78.The Savoy

車内

車は静かに動き出し、ロンドン中心部へと向かう。

暖房の効いた後部座席に身を預けながら、澪はふと前方を見た。

「氷川さん……機内、ちゃんと眠れました? お疲れじゃないですか?」

運転席の背中越しに声をかけると、ルームミラー越しに柔らかな目が返ってきた。

「寝ましたよ。慣れてますから、大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」

相変わらず穏やかで、丁寧な口調だった。

気遣われ慣れていないような、でも受け止め方がとても自然で優しい。

「ベッドでしっかり横になって寝てた私の方が疲れてるって……どんだけ軟弱なんでしょうね」

苦笑い混じりに言うと、前方の運転席から静かな声が返ってくる。

「海外への移動は、慣れていなければ、疲労が溜まります。特に、時差と機内の乾燥で思っている以上に体力を消耗しますから」

「なるほど……じゃあ、少し軟弱でも許される感じですね」

「ベッドでしっかり横になって寝てた私の方が疲れてるって……どんだけ軟弱なんでしょうね」

澪が苦笑いしながらそう言うと、落ち着いた声が返ってきた。

「綾瀬さんが軟弱なのではなく、どちらかと言えば……このチームが少数派の集まりなんですよ」

「……え?」

思わず聞き返すと、氷川はルームミラー越しに一瞬だけ目を合わせてから、再び前を向いた。

「深夜便で寝られる、時差に強い、ホテルの枕が合わなくても体調を崩さない……そういう人間ばかりが集まってるので、感覚がちょっとズレてるんです。お気になさらず」

「……それ、普通に慰めてもらうより、なんか安心します」

「それなら良かったです」

最初は冷たくて、何を考えているか分からなかった。

でも今は、こうして少しずつ距離を詰めてくれる。

そう思うと、不思議と気持ちが軽くなった。

――その空気を、後部座席の隣で、九条は何も言わずに聞いていた。

窓の外を見るでもなく、スマートフォンにも触れず、ただ静かに身を預けている。

けれど、その沈黙は無関心ではない。

むしろ、会話のひとつひとつを丁寧に拾っているような、張り詰めた静けさがあった。

そして、何も挟まずに黙っていること自体が、九条の“答え”でもある――そんな空気を、澪はかすかに感じていた。

The Savoy到着

スイートの扉が閉まると、澪は真っ直ぐバスルームへ向かっていった。

「さ、メイク落とそー」

洗面台のライトをつけて、ヘアピンで前髪を止めながら言う。

ほんの数時間の軽いメイク。しかもマスク着用だったから、下半分はほとんどノータッチ。

九条が後ろからぼそっと呟く。

「……しなくて良かったんじゃないか?」

「駄目。ノーすっぴん。外では絶対」

「大して変わらない」

その瞬間、澪の手が止まり、鏡越しに目を見開いた。

「……うわ、地雷踏んだー。言ったなー今、“大して変わらない”って」

「事実だろう」

「いや、もっとこう、“すっぴんも綺麗だよ”とか、“俺しか知らなくていい”とか、あるでしょ?」

「……言葉で飾らなくても、見慣れてる」

「え、それちょっと好き……でも許さない。はい、しばらく口ききません」

そう言って澪はクレンジングを手に取る。

口を尖らせながらも、頬はほんのり緩んでいた。

「しばらくって、五分か? 五分も黙ってられるのか?」

「失礼な。人をずっと喋りっぱなしみたいに言って」

「事実そうだろう」

「はー……もう、はいはい。そうです、私はお喋りです。黙ってると死んじゃうんですー」

クレンジングシートをべしっと顔に当てながら、やけくそ気味に返す。

九条は後ろのソファに腰を下ろして、うっすら笑っただけ。

「そもそも、喋らないと眠くなるんです。口がアイドリングしてないと停止するんです」

「エンストするタイプか」

「そうそう。喋り止めると“カックン”って寝ちゃうやつ。赤ちゃんの揺りかごかってくらい」

「……車内で氷川に喋りかけてたのも、それか?」

「ちがいます! あれはコミュニケーションです! 純粋な社会的交流!」

「……“口が止まったら死ぬ魚”って、新種か?」

「人をマグロみたいに言うな!」

「マグロは喋らない」

「そういう意味じゃないから!」

「知ってる」

「じゃあなんで言ったの!」

「釣れるかと思った」

「釣った魚にも餌はあげてください」

「お前は甘いものをぶら下げたら釣れそうだな」

「さっきから失礼だよ!そんな簡単じゃない!」

「じゃあ明日のアフタヌーンティー、何を食べるんだ?」

「え? ケーキでしょ? スコーンでしょ? サンドウィッチもあるし、ロイヤルミルクティーは砂糖増しましで!」

「……」

「……あれ?」

「やっぱり釣れるな」

メイク落とし完了

顔を洗って、歯を磨いて、化粧ポーチをぽんと閉じる。

スキンケアはそこそこに済ませて、ふらふらとベッドに向かう。

「……でっか」

目の前に現れたキングサイズのベッドに、小さく呟いて、次の瞬間——

ぼふっ!

