。

 きっと体の芯から温かい人なんだ。そういう作りなんだ。

 ――というか、体温が高いからって油断しすぎじゃない?

 澪はそっと肩まで毛布を引き上げ直し、自分の足元を丸めた。

 「私なんか、靴下履いてても寒かったのに……」

 小声でぼやいて、もう一度九条に視線を戻す。

 それでもどこか安心する。寒がりな自分の隣に、こんな体温高そうな人が寝てるってだけで、強運に恵まれた気になれた。

「……これで手足あったかいんだもんな。羨ましい……」

 ぼそっと呟いたつもりだったのに。

 「お前は筋肉量が少なくて、末端が冷えやすいんだ」

 ――突然、低く落ち着いた声が返ってきて、びくっとする。

 「……えっ、起きてたの?」

 「お前が独り言を言い始めた時から」

 やだ、と澪は思わず毛布の中に顔を埋めた。

 どこまで聞かれてたのか。

 いや、それより“羨ましい”とか“寒い”とか、“自分は軟弱だ”みたいなことを全部、口に出してたらしい。

 「なんか、めっちゃ恥ずかしいんですけど……」

 「事実だろう」

 間髪入れずに返された一言に、布団の中で軽く拳を握る。

 言い返そうとして、やめた。

 ――まあ、そうだけどさ。

 でも、ほんのり笑ってるように聞こえるその声に、少し救われる。

澪がそろりと足を伸ばして、九条の脚にくっつけた。

 「……私、足冷たくない?」

 「だから温めてる」

 即答されて、思わず小さく笑う。

 「人間カイロ……あったかー……」

 九条の体温は、冬の朝には反則レベルで心地よかった。

 無言で受け入れてくれるのも、ありがたい。

 彼の足が少し動いて、ぴたりと澪の足を包み込むように重なる。

 「ありがと」

 そう呟いて、また目を閉じた。

 「朝ごはん、どうする?」

 足をくっつけたまま、澪が小さく聞く。毛布の中はぬくぬくして、まだ出たくない。

 「……ルームサービスにする」

 やっぱり。という顔で澪がうなずく。

 「まあ、そうだよね。雅臣さんがレストランでビュッフェ食べてるとこなんて、想像できないもん」

 「……行ったことはある」

 「ほんとに?一人で?」

 「必要があったから。一度だけ」

 「ふふ、どんな必要か聞かないけど…」

 九条が人前での食事を好まないことは、もう知っている。

 周囲の視線を意識するより、静かに整った部屋で、きちんと管理された食事をとる方が落ち着くのだろう。

 「じゃあ、私もルームサービスにしよっかな。スコーンと、ミルクティーと……あとサラダとか」

 「朝からケーキを頼まないだけ、進歩だな」

 「え、頼んでいいの? ケーキ」

 寝ぼけた声のまま、澪が冗談めかして聞くと、

 「駄目だ。血糖値が上がり過ぎる」

 すぐに九条の低い声が返ってきた。

 「……冗談です」

 「お前なら本気かと」

 「そんなに信用ないんですか。甘いもののことでだけ」

 「他のことなら、もう少し冷静だろう」

 「うーん、それも怪しいかも。雅臣さんの前だと、けっこうポンコツ発動するし……」

 「それも自覚あるのか」

 「あるよ。でも、それでも見捨てないでくれるから、つい甘えたくなるの」

 「ケーキの話から、よくそこまで飛ぶな」

 「私、甘いものだけじゃなくて、言葉も甘やかされたいタイプなんで」

 「……朝から糖度が高いな」

朝ごはん選び

 「朝ごはん、何食べるの?」

 毛布の中から顔だけ出して尋ねると、九条はすでにiPadのルームサービス画面を見ていた。目元の集中した感じを見るに、たかが朝食、されど朝食

 「大会が近いからな。タンパク質と炭水化物のバランスはちゃんと取りたい」

 「……あ、真面目モードだ」

 「ルームサービスにする。レストランで食べる気にはなれん」

 「わかる。雅臣さんがビュッフェで並んでるとこ、想像つかないもん」

 九条は返事をせず、黙ってメニューをスクロールしていく。

 「イングリッシュブレックファストに、全粒粉のトースト。卵はポーチド。ベーコンとソーセージは半分ずつにして、ベイクドビーンズは無し。紅茶はノンカフェインで。あとオートミールも頼む」

