拍手も歓声もない時間
第3セットの開始を告げるアナウンスにも、観客はもう反応しなかった。
それは期待が失われたわけではなく、“終わりを受け入れる静けさ”だった。
試合は続いている。だが、心のどこかで誰もが知っていた。
ここから先は、九条雅臣による“完了処理”なのだと。
第1ポイント。
サーブ。返球。スライス。
全てが淡々としたリズムで繋がっていく。
時雨の打球は悪くない。
だが、“悪くない”だけでは通用しない領域の試合だった。
九条が一歩も動かず、球を流し込むようにコースを変える。
——15-0。
第2ポイント。
静けさの中、時雨が踏み込む。
だが九条の球は、わずかに重かった。
押し返したつもりが、わずかに押し返されていた。
4球目で球足が乱れ、時雨のスイングが先に崩れる。
——30-0。
第3ポイント。
観客の視線が定まり、会場が再び“無音”に包まれていく。
それは“静けさ”ではなく、“操作されている沈黙”だった。
九条のスライスが、淡く沈む。
時雨の反応は間に合ったが、ラインオーバー。
——40-0。
第4ポイント。
もう誰も、点数を数えていない。
それは試合というより、“完了していく映像”のようだった。
サーブ。リターン。
ラリーは4球で終わる。
Game, Kujo.
スコア、1–0。
拍手は起きなかった。
歓声もない。
でも、その“反応のなさ”こそが、九条雅臣という選手の“特異点”だった。
“人間の形をした何か”との戦い
ラリーが始まった瞬間、時雨は違和感を覚えた。
速さの問題じゃない。正確さでもない。
——“ここにいるのに、存在感がない”。
まるで、何か別の次元からこの空間にアクセスしている存在と対峙しているようだった。
第1ポイント。
九条のスライスが深く沈む。
だが、回転を読んで打点を下げれば返せる。
時雨は落ち着いて処理し、ベースライン際へ返球。
だがその球が、次の瞬間には逆サイドの角度で返ってきていた。
反応が遅れたわけじゃない。
“遅らせられた”のだ。
——15-0。
第2ポイント。
時雨はコースを読みに行く。
九条のプレーには癖がない。
だからこそ、「演算の中に入り込む」しかない。
だが、次の球を打とうとした瞬間、
自分の中の「打点の感覚」だけが、空振りしていた。
スイングは完了していた。
でも、球がそこに“来なかった”。
——30-0。
第3ポイント。
観客の中に、少しずつ沈黙が戻ってくる。
熱ではない。
畏れでもない。
「これは、戦いではない」と、誰もが悟り始めていた。
九条の動きに“闘争”の匂いがない。
ただ淡々と、“処理された結果”だけが積み重ねられていく。
スピン。スライス。
角度。予測。対応。
10球目、時雨の球がネットをかすめて止まる。
——40-0。
第4ポイント。
もはや反撃ではなく、観測だった。
どこに打てばいい?
どこなら届く?
どうすれば“人間に対する答え”になるのか?
だが、その問いは、
すでに“相手が人間だった場合”にしか意味を持たない。
九条の一打が、静かに終わらせた。
Game, Kujo.
スコア、2–0。
時雨は、“人間と戦っていない”感覚を、初めて言語化できそうになっていた。
最後のエラーまで計算通り
九条が2ゲーム連取した段階で、
“このままストレートで終わる”と予測する声が、観客の中にも広がり始めていた。
けれど、その瞬間——
時雨悠人は、まだ諦めていなかった。
第1ポイント。
時雨が先に仕掛ける。
フォアの逆クロス。
角度のあるスピン。
九条は追いつく。
ただ、ラケットの面がわずかに浮く。
その球は浅く返り、ネットにかかる。
——15-0。
第2ポイント。
観客が少しざわめいた。
九条にミスが出た、というよりも、“意図しない返球”が出たことへの驚きだった。
ラリーが続く。
だが、時雨は焦らない。
エラーを取りにいかない。
ただ、延命するようにボールを繋ぎ、
“ブレイクではなく、生存”を目的にプレーする。
7球目、九条の球がわずかにアウト。
——30-0。
第3ポイント。
九条の表情は変わらない。
変わらないからこそ、次の球がどこに飛ぶかが“わからない”。
だが時雨は動いた。
打点の読みも、足の運びも、タイミングも全てが“間に合った”。
そして、打った。
決して強くはないが、確かに“打ち返した”ボール。
ベースライン際に沈む。
——40-0。
第4ポイント。
このゲームには“勝ちにいく”意思ではなく、
“まだここにいる”という証明が込められていた。
観客もそれを知っていた。
拍手も歓声もなかったが、空気が“応援”に変わっていた。
九条のサーブ。
時雨、先に読んで構える。
リターンが沈む。
九条、わずかに打点を下げ損ね、球が浮く。
強打——ではなく、ただ“通す”ように打たれたフォア。
Game, Shigure.
