82.シェフズ・グリル

シェフズ・テーブル

店の入り口でスタッフに案内を受け、重厚なアールデコ様式のホールへ足を踏み入れる。

深い木目の壁、真鍮の装飾、柔らかな照明――どこか舞台に上がる前のような緊張感が漂う。

案内されたのは、サヴォイ・グリルの奥にある「シェフズ・テーブル」。

蓮見がこちらを見つけて、口元だけでにやりと笑う。

「お、来たな。ほら席空けといたぞ」

澪は一瞬だけ躊躇しながらも、笑顔を作って席に着く。

厨房を仕切る大きなガラス越しに、コックコート姿の料理人たちが慌ただしく動き、盛り付けられた皿が次々と運ばれていくのが見える。

「うわ…厨房ガラス張りだ…作ってるとこ、お客さんに見られて緊張しないのかな…」

澪が小声でつぶやく。

「向こうは慣れてる」

席に着きながら九条が淡々と答えると、澪は「そっか…」と少し感心した顔をした。

すでに蓮見、氷川、志水、早瀬、神崎、風早が席に着いていて、テーブルには前菜の牡蠣やキャビア、温かいパンのバスケットが並んでいる。

風早は澪の髪型を一目見て「今日のまとめ方、似合ってますね」とさらっと褒め、澪は「ありがとうございます」と少し頬を赤らめる。

蓮見がメニューを開きながら、「せっかくだし、ビーフ・ウェリントンいっとけ」と笑う。

氷川はすでに「フィッシュ&チップス」に決め、志水はロブスター、早瀬はラムのロースト、神崎は軽めにシーザーサラダ。風早は「自分もウェリントンです」と即決だ。

澪は俺を見上げ、「…これ頼んでもいい?」と指先でビーフ・ウェリントンを示す。

「食べたいなら頼め」

そう言うと、澪は嬉しそうに頷き、メニューを閉じた。

厨房の中で、黄金色に焼かれたパイ包みが切り分けられる様子を見ながら、普段は試合や移動で散り散りのメンバーが、同じテーブルを囲む。

外の喧騒から切り離された、この小さな空間だけが、穏やかな昼の時間を刻んでいた。

厨房の奥では、シェフが大きな肉の塊を切り分け、皿に盛りつけていた。

風早はそれをじっと見つめ、思わず前のめりになる。

「……あのカット、ヤバい。完璧」

小声で感嘆しながらも目を離さない。

すると、視線に気づいたらしい料理長が、ガラス越しに軽く手を上げて笑った。

不意を突かれた風早が、一瞬きょとんとした後、照れくさそうに手を振り返す。

「……お前、客じゃなくて研修生みたいだな」

隣で蓮見が笑いを堪えながら呟くと、風早は肩をすくめて「だってすごいんだもん」と子供みたいな顔をした。

澪はそのやり取りを見て小さく笑い、「なんか、カザランさんってこういう時すごく素直ですね」と言った。

その素直さが、場の空気を柔らかくしていた。

「お前…めっちゃシャワー浴びてすぐ出てきた感あるな」

髪が濡れてるから、蓮見にバレる九条。

「ああ」

乾かす時間がなく、タオルで適当に拭いて出てきただけだった。

それでも、カザランが綺麗にカットして、澪が日頃口うるさく言いながらトリートメントしてるおかげで、それなりに綺麗に整っていた。

「まあ…濡れてても形崩れてないのがムカつくわ」

蓮見が苦笑混じりに言うと、隣の風早が即座に乗ってくる。

「そうそう。私がいくらカットしても、普段の手入れサボったらこうはならないからね」