 「え、2人前ですか?」

 「違う。俺のだ」

 「……食べるなあ」

 「しっかり食べておかないと、ジムで倒れる」

 確かに。ドバイ大会も近いし、仮縫いやアフタヌーンティーに付き合いつつも、彼は抜け目なく身体を作っていく。

澪はスイートルームの大きなベッドの上で、毛布にくるまりながらメニューを覗き込む。

 目をきらきらさせながら、ページをスクロールしては「わ〜」とか「美味しそう…」とか、小さくつぶやいていた。

 「…あ、ミューズリーがある。これ食べたい。あとグラノーラも一緒にちょっとだけ混ぜたいな。100%ジュースはオレンジとグレープフルーツで悩む。両方いこうかな……オムレツは野菜多めで。ベーコンはやめとこ、加工肉は老けるから。あと、クロワッサン……」

 ぴたり、と九条の視線が止まる。

 「お前も朝から食べるな」

 「え、そんなに多くないよ?量はちょっとずつだし、栄養バランスはちゃんと考えてるんだから」

 「内容だけ見れば朝食バイキングと変わらない」

 「違うもん。これとこれとこれを“ちょっとずつ”よ?」

 澪は指を一本一本折りながら、自分の選んだメニューを再確認する。

 「ミューズリーは美容のため。グラノーラは好きだから。ジュースはビタミンCでしょ?オムレツはタンパク質。クロワッサンは…幸せの味」

 「最後だけ理由が雑だ」

「だって、せっかくイギリスにいるんだよ?日本だと、こんな朝ごはんなかなか食べられないもん」

「観光客か」

「観光してないけど、気分ぐらい味わったっていいでしょ?こっちは休暇中なんだから」

 とことん開き直った澪に、九条はほんの少しだけ口元を緩める。

「……オフって、そんなもんか」

「うん。今日は食べて、散歩して、服着て、アフタヌーンティーでしょ?最高じゃん。観光なんかしなくても、もう勝ち確の一日」

「何と戦ってるんだ」

「でもさ、雅臣さんって仕事とプライベートの線引きが明確じゃないから、切り替えるの大変だね。試合の時だけ頑張れば良いってわけじゃないし」

 澪がそう言うと、九条は一拍置いてから静かに答えた。

「……切り替えない」

「…え、そうなの?ずっと戦闘モード?」

「以前はそうだった。戦う時と、小休止ぐらいしか違いが無かった」

 思い出す。初めて会った時のこと。

 彼は確かに“休んでいる”ように見えたのに、どこにも隙がなかった。

 視線の置き方も、言葉の選び方も、まるで“何かを見極めようとする”ような緊張感を纏っていた。

 リラックスというより――アイドリング中。

 エンジンはずっとかかったまま。走っていないだけで、いつでも踏み出せる状態で構えている。

「……今は、どうなの?」

 思わず、聞いていた。

「お前といると、気が緩む」

「おお、それは良かった」

「良かった、のか?」

「良かったよ。人間、リラックスしないといつか倒れるよ」

「倒れない。ずっとそうだった」

「それは今までたまたま耐えてただけだよ。徐々に落ちてくるんじゃなくて、急にガクンって倒れるから」

「…そう、なのか?」

「そう。ある日突然バタンキューする」

「なんだそれ」

「知らない?バタンキュー」

 そう言って、澪が小さく笑う。

「元気だったのに、次の瞬間パタッて倒れるの。昔のアニメとか漫画でよくあった表現」

「……昭和だな」

「失礼な。使うでしょ、今でも」

「初めて聞いた」

「じゃあ、今度ほんとに倒れたら『あ、バタンキューだ』って言ってあげる」

「倒れない。そもそも倒れる前に、神崎や志水が止める」

「うん。たしかに倒れる前に止めてくれる人、いっぱいいるね」

 澪はそこで、ふと息をついた。

「でもさ、精神の疲れとか擦り減りって、外から見ててわかんないんだよ。とくに雅臣さん、弱音吐かないでしょ」

「そうだな」

「そういう人は危ないんだって」

 澪の声には、責めるような色はなかった。ただ、静かな事実を言っているだけ。

