96.離れていても、歩む一日

早い出発

 翌朝、まだ空の色が白み始める頃。

 九条はホテルのロビーに姿を現した。

 手にはラケットバッグひとつ。荷物は最小限、歩みは無駄なく速い。

 待っていた氷川と短く頷きを交わす。

 「スケジュール通りに進行中です」

 「わかった」

 それ以上の言葉は必要ない。

 車に乗り込み、窓の外を流れるドバイの街を無言で見つめる。

 観光客の喧噪も、朝の渋滞も、すべて遠い世界のようだった。

 彼の意識はすでに会場へ、試合へと研ぎ澄まされている。

 アビエーション・クラブ・テニスセンター。

 正門をくぐれば、警備のチェック、報道陣の視線、観客のざわめき――

 それらすべてを受け流し、真っ直ぐにロッカールームへと向かう。

 今日は、勝つためだけの一日。

 余分な感情も、言葉もない。

 ただコートに立ち、戦うために。

無言のルーティーン

 ロッカールームの空気は、外の喧騒と切り離された別世界だった。

 エアコンの低い唸りと、時折響くシャワーの音。

 九条は定位置に腰を下ろし、無言でシューズの紐を締め直す。

 手順は毎回同じ。

 左から結び、結び目の硬さを確かめ、わずかに深呼吸。

 ボトルの水を一口含み、喉を潤す。

 それだけで体も心も「いつもの状態」に向かっていく。

 隣のロッカーでは他選手の気配がある。笑い声、音楽、軽口――

 だが九条は耳に入れない。

 必要なのは外の雑音ではなく、自分の呼吸と鼓動のリズムを掴むこと。

 タオルで汗を拭いながら、手のひらを静かに開閉する。

 指先の感覚、グリップの記憶、ラケットの重み。

 一つひとつを確認するように。

 ――整った。

 あとはコートに立ち、ただ淡々と勝つだけ。

2回戦開始

 夕暮れのドバイ。センターコートの照明が一斉に点り、熱気を含んだ空気の中で二回戦が始まった。

 観客の視線が一斉にコートに集まる。選手入場のアナウンスに合わせて現れた九条の表情は、澪が知る柔らかさとはまるで別物だった。

 打球音だけが乾いた夜空に響く。

 ラリーが始まれば、九条は必要以上に走らない。最短距離でボールを処理し、相手が動くより先に角度を突き刺す。

 観客席のどよめきも、声援も、彼の耳には届いていない。

 ――合理的で、冷酷。

 ゲームを支配するのに感情はいらない。勝つための最短ルートだけを選び続ける。

「Too easy…(簡単すぎる…)」

「Is this even fair?(これ試合って言えるの?)」

 英語の声があちこちから漏れる。

 観客が盛り上がる隙さえ与えないテンポの速さに、会場全体が戸惑っていた。

 ベンチに戻ったときでさえ、九条は水を一口飲むだけ。タオルで汗を拭く仕草すら最小限で、すぐに視線をコートへ戻す。

 ――セットカウント 6-2、6-1。

 試合はわずか一時間足らずで終わった。

控え室の雑談

試合を終えた九条がシャワーに行っている間、控え室で蓮見、氷川、志水の3人が集まっていた。

 「九条本人は観客に何言われようが全く気にしてないが……彼女の方は初戦の様子を見るに、周りの声を気にするタイプだな」

 蓮見が腕を組みながら、ちらりと観客席の方を思い浮かべるように言った。

 氷川も淡々と続ける。