掛け布団に顔から突っ込んで、そのまま沈み込む。

ふかふかの羽毛が頬にあたって、幸せな溜息が漏れる。

「……極楽……」

バスローブ姿のまま、ベッドの上を無邪気にゴロゴロと転がる澪。

フカフカの掛け布団の上を転がって、にこにこしながら言った。

「見て見て。端っこまで行くのに、めっちゃ回転しないといけないの」

九条はスーツケースを開ける手を止め、じっとその様子を眺める。

「お前はキングサイズでもベッドから落ちるのか?」

「一回も落ちたことないわ!シングルでも落ちない!」

澪はくるっと仰向けになって胸を張る。

「……意外だ」

「本気でびっくりしてる?」

まるで「絶対落ちる側の人間」だと決めつけられたようで、ちょっとムッとした顔。

九条は小さく笑って、ふと視線を逸らした。

澪がベッドの上でぐるぐる転がりながら笑っていると、九条がふいに近づいてきた。

無言のまま、大きな手で澪の髪をくしゃくしゃと撫でる。

「なっ、ちょっと……!なに、急に!」

「うるさい子どもは先に寝ろ」

「子ども扱いすな!」

九条はそれ以上なにも言わず、静かに洗面所へと向かう。

姿勢はいつも通り落ち着いているけれど、ほんの少しだけ──口元が緩んでいた。

洗面台に立って、歯ブラシを取りながらふっと漏れた小さな息は、

ほんの少し、安堵に似ていた。

訪問者

九条が歯磨きを終えた時、ドアをノックする音が、ホテルの静かな空間にコンと響いた。

無言で玄関に近付き、扉を開ける。

廊下に立っていたのは、片手に道具バッグをぶら下げたカザランだった。

「髪、切りに来ました。とっととやっちゃいましょう」

開口一番、やる気満々のトーン。

「……今か」

九条は一瞬だけ眉をひそめたが、特に驚いた様子もなく、そのまま横にどいて通す。

「こんばんは〜」と、ベッドの上から澪が手を振る。

バスローブ姿でごろごろしていたのに、来客とわかって若干焦り気味に起き上がる。

「あ、すみません、なんか、くつろぎすぎてて……」

カザランが澪の姿を見て、目を細める。

「………………邪魔しちゃいました?」

少しだけ含み笑いを含んだ声音。

ベッドの上、バスローブ姿で横になっていた澪。髪は少し乱れ、顔は保湿した後でしっとり艶めいている。

九条は一瞬だけカザランを見てから、無表情で返す。

「いや、違う」

間を置いてから、もう一度。

「一応、今は違う」

「“今は”ね〜」

カザランがにやりと笑う。

「それ、聞いてない方が良かったやつかも。ま、仕事しますよ」

澪は気まずそうに布団にまた顔を埋めた。

「寝てていい」と九条の声。

「…寝れないよ、この空気で…」と澪の小声。

カザランは無駄のない動きで部屋の一角にビニールシートを敷き、椅子をその上に置くと、手早く準備を始めた。

「はい、ここ座ってください」

九条は一言も喋らず、まっすぐ立ち上がって椅子に腰かける。自然に背筋が伸びていて、まるでこれが毎週のルーティンであるかのようだった。

カザランがケープをかけ、髪に手を通す。

「2週間分伸びたとこ切って、整えますね」

「……ああ」

鋏の音が、シャキ、シャキ、と静かに響く。

澪はベッドの上からぼんやりとその様子を見ていたが、ふと疑問が浮かぶ。

「2週間分……って、え、どこ?どこが伸びたの?」

カザランはにやりともせず、プロの顔で切り続けながら、

「ミリ単位です。でもその数ミリで形が理想から崩れるんですよ、この人は」

「……えぇ……?」

目を見開く澪。