 九条は視線を落としながら、短く答える。

「……わかってはいる」

「わかってるなら、ちょっとずつでもいいから、疲れたときは疲れたって言ってね」

「言えるかはわからない」

「うん。でも、言えるようになったら、聞くから」

 そう言って、澪は小さく笑った。

「だから、練習だね。これから。試合じゃない方の練習」

「……厄介な課題を出す」

「でも優勝より難しくはないでしょ?」

 九条は、わずかに口元を緩めた。

ルームサービス

 トントン――控えめなノックの音。

 続いて、廊下からかすかにカートのホイールが転がる音が聞こえた。

「……ルームサービスかな」

 澪が上体を起こすと、九条が無言で立ち上がり、ローブの腰紐をゆるく結び直しながらドアの方へ向かう。

 扉の向こうでは、ホテルのスタッフが銀のワゴンに朝食を乗せて待っていた。サボイのエンブレムが入ったクロスが敷かれ、上には銀のドーム型カバーに覆われたプレートや、熱々の紅茶が入ったポット。絞りたてのジュースや、クロワッサンの香ばしい匂いがふわりと鼻先をかすめる。

 静かに礼を言って受け取った九条が、ワゴンを滑らせながら室内に入ってくる。

「わぁ……なんか、映画みたい」

 澪が目を輝かせると、九条はテーブルの前でワゴンを止め、淡々とドームを持ち上げて並べていく。

「お前の頼んだミューズリーとジュース。オムレツ、グラノーラ、クロワッサン。……多いな」

「だって健康的じゃん。ね?」

「ベーコンは?」

「我慢しました」

「偉い」

「褒められたー」

 くだらないやりとりが、なぜか朝の空気に心地よく馴染んだ。

待ち伏せ

「……蓮見、お前の席はない」

 後部座席に乗り込もうとする蓮見を、九条が冷たく遮った。

「あるだろ!1席空いてるだろ!!助手席が!」

「そこは藤代を乗せる」

「今日は護衛いらないだろ!俺がボディーガードやるから!」

「銃弾の盾になるのか?」

「いや、どんな想定だよ。そんなの滅多にねえよ」

 九条は無表情のまま、静かに言い放った。

「完全に無いとは言い切れない」

 ……うん、それは否定できない。

 世界ランク1位、そしてこのルックス。

 少なからず“様子のおかしいファン”から、熱烈なメッセージが届くこともある。

 でも。

「……今日、それが起きるの?俺がボディーガードの日に?」

「そういう時こそ起きるものだ」

「神話じゃん」

「現実だ。執事服を着ているときに何かあったら、お前は責任を取れるのか?」

「だから写真だけでも――!」

「写真も動画も禁止だ。澪のスマホだけが例外」

「個人記録かよ!チーム共有フォルダに入れようよ!」

「入れない。そもそもこれは、チーム案件ではない」

 九条が服の裾を整えながら淡々と言い放つ。

「この執事服は澪が“24時間執事をやってほしい”と言ったから仕立てることになった。経費は使っていない。完全に俺個人の財布からの出費だ。チームの誰にも見せる義理はない」

「俺、朝の6時からここで張って――いや、待ってたんだぞ!」

 蓮見が寒空の下、凍えそうな声で訴える。

「お前が勝手にやったことだ。俺には関係ない」

 九条は澪の肩に手を添えながら、ロビーの出口に向かって歩き出す。

 が、蓮見の声がしつこく追ってくる。

「関係ある!お前の執事服が見たい!」

「今日は仮縫いだ。完成は早くとも春だ」

「途中工程も見たい!絶対面白い!!」

 もはや完全に“オタク”と化した蓮見。

 九条が立ち止まって、静かに振り返る。

「やかましい。朝のロビーで騒ぐな」

 その一言で周囲が一瞬静まりかえる。

 でも、蓮見は引かない。

「だってさ、燕尾だろ?ジャケットの裾がシュッて分かれて、背中にシーム入ってて、脚長く見えるあの構造だろ?あれが九条雅臣の身体に沿って仕立てられてくんだぞ!ヤバくない!?」