「人に迷惑をかけないように気を配る性格のようですからね。SNSに触れないようにしているのも、自分の疲れやすい性格を理解しているのでしょう」

 志水が短く補足する。

「九条の悪口や批判を見れば、真っ先に傷付くのは彼女の方だろうな」

 「なるべくネットの情報は見ない方が良いでしょうね」

 氷川の言葉には、マネージャーとしての現実的な忠告と、ほんの少しの心配が滲んでいた。

 「……にしても、なんであんな面倒な男好きなんだろうな」

 緊張感の漂う空気に、不意に放り込まれた軽口。

 氷川は書類から目を離さず、淡々と返す。

 「本人に直接訊いたらいいんじゃないですか?」

 「はは、そんなもんバレたら怖えよ」

 蓮見は笑いながらも、シャワー室にまだいるであろう九条の方をチラリと見た。

 「二人とも似てるんじゃないですか? 根っこの部分が」

 志水がさらりと口にすると、蓮見は片眉を上げた。

 「……似てるか?」

 首を傾げたところに、氷川が遮るように言葉を差し込む。

 「似てますよ。自分のペースを崩されるのを嫌うところと、静けさを好むところが」

 「ああ、なるほど」

蓮見の家庭

 志水がふっと笑って、面白そうに蓮見へ視線を向けた。

 「蓮見さんだって、奥さんに面倒だと思われてるんじゃないですか?」

 「俺ほぼ家にいねーもん。金送ってるだけよ」

 肩を竦める蓮見に、志水がさらに突っ込む。

 「奥さん、何も言ってこないんですか?」

 「つっても物理的に近くにいねーからな。……だから“困ったことは金の力で解決してくれー”って、多めに送ってる」

 あっけらかんとした言い方に、氷川は呆れたように小さく息をついた。

 「ま、うちの場合は奥さんの実家近いし、今は家事代行とかベビーシッターとか、自動家事家電もフル動員して何とかやってるわ」

 蓮見が軽く笑って言うと、志水が淡々と問い返す。

 「奥さんから不満とか出ます?」

 「んー……あるのかもしれんけど、とくに何も。ルンバが壊れたから新しいの買っていい?とかそんなんよ」

 「なんて返すんですか?」

 「ルンバとブラーバをAmazonでぽちーよ」

 即答に、志水が思わず吹き出した。氷川は呆れ顔のまま、何も言わずにタブレットへ視線を戻す。

 「……やっぱり金の力ですね」

 冷静なオチに、蓮見は「まあな」と肩をすくめる。

 氷川はタブレットから視線を上げ、淡々と呟いた。

 「恐らく九条さんとは真逆の家庭像ですね」

 「はっ。あいつ結婚なんかするか? 最も似合わない言葉と言っても過言じゃないぞ」

 「まあ、本人は全く望んでなさそうです。今は」

 志水が補足すると、三人の間に苦笑が広がった。

 「あいつが結婚するなんて言った日には、俺泣くかもしれん」

 ケラケラと楽しそうに笑う声は冗談めいているが、どこか本気のようにも聞こえる。

 「お父さんですもんね。役割的に」

 「息子にしてはでけーよ、あいつ。俺いくつよ」

 再びケラケラと笑う蓮見に、氷川は肩をすくめるしかなかった。

 「本人がいないところで勝手なことを言うな」

 濡れた髪をタオルで拭きながら、九条がいつの間にか立っていた。

 さっきまでゆるんでいた空気が一瞬で張り詰め、三人は気まずそうに口を閉ざす。

Hōseki

