メルボルン。南半球の夏は、日本の冬と反比例するように容赦なく熱を孕んでいた。
空は青いのではなく、「透けている」ような薄さだった。雲ひとつないその空から、強烈な光がコートを白く焦がしていた。
空気は乾いて軽く、皮膚の表面に火照るような痛みを残す。
それでも、メルボルン・パークには朝から人が集まり、芝生エリアには陽気な声とビールの香りが漂っていた。
風が抜けるたび、ユーカリの甘く鋭い香りが微かに鼻をかすめる。
英語だけでなく、スペイン語、フランス語、中国語、様々な言語が飛び交い、
観客席には国旗と歓声と、熱狂が波のように広がっていく。
その中で、ただ一人、冷たい氷のような男が歩いていた。
起動する王(全豪オープン開幕前)
空港の自動ドアが開いた瞬間、カメラのフラッシュが一斉に弾けた。だが、それは彼の目には届いていなかった。
九条雅臣の視界に映るものは、必要最低限の輪郭だけ。色はすでに意味を持たない。騒がしさも雑音でしかない。世界は沈黙している。
「九条選手、今年の目標は?」
「年間グランドスラム制覇への意気込みをお願いします!」
記者たちの声が押し寄せる。
だが彼は、止まらない。
「必要なことは、試合で話す」
一言だけ投げ捨てるように答え、機械的に空港ロビーを歩き出した。
傍らには氷川尚登。
手配された車のドアを開けながら、Slackに次の通知を送信する。
【Team K】
到着。会話は最小限。メディア反応、想定どおり。
チームはその投稿だけで、九条の今の“状態”を理解する。
TVはつけない。
スマホは通知を切ってある。
Slackは開かない。
朝、澪にだけはメールを送った。
それだけが、九条にとって必要な“接続”だった。
あとは、試合まで、何も入れない。
指先に伝わる血流。
呼吸のリズム。
足裏の重みと、風の感触。
外界を遮断したこの身体は、今、最適化されていく。
メルボルンの太陽の下。
王は、起動を終えた。