 勢いのあまり、澪がむしろ「わかる」と頷きそうになる。

 が――九条は冷ややかに言う。

「お前、俺をなんだと思ってる?」

「素材」

「黙れ」

「マジで布と骨格の融合体。動くオートクチュール……」

「本気で黙れ。ホテルをお前だけ変えてやろうか」

 「どうしても行きたいんだってば!」

 蓮見が再びドアノブに手をかけるが、九条が遮る。

「……トランクに乗せてやろうか」

 一瞬の沈黙。

「……は?」

 蓮見が目を見開くと、すぐ横で氷川が淡々と続けた。

「……入りますか?」

「いやいやいやいやいや!!」

 蓮見が即座に否定するが、九条は微動だにせず。

「縛って小さくすれば入る」

「何の映画だよ!!ていうか俺、180超えてるって言っただろ!」

「知ってる。だから“縛る”必要があるんだ」

「発想が怖いわ!!」

「だが黙ってれば、目的地には着ける。お前にとっても理想的だろ」

「外、今何度だと思ってんの!?ロンドンの冬!トランクに暖房ないからね!?」

「お前がどうしてもと言うから譲歩してやっている」

「譲歩じゃない!!拷問だよそれ!!」

 横から氷川が、あくまで静かに補足する。

「しかもトランクは密閉性が高いので、酸素が……」

「おい待て、やめろ!マネージャーだろ!?止めてくれよ普通!!」

「僕は“行かせない派”ですので」

「味方がいねぇ!!」

「じゃあ嫌なら、ホテルにいろ」

 九条の静かな一言。

 だが蓮見は、唇をかみしめたまま、ひとことだけ。

「……やだ!」

「子供か」

「悔しいんだよ!!俺だけ知らないのが!!」

「知る必要がないから知らされない。それだけだ」

「俺も連れて行くまで離さないからな!!」

 蓮見が叫ぶと同時に、ガバッと九条の服にしがみついた。

「やめろ。しわになる」

 真顔の九条が即座に拒絶する。

しがみつく男と、無言で拒絶する男。

 その異様な光景に、周囲のロンドン市民やホテルスタッフが、微妙な距離感でチラチラと見ている。

 しかも、明らかに“黒い服のイケメンに縋りつく中年男”という構図だ。

「……」

 九条は何も言わないが、明らかに殺気を含んだ無言の圧をまとい始めた。

 が――蓮見、ここで閃いた。

(そうだ。澪さんがいる。

 近くに立っていた澪は、何も言わずに状況を静かに見守っていた。

 一歩引いた位置から、まるで「この戦い、どうなるのかな…」という空気を纏って。

(この人を味方に引き込めば、勝機はある!)