 「…じゃあ次の打ち合わせがてら、飯でも行くか!」

 蓮見が空気を変えるべく、明るく提案する。

 「必要ない」

 即答する九条。声には一片の迷いもない。

 「必要ある! 行くぞ!」

 譲る気配のない蓮見に、志水と氷川が思わず顔を見合わせる。

 結局、このやり取りがいつもの「チーム九条」の風景なのだと、三人は内心で苦笑していた。

 「レオンの食事がある」

 抵抗するように口を開いた九条に、蓮見は胸を張って答える。

 「心配すんな! 今日は外で食べるって伝えてある!つーか事前に予約済み!」

 あっけらかんとした声に、九条は深くため息をついた。

 「………お前は本当にコーチなのか……」

 ぼやき半分に呟くと、蓮見は満面の笑みで親指を立てる。

 「おう! 世界一のコーチよ!!」

 呆れを通り越した視線を浴びながらも、蓮見の勢いに押され、九条は結局薄手のジャケットを羽織った。

 「打ち合わせ」という名目のもと、渋々ながらも外へ足を運ぶ。

 黒塗りの車がブルガリ・リゾート・ドバイのエントランスに滑り込む。

 九条、蓮見、志水、氷川の4人が降り立つと、ホテルスタッフが静かに先導し、寿司処「Hōseki」へと案内した。

 小さな入口で靴を脱ぎ、畳敷きの前室を抜ける。

「……徹底してますね」

 志水が低く呟く。

「世界で一番高い寿司だってよ」

 蓮見はニヤリと笑いながら手を拭き、九条は黙って手を清める。

個室の障子が開かれると、窓一面にドバイの夜景が広がった。煌めく高層ビル群を背に、白木のカウンターと漆黒の器が静謐な光を放っている。

氷川が事前に手配していた20時30分からのディナー予約。完全予約制のこの店では、準備を怠れば席にすら着けない。

寿司は一貫ずつ、宝石のように美しく差し出される。

 誰も余計な言葉を発さない。ただ、蓮見が短く戦術を述べ、志水がデータを補い、氷川が進行を整理する。声は自然と抑えられ、職人の所作に溶け込むように淡々と交わされていった。

「……九条さん、この環境なら集中も乱れませんね」

 氷川の苦笑まじりの一言に、九条はただ無言で頷く。

「ここなら落ち着いて飯食えるだろ」

 胸を張る蓮見に、九条は短く答えた。

「……悪くない」

 志水は黙々と寿司を口に運び、「……美味い」とだけ言う。

 氷川はその様子を見て、かすかに笑んだ。

「九条さんには、これくらい静かな環境が似合いますね」

続々と集まる

 外は煌めく高層ビル群、内は凛とした静けさ。会話も必要最小限に抑えられ、打ち合わせは寿司の一貫ごとに区切られるように進んでいった。

 寿司がひと通り出揃った頃、控えめに襖が開き、遅れてレオンが姿を見せた。

「ごめん、待たせた?」

 腰を下ろして手を拭いてから、ひと口目の寿司を頬張って目を丸くする。

「……なにこれ、うますぎ。やばい、これだけでドバイ来た甲斐あったかも!」

 静けさの中に笑いが広がり、張り詰めていた空気がふっと緩む。

 九条は無言のまま、それでも微かに口元を動かした。

 職人が次の一貫を差し出した時、襖が再び開いた。

「遅れてすまない」

 白衣姿を脱ぎスーツに着替えた神崎が入ってくる。その後ろから、無表情のまま「……間に合いました」とだけ言う早瀬、さらにカジュアルな服で軽やかに手を振るカザランが続く。