「九条さん、髪型とか長さをスポンサー契約で指定されてるのと、試合の時に視界に髪がかかるのを嫌がるので、月に何回もカットするんですよ。短すぎるのは嫌らしいので」

カザランが淡々と説明しながらカットしていく。

「……月に何回も!?」

ベッドの上で横になっていた澪が、思わず声を上げる。

「まあ、頭の形が綺麗なのと、生え方に癖が少ないので、切りやすくて助かります。切ってる間、全く動かないので、ウィッグ切ってるのと一緒です」

カザランは手元を一切止めず、淡々とハサミを動かしながら言った。

「……それ、褒めてるんですか……?」

澪がソファに座ったまま、ちょっと困った顔で口を挟む。

「褒めてます。仕事しやすいので」

カザランは即答。微塵も悪びれず、完全にプロの目線だった。

「動かないんですよ、この人。首も傾かないし、真っ直ぐ前見て、瞬きすら少ない。たまに無呼吸かと思うくらい」

「それはそれで心配になりますよ……」

澪が苦笑すると、カザランがくすりと笑った。

「でも、ほんと理想的な素材ですよ。髪もいいし、骨格もいいし。モデルやればいいのにって思いますもん」

「……やらない」

九条がぼそっとだけ返すと、澪とカザラン、「でしょうね」と同時に笑った。

グレーゾーン

「あ。一応、ホテルの部屋でカットするのって、ほんとはやっちゃダメなやつなので、内緒でお願いします。グレーゾーンですけど」

カザランがさらっと言う。

「そうなんですか?」澪が素直に驚く。

「基本、美容所以外での業務は禁止されてるんです。旅館とかホテルの部屋で勝手にやると、通報されることもあるんで」

「へぇ……」

「でもこの人、美容院通うの面倒だからって、私を引き抜いたんですよ」

「……マジっすか……」

澪の目がまんまるになる。

「ちなみに以前は、東京の美容院で働いてました。そこに、髪が伸びて不快指数MAXだった九条さんが、たまたま来店して」

カザランは手元のハサミを動かしながら続けた。

「開口一番、『とにかく速く完了させろ』だけ言って。それ以降、一言も喋らないまま、無言で椅子に座ってましたね」

「想像できます」

澪がすぐに言うと、カザランはクスッと笑う。

「いや、さすがに何センチ切るかぐらい言ってもらえますか?って聞いたんですよ」

カザランが淡々と語りながら、ハサミを動かす。

「そしたら無言でスマホ出してきて、画質やたら良い本人の写真見せてきたんです。『この長さ』って」

「写真?なんの?」

「なんかの広告に出た時のやつらしくて。その髪型から変えるなって契約に入ってたみたいです。360度写真あったので、それに合わせました」

「えぇ……そんな契約まであるんですか……」

「で、氷川さんから声がかかって。チームの専属にならないかって。無事、円満退社」

「それ、円満なんですか?」

「飛んだりはしてないですよ。一応、翌月いっぱい働いて辞めましたし」

「まあ、じゃあ常識的か。引き止められませんでした?」

「止められました。でも、収入10倍以上に増えるって正直に言ったら、『……まぁ、そりゃ仕方ないか』って」

「すご……」

澪が思わず素で言うと、カザランは「こっちも生活してるんで」と笑うこともなく、淡々と次の毛束に取りかかった。

「……いちいち店に行くのが、面倒だっただけだ」

クロスを巻かれたまま、ぼそっと九条が呟いた。

「でも九条さんのカットなら、私じゃなくても他の美容師でも出来そうですけどね」

カザランが手を止めずに言うと、少しの間を置いて九条が低く返す。

「……お前を最初見た時、男かと思った」

「ちょっと雅臣さん、それ失礼すぎ!」