 氷川は車を取りに行って席を外している。

 今この場に判断権を持つのは、九条と澪だけ

 蓮見は、しがみついたまま澪に向かって叫んだ。

「澪さん!俺、行っていいよね!?ね!?」

 澪は静かに目を細めた。

 しばらく九条を見て、次に蓮見を見て――

 ぽつりと、ひとこと。

「……そのままトランクに詰められても、文句言わないなら」

「えっ」

 完全に想定外のカウンター。

 九条がわずかに口元を緩める。

「許可が出たな」

「いやいやいやいや!!それは黙認じゃなくて処刑だろ!!」

 澪はゆるく肩をすくめただけだった。

「ごめんなさい、朝から面白くて……」

「お前ら、冷たい!!愛がない!!」

「あるぞ。だから生きて帰れる」

「それが愛の定義かぁぁぁ!!」

しがみついたままの蓮見を横目に、澪がふっと笑った。

「冗談ですよ。でも、雅臣さん。写真とか撮らないって条件で、連れて行ってあげるのは?」

 一瞬、蓮見の表情に光が差す。

「優しい!!女神!!ほらお前の彼女がこう言ってるぞ!!慈悲の心を持て!!」

「うるさい」

 九条がきっぱり切る。

「お前が撮影しない保証が、どこにもない」

「するか!しないってば!神に誓って!!」

「……俺は無神教者だ」

「そこ!?そっち!?」

 蓮見、全身で崩れ落ちる。

「お前、どんな角度からも信用しないじゃん!俺、心がガラス細工なんだぞ!!」

「撮影欲もガラスと一緒に割れろ」

「地味にうまいこと言うなよ!!」

 澪はそのやりとりを微笑ましそうに見ている。

「……でも本当に撮らなかったら、行っていいんじゃない?」

「ふむ」

 九条が、ちらっと蓮見を見る。

「お前のカメラは?」

「ホテルの部屋に置いてきた!」

「スマホは?」

「預ける!氷川に!!」

 ちょうどそのタイミングで、氷川が車を回してきた。

 蓮見が駆け寄って、必死の形相でスマホを差し出す。

「これ預ける!!見張っててくれ!!」

 氷川が無言でスマホを受け取り、ポケットにしまう。

「監視対象、確認しました」

「何その言い方!!でもありがとう!!」

 

 ……しばしの静寂。

 九条は最後に、淡々と一言。

「無言で撮ったら、お前の人生が切り捨てられると思え」

「はい!!一眼レフを買った記憶すら抹消します!!」

「よし。助手席に乗れ」

「やったあああああ!!」

 まさかの勝利に、蓮見が声を上げて飛び跳ねる。

「ついに俺も、仮縫いチームだあああ!!」

「……名前がダサい」

「え、でもこの感動、何かに残したい……!」

「……言ったな?」

「文字だけ!文字だけにします!!Slackに長文レポ書くだけ!!」

「却下」

「文字もだめ!?」

燕尾服の魔力

静まり返った空間に、澪の声が響いた。

「……こんなカッコいい執事いる!?」

 思わずだった。

 頭では“歴史あるお店だから静かに見守る”と決めていた。

 でも、目の前で燕尾を着た九条雅臣が鏡越しに軽く身をひねった、その瞬間――

 心の声が、口から出た。

「いたら……メイドも女主人も惚れちゃうじゃん!!屋敷が荒れるよ!!!」

 沈黙。

 職人、無言。ピンを打つ手が止まる。

 蓮見、小声で爆笑しながらすかさず同意。

「ですよね!?惚れるだろ!?メイドどころか庭師も惚れるぞあれ!!」

 澪、顔を手で覆う。想像できて辛い。

 九条が鏡越しに一瞥だけくれる。

「あっ……っ、すいません……っ」

「静かにしろ。店に迷惑だ」

「……はい」

 でも、口元はほんのすこしだけ、緩んでいた。

 それに気づいたのは、澪だけだった。

(……え、なんであんなに似合うの?)

(ていうか……燕尾服ってあんなに……“くる”の?)

 九条が背を向けた、その瞬間。

 裾が、ふわっと揺れた。

 まるでツバメの尾羽が風を裂くような、完璧なV字カット。

 (後ろの……ツバメの……尻尾がやばい)

 (破壊力が……予想以上に……ヤバかった)

 自分でも意味のわからない単語の並びに、思わず内心で苦笑する。

 でも言葉にならないのは、それだけとんでもないものを見た証拠。

九条が振り返って、何か話しかけたけど――

言葉が、耳に入ってこない。

声は聞こえてるのに、理解が追いつかない。

(顔まで……完成されすぎ……)

(この人、恋愛シミュレーションゲームに出てくるキャラじゃん……)

(こんな執事いないよ……心臓止まるって)

 

ちょっと遠くを見ながら、澪は静かに結論を出した。

(これ……ボタン押したら好感度上がるどころか、私の理性が終了するやつ)

(ダメだ。選択肢が全部BAD END)

店員の笑顔とともに、仮縫いが終わった燕尾服姿の九条が、フィッティングルームから出てくる。

(……やばい、これ……)

澪は椅子に座ったまま、完全に動けなくなっていた。

思考が止まるって、こういうことを言うんだと思った。

 

(着たところ、見てみたいとは思ってたけど……)

(ここまでとは聞いてない……)

