4.メルボルンの朝 ― 世界の空気の中で

メルボルン。南半球の夏は、日本の冬と反比例するように容赦なく熱を孕んでいた。

空は青いのではなく、「透けている」ような薄さだった。雲ひとつないその空から、強烈な光がコートを白く焦がしていた。
空気は乾いて軽く、皮膚の表面に火照るような痛みを残す。
それでも、メルボルン・パークには朝から人が集まり、芝生エリアには陽気な声とビールの香りが漂っていた。

風が抜けるたび、ユーカリの甘く鋭い香りが微かに鼻をかすめる。
英語だけでなく、スペイン語、フランス語、中国語、様々な言語が飛び交い、
観客席には国旗と歓声と、熱狂が波のように広がっていく。

その中で、ただ一人、冷たい氷のような男が歩いていた。

起動する王(全豪オープン開幕前)

空港の自動ドアが開いた瞬間、カメラのフラッシュが一斉に弾けた。だが、それは彼の目には届いていなかった。

九条雅臣の視界に映るものは、必要最低限の輪郭だけ。色はすでに意味を持たない。騒がしさも雑音でしかない。世界は沈黙している。

「九条選手、今年の目標は?」

「年間グランドスラム制覇への意気込みをお願いします!」

記者たちの声が押し寄せる。

だが彼は、止まらない。

「必要なことは、試合で話す」

一言だけ投げ捨てるように答え、機械的に空港ロビーを歩き出した。

傍らには氷川尚登。

手配された車のドアを開けながら、Slackに次の通知を送信する。

【Team K】

到着。会話は最小限。メディア反応、想定どおり。

チームはその投稿だけで、九条の今の“状態”を理解する。

TVはつけない。

スマホは通知を切ってある。

Slackは開かない。

朝、澪にだけはメールを送った。

それだけが、九条にとって必要な“接続”だった。

あとは、試合まで、何も入れない。

指先に伝わる血流。

呼吸のリズム。

足裏の重みと、風の感触。

外界を遮断したこの身体は、今、最適化されていく。

メルボルンの太陽の下。

王は、起動を終えた。

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URB製作室