澪が思わず声を上げる。ソファから立ち上がりそうな勢いで、九条に向き直った。

だが当のカザランは、少し笑っただけだった。

「いいですよ。よく言われますから。女らしく見られたいとも思ってないですし」

軽く肩をすくめて、再びハサミのリズムを戻す。

「まあ……確かに私も、かっこいいとは思いましたけど……中性的な、かっこよさですよね」

澪が、何気なく素直な本音を口にする。

すると、カザランが笑いながら九条に目を向けた。

「だってさ、九条さん」

「なにがだ」

「“かっこいい”って言われちゃった」

「俺の次にだ」

「うーわ、すごい自信。引くわー」

カザランが本気で吹き出した。手元は止めず、けれど笑いが喉奥でしばらく続く。

九条は特に否定することもなく、無表情のままじっと前を向いていたが、どこか口元だけがわずかにゆるんでいる気がするのは、澪の錯覚だろうか。

カット完了

「はい、できた。シャワー行って流してきてください。足元の毛くず踏まないように」

カザランがクロスを素早く外すと、九条は黙って立ち上がり、スリッパを履いた足取りでバスルームへと消えていった。

部屋に残されたのは、澪とカザランのふたり。

カザランは慣れた手つきで床に敷いたビニールシートをさっとたたみ、飛び散った髪の毛が残らないように丁寧に道具を片付けていく。動きに無駄がない。まるで“長居する気がない”という意思が、全身から伝わってくるようだった。

その背中に、澪がぽつりと声をかけた。

「カット、すごく早いですね」

カザランは道具箱のファスナーを締めながら、ふっと口角を上げる。

「いつも同じ頭を、同じように切ってるだけです。何度もやったら、誰でも早くなりますよ」

「そういうものなんですか?」

「はい。しかも相手が、動かないウィッグみたいな頭ですから」

言いながらも笑っていて、澪もつられて小さく笑った。

「ところで風早さん」

片付けを終えたタイミングで澪が声をかけると、カザランは笑って首を傾げた。

「カザランでいいですよ。風早さんって呼びにくいでしょ?」

「あ、じゃあ……カザラン。肌すごく綺麗ですね。化粧品、何使ってるんですか?」

途端に空気がふわっと和らぐ。女子同士の、美容トークのはじまり。

澪はプロではないけれど、カザランの目から見ても、髪も肌も丁寧に手入れされているのが分かる。凝ったメイクをしているわけじゃない。けれど“素材から美しくあろうとする姿勢”が、顔つきにも纏う空気にも、滲み出ている。

美意識が高い人間同士。

カザランは軽く笑いながら首を振った。

「化粧品は、そんなに凝ってないですよ。食事と運動と、保湿。とにかく保湿です。飛行機とかホテルって、乾燥ヤバいじゃないですか。だから、疲れてても保湿はこまめにやります。あとUV対策」

「やっぱそこですよね〜。基本的なとこに戻ってくるっていうか…」

「そう。病気予防にマスクと手洗いが一番効くのと同じで、美容も“基本をどれだけちゃんとやるか”が全てです」

カザランはふっと笑った。

「綾瀬さん、ちゃんとしてるじゃないですか。髪も肌も、すごく丁寧。しかもナチュラルに見えるように整えてるのって、意外と高度なんですよ」

「…裏側までわかってくれる人、少ないんですよね、そういうの…」

「わかりますよ。だってそれ、私が一番好きなタイプの仕上がりなんで」

自然と距離が近くなる。

“女同士”の共鳴する感じ。

「だから好きなんじゃないですか?九条さん。明らかにメイクでゴリゴリに作った顔とか、たぶん苦手ですよ。素材が綺麗な女が好きって……一番金と手間がかかる女が好きってことですからね」