澪は澪で、パンをちぎりながら横から口を挟む。

「だからちゃんとトリートメントしろって、いつも言ってるの」

「……お前ら、今それをここで言う必要があるか?」

九条はフォークを手にしながら低く返すが、誰も止まらない。

「だって事実だし」「褒めてるんですよ」と、蓮見と風早と澪がそれぞれの角度から畳みかける。

結果、シェフズテーブルの一角は、妙に美容室のカウンセリングみたいな空気になっていた。

ウェイターが銀色のトレイに乗せて運んできたビーフウェリントンは、黄金色のパイが美しく輝いていた。

テーブルに置かれ、ナイフが入ると、サクッという音のあとに、肉の赤がちらりと覗く。

「……わぁ〜〜…」

澪は、まるで宝石箱でも開けたような目をしていた。

フォークで一口切り取り、口に運ぶと、外のパイの香ばしさと、中心の柔らかな赤身肉の旨味が一度に広がる。

「美味しそうって思ってたけど…本当に美味しい…」

夢中で食べながら、つい声が漏れる。

向かいの蓮見が笑いながら、

「そういう顔してると、ほんと子どもみたいだな」

と茶化すと、澪はパイを口に入れたまま頬を膨らませて抗議の目を向けた。

九条はそんなやりとりを横目に、静かにナイフを入れながらも、澪の皿に肉を一切れそっと追加していた。

澪は、切り分けられたビーフウェリントンを一口頬張り、目を輝かせた。

外のパイは香ばしく、赤身肉は驚くほど柔らかい。

「……おいし〜……」

つい頬が緩んだその瞬間、ガラス越しに視線を感じる。

顔を上げると、厨房の中で大きな鍋をかき混ぜていたシェフが、こちらを見てにこにこしていた。

「えっ…あ、見られてた…」

澪が小さく身を縮めると、シェフは手を軽く振り、そのまままた調理に戻っていく。

横でそれを見ていた蓮見が笑う。

「よっぽど美味しそうに食べてたんだな。作った人冥利に尽きる顔だったぞ」

九条は何も言わず、皿に残っていた肉を一切れ切り分けて置いた。

「……もっと食え」

許可なく触るな

厨房を眺めていた澪の横から、風早がすっと顔を覗き込んだ。

「……ねえ、ちょっと伸びてますね」

「え?」

「髪。切らせてよ」

狙っていた獲物を見つけた時のような目をしている。

日頃はチーム九条の男ばかり相手にしている彼女にとって、澪の髪は数少ない“女性用のキャンバス”だ。

「ずっと九条さんにだけ触られてるの、もったいないな〜」と冗談めかして言いながらも、その指先はもう毛先を確かめるように軽く触れている。

九条が無言でグラスを置いた音が、やけに重く響いた。

「え、良いんですか? 日本に戻ってから休みの日に美容院行こうと思ってたんですけど…」

澪が少し驚いたように目を瞬かせる。

「切るだけなら道具あるから、ホテルの部屋でもできるよ」

風早はにやっと笑う。

「今シャワー浴びてまとめただけでしょ」

「あ、バレてますか?」

澪が苦笑する。毛先を指で持ち上げられ、わずかに絡まった部分を器用にほどかれる。

「……俺の許可なく触るな」

低い声が横から飛んできて、澪も風早も同時に振り返る。

「え、髪切るだけですよ?」

風早が肩をすくめる。