裾のV字カットも、肩のラインも、襟の角度も、全部が「決まりすぎて」て、怖い。

しかもまだ仮縫い。ところどころに白いしつけ糸が残っているのに、それすら絵になる。

(これ、完成形見たら……私、もう……)

(正気じゃいられない)

「カザランに送ってやったらあいつ狂喜乱舞するぞ、絶対」

隣で蓮見が笑いながらスマホを取り出すそぶりを見せた。

「送らない」

九条の即答があまりに自然すぎて、ふたりとも一瞬固まる。

「……おお……速いな、反応」

「くだらないからな」

淡々とした声なのに、その否定がどこか“守っている”ように聞こえて、

澪はまた膝から力が抜けそうになる。

(そんな声で、真顔で、否定しないで……)

(仮縫いだけでこの威力……これ、完成したら……)

(カザランが狂う前に、私が死ぬ)

たしかに興味本位ではあるけど――たぶん、あの人は“本当のダメージ”を知らない。

 

「……どうした?」

九条が、ごく自然に澪の前に立つ。

問いかける声は、いつも通りの静かなトーン。

(どうした?じゃない、ほんとに)

(そんな顔して近づかないで……まじで、今それ、反則だから……)

「……だ、だめ……」

「何が?」

「仮縫いでこれって、完成したら私どうなっちゃうの……」

「完成しても着るだけだが」

「それが……ダメなの……!」

崩れそうになる膝を手で押さえながら、澪はなんとか上半身だけは保とうとする。

けれど脳内では、さっきの“燕尾服の裾が揺れた瞬間”が何度もスローモーションで再生されていた。

スラリと伸びた背中のラインが更にやばい。

「なに?もしかしてちょっと惚れ直しちゃった?」

「“ちょっと”じゃ済まないと思うんですが……」

蓮見が笑いながらからかってきたけど、澪はもう返す元気すらない。

恋に落ちるっていうより、撃ち抜かれたって感じだった。

澪は、まだまともに息ができていなかった。

足元ぐらつく。

脳はふわふわする。

脳裏に燕尾服がチラつくたびに、心拍数が上がる。

 

「……まだ糸とかついてる仮縫い状態なのに…………既にやばいんですけど…………完成したら、私どうなるの……?……死ぬの……?」

 

九条はシャツの襟を整えながら、顔も見ずに即答した。

「死ぬな」

「いや、無理かもしれない…………やっぱり、写真欲しいな……」

「お前は完成したら見れる。撮るならその時に撮れ」

澪の目が一気に輝く。

「えっ、撮っていいの!?完成品!?」

九条は、出してもらった紅茶をゆっくりと飲みながら、ぶっきらぼうに。

「……どうしてもと言うなら、考えないこともない」

「やった……やったぁ……撮れる……推しの最高衣装、私だけの特権……!」

その場の空気が甘く、ほんのり満たされる。

――が。

タイミングを見計らったかのように、蓮見が首を突っ込んできた。

「俺は?」

 間髪入れず、九条。

「駄目だ」

「即答ーーーー!!!」

蓮見、店内で床に崩れ落ちる。

「なんでだよおおおおお!!俺だって今!見守ってた!口出さなかった!!!」

「それが普通だ。褒められることではない」

「まぁ、確かに」

交換条件

九条は声を潜めて、澪の耳元に小さく囁いた。

「……お前、忘れてるみたいだが」

「え?」

「お前が着るものもあるんだぞ」

 澪の脳が一瞬、空白になる。

(――あ)