言いたい放題。

九条がその場にいないのを良いことに、カザランの言葉が止まらない。

澪は思わず吹き出しそうになって、笑いをこらえる。

「……本人、口では好きなタイプとか言わないですけどね」

「言わないでしょーねぇ。あの人、たぶん“可愛い”って言葉も本当の時しか出てこないタイプでしょ?気遣いで褒めたりできない人だもん」

「……それ、めっちゃわかります……!」

二人、声を殺して笑い合う。

こんな風に誰かと“九条雅臣”を笑って話せる日が来るなんて、澪自身が一番驚いていた。

「でも、ちゃんと見てるし、ちゃんと選んでますよ。綾瀬さんのこと」

「え……?」

「見ればわかります。あの人、“完璧に仕上げてくる女”じゃなくて、“隙があっても綺麗な女”を選んでる。で、その女が本当に手をかけてることに、たぶん気づいてるんですよ。口には出さないだけで」

「…………」

「つまり、めっちゃ面倒くさい男です」

「……否定できない……」

ベッドルームの奥から、シャワーの音が止まる気配がした。

笑い声を一度ひそめながら、2人は目を見合わせてニヤリとする。

面倒臭い男

バスルームから戻ってきた九条は、髪をタオルで拭きながら足元を一瞥してから、ちらとソファの二人を見る。

「……何を話していた?」

低く落ち着いた声なのに、ほんの少しだけ不穏な気配をまとっている。

澪は、ちょっと肩をすくめて笑った。

「んー、女子トーク」

その一言に、九条の眉がわずかに動く。

沈黙。

「女子トーク」と言われても、それが具体的に何を意味するのか、彼にはまったく見当がつかない。ついていけない。そしてなぜかちょっと怖い。

居心地悪そうに視線を逸らして、ぽつりと一言。

「風早、もう戻れ」

「乾かしてからもう少し切らなくていいです?」

「また試合前でいい。今日は戻れ」

「へいへい。お暇しますよ」

カザランは肩をすくめながらも楽しげに立ち上がり、きっちりと収納した道具バッグを手に持つ。

「じゃ、おやすみなさい、綾瀬さん。今夜、頑張ってくださいね」

「それセクハラです…!!」

ケラケラ笑いながらカザランが出て行くと、部屋には再び二人だけの静けさが戻ってきた。

九条は黙って、まだほんのり湿った髪を手ぐしで整えている。

澪が、くすっと笑って言った。

「髪、乾かして寝よ」

ぽん、とソファから立ち上がって、コンセントにドライヤーを差し込みながら澪が言う。

「乾かしてあげるよ。そのために、わざわざ日本から強力なドライヤー持ってきたんだから」

九条が振り返って一言。

「……自分のためじゃなかったのか?」

「あなたのためでもあるから。たまに髪湿ったまま寝てるでしょ?あれ絶対ダメだから」

「……勝手に予想するな」

「予想じゃないの、観察。生活を一緒にしてる人間だったから分かったんです」

そう言って、椅子の座面をぽんぽんと叩く。

「はい、ここ。座って」

九条は少しだけためらうように視線を逸らしながらも、黙って言う通りにする。

ドライヤーのスイッチが入ると、温かな風と一緒に、澪の指先が髪をやさしくすくいあげていく。

「髪、乾かすの面倒って思ってるでしょ?」

ドライヤーのスイッチを入れながら、澪がじとっとした目で九条を見る。

「絶対ダメだから。頭皮に雑菌わくよ?そのまま寝たら枕にも菌つくし。将来ハゲても知らないからね。

ハゲたらモテないよ?」

「……脅しか?」

「予防医学です。優しさです。愛です」

「うるさい。風早より小言が多い」

「風早さんはプロ、私は身内。愛の種類が違うの」

「どちらも面倒だ…」

そう言いながらも、九条は大人しく椅子に座る。

ドライヤーの風がふわりと流れて、澪の指が静かに髪を整えていく。

「いいじゃん。髪切ってもらって、乾かしてもらって。VIP待遇じゃん」