「うわ、豪華メンバー。個室広くて良かったね」

 カザランが席に着くなり茶目っ気たっぷりに言えば、早瀬が淡々と「……会食はリハビリの一環でもありますから」と返す。

「そうそう、栄養も取らないとね~」とカザランが勝手に同調して笑うと、神崎が苦笑混じりに「あなたが一番楽しんでいませんか」と突っ込む。

 寿司に向かって沈黙していた空気が一気に賑やかになる。

蓮見が「やっぱりこうでないとな」と肩を揺らし、志水は小さくため息をつきながらも表情を緩めていた。

九条は相変わらず黙して箸を取り、ただ一言。

「……静かに食え」

これも打ち合わせ

職人が差し出す中トロを口に運んだあと、志水が淡々と口を開く。

「今日の動きは省エネでした。消耗が少なく、明日以降に良い影響が出るでしょう」

「だが次の相手は守備型だ。ラリーが長くなる分、配分を誤れば逆に体力を奪われる」蓮見がメモを閉じる。

氷川はタブレットを見せながら静かに言う。

「相手はサーブの確率が高いですが、バックに偏りがあります。ここを突くのが有効です」

九条は短く頷くだけで、次の貫を口にした。

言葉少なめでも、視線と沈黙の合間に意図は伝わる。

――寿司の一貫ごとに、次の戦いへの準備が進んでいった。

良コンディションの選手

「今回の大会で、調子が良い奴いるか?」

蓮見が寿司を口に運びながら、氷川に視線を送った。

「その言い方だと、調子乗ってる人みたいだよ」

横からレオンが突っ込みを入れる。彼も寿司をつまみつつ、柔らかい口調で場を和ませている。

「お前達、食事しながら喋り過ぎだ」

九条だけは姿勢を崩さず、一貫一貫を丁寧に口へ運んでいた。箸の動きも無駄がない。

「打ち合わせなんだから仕方ないだろ。お前喋らないで聞いてるだけだからだよ」

蓮見が笑い混じりに返す。

寿司の香りとともに、戦略の話題が自然に卓上を流れていく。

氷川がタブレットを操作しながら抑揚の薄い声で言った。

「ギリシャのアレクシオ・ドロスが今大会、非常に良いプレーをしています。最新データと試合映像はAirDropで共有します」

志水は淡々と画面を確認しながら、「リターンの深さが安定している。片手バックなのに崩れにくいですね」と分析を添える。

神崎医師は短く「ただこの選手も、波はある。コンディション次第では急に崩れる可能性もある」と言葉を足した。

「名前からして強そう〜」とカザランが茶化し、わずかに張り詰めた空気を緩めた。

九条は黙ったまま、共有されたデータをインプットするように無言で見つめていた。

蓮見が箸を置き、真顔で言った。

「クレーが得意なのに、ハードの大会で調子がいいのは厄介かもな。今シーズン、クレーにも出てくるぞ」

志水が頷く。

「片手バックで高い打点を処理できるのは強みです。ラリーも粘る。九条さんの省エネ型のプレーとは真逆です」

氷川がタブレットを操作しながら補足する。

「ただ精神的に波がある選手でもあります。今は好調ですが、ムラもある。そこを突けるかどうかですね」

一同が黙り込み、静かに頷く。

蓮見が箸を置き、寿司を見下ろしながら呟く。

「片手バックで、あれだけ角度つけられるのはやっかいだな」

志水が頷き、冷静に続ける。

「九条さんの体力消耗が少ないのは良い傾向ですが、彼も粘るので長期戦になると危険です」

氷川がタブレットを開き、映像を示しながら言う。

「過去の試合では、ドロスは長期戦になると集中が切れる瞬間があります。そこを逃さないことが重要です」

神崎医師が短く補足する。

「相手も崩れるが、こちらも無茶をすれば今シーズン全体での負担が大きくなる。特にこの時期に疲労が蓄積すれば、残りのシーズンに響く」

九条が背筋を伸ばし、寿司の皿を端に避けながら淡々と告げた。

「神崎は心配しすぎだ。そんなに柔じゃない」

蓮見がすかさず口を挟む。

「うちのドクターは心配性だからな〜」

すると神崎が、ため息まじりに淡々と返す。

「主にあなた達二人のせいでこうなったんですよ…」

蓮見が「え、俺?」ととぼけると、隣の志水が小声で「心当たりはあるでしょう」と冷静に追撃。

九条は無言で茶を口に含み、場の空気はふっと和らいだ。

一日の終わり

食事を終え、静かなホテルの一室に戻る。

氷川から共有されたアレクシオ・ドロスの映像とデータをタブレットで確認し、淡々と必要な部分に目を走らせる。余計な感情は挟まない。ただ相手の癖と傾向を切り取るだけの作業。

シャワーを浴びた後は、志水の指示通りにストレッチを入念に行う。筋肉の張りを確かめ、深呼吸で呼吸を整える。

ベッドに横たわると、枕元のiPhoneの画面に目をやった。

そこに並ぶ二つの時計。ひとつはドバイ、もうひとつは日本。

日本はもう深夜を指している。――澪も、もう眠っているだろう。

その表示を一瞬だけ見つめ、余計な思考を断ち切るように目を閉じた。

次に必要なのは休息。意識を切り替え、眠りへと落ちていった。

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URB製作室

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