「あの、黒いドレス……?」

「そうだ」

「え、あれ……忘れてなかったの?」

「忘れるわけないだろ。執事服の選定をしながら、ずっと思ってた」

 澪の顔が一気に赤くなる。

「いやちょっと待って、あれって冗談かと思ってたのに……」

「本気だ」

 九条の目は真剣そのものだった。

「背中が開いた黒のドレス。髪はアップ。メイクは赤のリップ。

ただし、それを俺以外に見せてはいけない」

「ちょ、改めて考えると条件多すぎでは……?」

「当然だ。お前が俺に“仕える服”を望んだ。俺も、お前に“してほしい姿”がある」

「………」

 言葉に詰まる澪に、九条はトドメを刺すように一言。

「だから、選ぶな。俺が選ぶ」

「えっ、ひど。私が着るのに?」

「お前が選んだら守りに入るだろ」

「そりゃ守りますとも!!谷間とか背中とか防御力ゼロじゃん!」

「だから駄目だ。俺が選ぶ」

 ぼそぼそと、息を潜めての密談。

「……メイクも、リップの色まで指定されるの?」

「当然だ。お前がいつも使ってる色じゃ、挑発的な色気が足りない」

「そりゃ誰かを挑発するメイクしてませんから。これでもちゃんと研究してんのに……」

「知ってる。だが、変化させたい」

 

澪はしばらく口を開けていたが、ふと気づいたように小声で言う。

「……それってつまり、

私の“いつもの姿”とは違うものを、私にさせたいってこと?」

 九条は静かに頷いた。

「そうだ。お前が俺に“いつもとは違う姿”を望んだように」

 これはただの罰ゲームじゃなかった。

 お互いの望みを、ただ叶えるためだけに仕組まれた、誰にも見せられない秘密の演出。

 

「……じゃあ、仕方ないか。やるしかないね」

「やるんだな?」

「女に二言はありません」

澪はふと、真面目な顔で提案した。

「……ねえ、ヘアメイクだけ、カザランに頼んだら?」

 九条の眉が、ほんのわずかに動く。

「……」

「私がやるより絶対綺麗にしてくれるし、ちゃんとお金払って“仕事”としてお願いすれば、あの人ならやってくれると思う」

 澪は、自分の髪をそっと指でつまみながら言った。

「ドレス着るなら、ヘアとメイクが仕上がってないと台無しだし……

私は美容のプロじゃないし、あなたの“見たい姿”にしたいなら、ね?」

 

九条は黙り込んだ。

反論はない。

理屈では完全に澪が正しい。

──でも。

「……」

口を開きかけて、やめた。

言語化できないモヤモヤが、喉に引っかかる。

 

澪はそれに気づいたように、少しだけ声を落とした。

「……カザランのこと、嫌?」

 

九条は一瞬だけ澪を見て、やや視線を逸らしながら、ぽつりと漏らす。

「……アイツに見せるのが嫌なんだ」

 

澪の目が、少しだけ見開かれる。

「え……」

「俺のための姿を、他人に共有したくない」

「でも……カザラン、プロだよ?そこに感情とか――」

「……あいつの仕事は信頼してる。そこに関しては、間違いなくプロだ」

 澪は黙って頷く。

九条は続ける。

「恐らく、頼めば喜んでやるだろう。

髪型も、メイクも。お前を一番綺麗に仕上げようとする。間違いなく、腕は確かだ」

 でも、と言葉を切って。

「……だが、ドレスを見せろと言ってくる」

 そこだけは、明らかに口調が嫌そうだった。

「……それが嫌だ」

 

澪は、ふっと苦笑いを浮かべる。

「……ちょっとわかる気がする」

「……」

「絶対、言ってくるよね。“どんなドレス?えっ黒?背中どれくらい開いてんの?リファレンスちょうだい”って」

「“見せないと似合わせられない”って理屈をつけてな」

「カザランなら絶対言う。しかもワクワクしながら」

「それが、嫌だ」

 

九条は眉をひそめたまま、ジャケットのボタンを閉じる。

「……俺だけが見る服だ」

「うん、うん。わかったよ」

 澪は肩をすくめて笑った。

「……じゃあ、ドレスの写真とかイメージ画だけ渡して、“姿そのものは見せない”って前提で頼んでみる」

「それでいけるのか?」

「いけなかったら……カザランには、“口止め代としてランチを奢る”って言っとく」

「やけに慣れてるな」

「女の世界は、口止めと美食でできてるからね」

 

九条は黙って澪を見て、わずかに口元を緩めた。

「……なるほど。では、任せる」

「うん。……任された」

 

ふたりの間には、静かな了解が流れていた。

“誰にも見せない”“誰にも触らせない”

そのために、あらゆる段取りをこなすのがこのふたりの“契約”。

甘いわけじゃない。けれど――確かに、だった。

 

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URB製作室

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