「関係ない。俺の女に手を出すな」

九条の視線は冗談ではなかった。

澪は困ったように笑って、

「えー…じゃあ、九条さんが切ってくれるんですか?」

とからかう。

「……それは無理だ」

即答する九条に、風早はふっと笑って

「はい。じゃあ私が切ります。伸ばしっぱなしにできないんだから。はい決定」

風早が一方的に宣言すると、澪は少し戸惑って口を開く。

「あ、じゃあお金お支払いします…」

「いいよいいよ。契約料もらってるから。それに、こっちから切りたいって言ったんだし」

手をひらひら振って笑う風早。

澪は「でも…」と言いかけるが、横から九条が口を挟む。

「払う必要はない。こいつは仕事でここにいる」

「そうそう。しかも、毎日男の髪ばっか切ってるから、久しぶりに女の子の髪触りたいのよ」

風早が嬉しそうに澪の髪を指先でつまみ、「うん、いい手触り」と満足げに頷く。

澪は苦笑しながらも、どこか楽しそうに髪を任せることにウキウキしていた。

「男の髪ばっかりで悪かったな!」と蓮見が突っ込む。

「そんな事言って、お前氷川とか宙の髪で遊んでんじゃねえか」

「氷川さんは常識の範囲内だし、宙は遠征にいないから、たまにしか遊べないし」

風早がしれっと言い返す。

「宙?さんって誰?」

澪が九条に尋ねた。

「チームのIT担当だ。日本に住んでる。リモートで仕事してるから、遠征には同行しない」

「そうなんだ。おしゃれさんなの?」

すかさず風早が答えた。

「ぜんっぜん!!むしろ何もしない!いっつも伸ばしっぱなし。でも素材は良いし、何でもやらせてくれるから、別人に変身させて遊んでる」

「別人って、そんなに?」

「動画で素人変身させる企画もの見たことある?あんな感じになる」

風早が笑いながら言うと、蓮見が肩を揺らして笑う。

「宙の変身前後はマジで別人だぞ。初めて見た時、警備の藤代が“どちら様ですか”って真顔で聞いたからな」

「えー!そんなに?」

澪は興味津々で身を乗り出す。

「うん、あのときの藤代さん、たぶん本気でわかんなかった。ID見せろって言ってたもん」

風早はいたずらっぽく笑い、九条の方を見やった。

九条は澪の髪を見て、短く言う。

「宙より変化は少ないはずだ。お前は元が整ってる」

澪は頬を染め、「そういうこと言わないでください…」と小声で返した。

「写真あるよ。見る?ビフォーアフター動画にしてネットに載せてやろうかと思って撮ってあんの」

風早が澪にスマホの写真を見せてあげる。

「これビフォー」

黒髪で、ボサボサとした髪の少年が写っていた。

「え、この子若くない?」

成人しているとは思えないほど、幼い雰囲気だった。

顔はほとんど見えないほど前髪が長いが、肌は白く輪郭が整っている。

「今22とかだったっけ?ねえ九条さん」

「そうだな」

「…いつからチームにいるの?」

「知り合った時は19だったな」

「わっか!」

澪が思わず声を上げると、風早が次の写真をスワイプした。

「で、これがアフター」

そこには、同じ人物とは思えないほど洗練された青年が写っていた。髪は軽くカラーが入り、顔周りはすっきりとカット。前髪が上げられていて、整った目鼻立ちがはっきりと見える。