「洗うのはセルフだった」

「それぐらい我慢してください」

そう言いながら、澪はドライヤーを手に取って、九条の後ろに回る。

「……ちゃんと乾かさないと、髪質も悪くなるよ?手触りとか」

「…モテなくなる?」

「うん。私に」

にっこり笑って、九条の頭に手を添える。

「……それは困るな」

声のトーンが、少しだけ落ち着いた。

「でしょ?だから、素直に甘えてなさい」

そう言って、澪が優しく風を当て始めると、九条がふっと笑う。

「……甘やかされるのも、悪くない」

「うん。私は、雅臣さん限定で甘やかす係だから」

「……はい、終わり」

風を止めて、そっとドライヤーを置いた澪が、タオルで軽く髪に触れる。

九条は、じっとそのまま座っていた。動かず、黙って、ただされるがまま。

「ちゃんと乾いたよ。ほら、指通りもサラサラ」

後ろから髪に手を入れて、指でとかすように撫でながら、澪は微笑む。

そのまま、すっと顔を近づけて──

九条の首筋に、そっと唇を当てた。

ぴくり、と肩が小さく動く。けれど彼は振り返らず、ただ静かに言った。

「……今のは、何のつもりだ?」

「お疲れさまのキス。ダメだった?」

「いや」

短く返してから、ほんの少しだけ後ろを振り向く。

「……油断した」

「ふふ、成功」

にやりと笑った澪の顔を見て、九条の唇の端が、ごくわずかに持ち上がる。

「乾かしてから調整で切ってもらわなくてよかったの?」

澪がタオルを畳みながら聞く。

「どのみち、試合前や撮影のときは風早が整える」

「……マジか。専属のヘアメイクさんがいるってすごいな」

ベッドの上で体育座りして、感心したように澪がぽつり。

「口うるさいヘアメイクだ」

「うん、プロ意識すごそうだった」

澪が笑うと、九条も小さく息を吐いた。

「信頼はしてる。仕事が速い。無駄がない」

「なんか…雅臣さんって、“選ばれし者の世界”で生きてるって感じするなぁ…」

ぽつりと漏らした澪の言葉に、九条はふと目を向ける。

「お前も選ばれてる。今ここにいるのが証拠だ」

「……そういうこと、さらっと言うのずるいよ」

そう言いながら、澪は照れ隠しにまたベッドにダイブする。

 「もう遅い。寝るぞ」

 九条がそう言って、照明のスイッチを切る。

 「はーい。でもなんか、飛行機でいっぱい寝たから変な感じ」

 薄暗い部屋の中で、澪はベッドに足を滑らせながらそう答えた。シーツの冷たさが、少しだけ気持ちいい。

 「体内時計の関係だろうな」

 背後から、低く落ち着いた声が返ってくる。

 「雅臣さん、時差どうしてるの?」

 「動く距離にもよるが、大きい大会の時は、慣らすために十日前には現地入りするようにしてる。だが、どうしても狂ったまま出るときもある」

 九条はベッドに入っても、すぐには横にならず、背を凭れたまま瞼を閉じている。

 「……眠くないの?」

 「眠いから試合に出ない、とは言ってられない。それでも勝つしかない」

 当たり前のように淡々とした口調だった。

 その言葉を聞いた澪は、返事の代わりに「そっか」とだけ呟いて、自分のブランケットを肩まで引き上げた。

 同じベッドにいながら、彼が向かっている場所は、自分とは違うどこか遠く。

 けれど、その背中に少しでも触れていられる今が、なんだか少し、誇らしい。

 「……おやすみ、雅臣さん」

 「おやすみ」

 すぐそばから返ってきた声は、思っていたよりも、柔らかくて優しかった。

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URB製作室

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