「え……同じ人?」

澪が写真とスマホ画面を交互に見比べる。

「ほら、輪郭もきれいだし肌もきれいでしょ?あとは服も替えた。こっちの世界に引っ張り上げたって感じ」

風早が満足げに説明する。

「宙、変身させた当日、家帰ったら親に二度見されたって言ってたぞ」

蓮見が笑いながら補足した。

九条は興味なさそうに澪の方を見て、「お前のも、やればもっと変わるだろうな」とだけ言った。

「変えて良いんだったら変えるけど、職業柄あんまりやったら駄目だよね?」

澪がヨット販売の営業職なのはチーム内で知れ渡っている。

「あ、はい。仕事中は後ろで結んだりまとめたりしてるので、あんまり短くもしたくなくて。いつも整える程度で。あとはトリートメントとかケアしてます」

「カラーは駄目なの?」

風早が尋ねると、九条が素早く

「駄目だ」

「なんで九条さんが答えるの」

「髪が傷む」

「ちゃんとケアするよ」

「もともと綺麗なものを無駄に変える必要が無い」

「うーわ、女の子が髪染めるの嫌がるとか童貞っぽいわー」

風早が容赦なく言った一言で睨み付ける九条。

「……言いたい放題だな」

低く呟く九条に、風早は全く怯まない。

「だってほんとにそうじゃん。女の子って髪色変えるだけで気分上がるんだよ?」

「必要ない」

「はいはい、“自然が一番”ね。ま、彼女さんがやりたいって言ったら私が染めるけど」

澪は苦笑しながら、「でもほんとに営業中は髪で印象変わっちゃうから……」と話を軌道修正した。

「そうそう。だからトーンも上げず、艶を保って整えるくらいにしとくのが安全」

風早があっさり折れる。

「お前、急に真面目になるな」

蓮見が笑うと、

「仕事の話だからねー。遊びじゃないんだから」

と風早がウィンクして、再び澪の髪をじっと観察した。

「氷川さん、フライトって何時?」

「全員の準備が整い次第になりますが、早くとも夕方以降を予定しています」

「あ、じゃあ焦らなくていいね。部屋でカットしましょ。ついでにちょっと巻いてみます?」

「え、男性の髪しかやらないのに、アイロン持ってるんですか?」

「うん。アイロンは趣味用だから」

風早は意味ありげににっこり笑った。

「……趣味用?」

澪が首をかしげると、風早は片目を細めて悪戯っぽく笑う。

「コスプレ撮影の時とかね。衣装に合わせてウィッグも巻くし、アイロンは必需品なの」

「なるほど…」

澪は納得したように頷くが、横で九条がじっと風早を見ている。

「お前、その“趣味”で余計なことはするなよ」

「しませんって。…あ、でも少しだけ彼女さん可愛くしちゃうかも」

「……」

九条の目がさらに鋭くなったのを、澪は笑ってごまかした。

「メイクもやる?やっちゃう?」

「メイクまでしてもらって良いんですか?」

「やめろ」

また九条が止めにかかる。

「だーかーらー、なんで九条さんが答えるの」

「お前がやると”趣味”が前面に出る」

「そりゃー出ますよ!!せっかくの女の子素材なのに!!」

「素材と言ったな」

「女の子という年齢じゃないです…」

澪が遠慮がちに言う。

「いやいや、十分“女の子”でしょ」

風早がすぐさま言い返す。

「九条さん、これ以上綺麗になられたら困るとか思ってるんじゃないの?」

「……困る」

即答する九条。

「素直だなぁ〜。でも大丈夫、私のメイクは“映える”けど下品にならないから」

「お前の趣味が入る時点で信用できない」

「趣味とプロ意識は別です!いや一緒か?」

「……」

九条の視線がさらに鋭くなり、澪は思わず笑ってしまう。

「もう、ケンカしないでください…」

「大丈夫!さすがにメイクに2時間とかかけないから!!」

「何が大丈夫だ」

「メイクに2時間って、何やるんですか?」

「コスプレ用のメイクだとそれ以上かかったりする」

「コスプレ用?」

澪が首を傾げる。

「ウィッグ合わせてカラコン入れて、ベースから作り込んで…衣装とのバランス見ながら何回も直すから、2時間なんて普通普通」

「普通じゃない」九条が即否定する。

「いやいや、世界観の再現は命なんですよ? 下地の色からちゃんと寄せるの。あ、澪さんもやります?」

「やらない」またも九条が被せる。

「……」

澪は笑いを堪えながら、九条と風早の間をきょろきょろ見比べた。

「お前、なぜそんなに執着する」

九条が睨む。

「だってこの人達全然遊ばせてくれないんですもん。髪の毛ピンクの理学療法士がいたって良いじゃん」

「駄目だろ」

早瀬が聞いてないようで、しっかり聞いている。

「氷川さんは染めれるけど、突飛な色はさせてくれないし」

「私は九条のマネージャーとしてメディアの前に出ることもありますので」

「その九条さんにいたっては長さや色が固定されてるし!!」

「そういう契約を結んでる」

「というわけで、澪さんは格好の餌食…じゃなかった素材なんです」

「今“餌食”って言いましたよね?」

澪がじとっと見上げる。

「言ってない」風早は平然とした顔で誤魔化す。

「言った」九条が即答。

「ちょっと黙っててもらえます?」

「私、長さも色もそんなに変えられないし、そこまで餌食になれないけどな…」

「じゅーーーぶんなれます!!メイクで顔が変わる素材!私にはわかる!!」

「……そう、ですか?」澪は少し引き気味に笑う。

「そう!というわけで食べたら部屋に戻りましょう!道具持って伺いますね!!」

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URB製作室

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