スコア、2–1。
これは反撃ではない。
でも、明らかに“まだ生きている”プレイヤーの意思があった。
壊されない者、壊す者
時雨が1ゲームを取り返しても、
九条の中では、何も変化が起きていなかった。
むしろ、“予定されたノイズ”が処理されたような静けさだけが、コートに残った。
第1ポイント。
九条のサーブ。
いつもと同じ。だが、スピン量がわずかに強い。
リターンは浮き気味。
九条は振り抜かない。
ただ、球を「正しい位置」に置くように押し込む。
——15-0。
第2ポイント。
時雨は、動いていた。
どれだけ正確な処理が続いても、彼はまだ“崩れない”。
打点を合わせ、足を止めず、打ち返す。
だが、九条のスイングには“打とう”という意志がない。
“終わらせる”という処理があるだけだった。
6球目。
時雨の打球がネットをかすめ、落ちる。
——30-0。
第3ポイント。
誰も、どちらに流れが傾いているかを言葉にしようとはしなかった。
ただ、“流れではなく、構造”が勝敗を決めていることに気づいていた。
九条は変わらない。
変わらないまま、変化を強制する。
スライス、ロブ、角度。
ラリーのテンポだけで、時雨の体力がじわじわと削られていく。
10球目。
体勢を崩しながら放たれた返球がアウト。
——40-0。
第4ポイント。
時雨は、まだ立っている。
表情も、姿勢も、崩れていない。
壊されていない。
だが、それはこの試合において、“勝利に近い状態”ではなかった。
ラリー。
4球目で終わった。
Game, Kujo.
スコア、3–1。
九条は“壊そうとしていない”。
でも、彼の前では、すべてが崩れていく。
それでも足は止まらない
3セット目に入っても、九条のプレーに変化はなかった。
変わらないのではなく、「変える必要がなかった」のだ。
それでも——
時雨の足は、まだ止まっていなかった。
第1ポイント。
九条のサーブ、センターへ。
リターンは甘くなる。
通常であれば、決めにいくタイミング。
だが九条は“決めにいかない”。
ただ、“終わらせる。”
押し込むだけのストローク。
ラインぎりぎり。
——15-0。
第2ポイント。
時雨の返球は、意志がこもっていた。
それは攻撃ではない。
ただ、“ここにいる”ことを証明するための打球。
だが、コートの論理はそれを許さなかった。
3球目、球足が浮く。
九条は踏み込まず、コントロールだけで処理する。
——30-0。
第3ポイント。
時雨が先に仕掛けた。
ショートクロス。角度のあるボール。
観客が少し息を飲む。
だが、九条はすでにそこにいた。
スライスで受け流し、リズムを奪う。
時雨は体を切り返して食らいつく。
それでも届かない。
——40-0。
第4ポイント。
“どうすればこの流れを変えられるのか?”
その問いに、答えはない。
だが、それでも足は止まらない。
リターン、ラリー。
時雨は最後まで粘る。
9球目、足を滑らせながらも打ったボールが、わずかにアウト。
Game, Kujo.
スコア、4–1。
誰かが囁いた。
「逃げなかったな」
それだけが、
このゲームで起きた、最も人間らしい出来事だった。
セットポイント:“終わる”ではなく“完了する”
この試合が、まもなく終わることは誰の目にも明らかだった。
だが、それは“試合の終わり”ではない。
処理の完了。
それだけだった。
第1ポイント。
サーブ。返球。
動作は滑らかで、破綻がない。
だが、九条の返球には“もう少しも揺るがない精度”が宿っていた。
時雨のリターンがわずかに甘くなる。
その一瞬を逃さず、ベースライン際へ沈める。
——15-0。
第2ポイント。
観客は、もはや息を呑まない。
“そうなる”ことを知っていたから。
九条のラリーは速くない。
力も込めていない。
だが、終わらせるための構造だけが完成されている。
5球目。
角度を変えて終わらせる。
——30-0。
第3ポイント。
時雨が1歩深く踏み込む。
気持ちではなく、意志だった。
だが、処理は止まらない。
九条は、最適解だけをなぞっていた。
打球、動線、時間配分。
そのすべてが“あらかじめ定められた進行”だった。
——40-0。
セットポイント。
第4ポイント。
観客席で誰かがつぶやいた。
「……終わる、じゃなくて、完了するんだな」
まさにそれだった。
ラリー、4球目。
時雨の返球が沈みすぎる。
ネットにかかる。
Game, Kujo.
スコア、5–1。
九条は、“ここまでの進行”を、予定どおりに完了させただけだった。
冷たい光、終息のサイン
九条の“完了処理”は、もはや誰にも止められないとわかっていた。
それでも——
時雨悠人の足は、止まらなかった。
それは勝利のためではなく、“立ち続けるため”のプレーだった。
第1ポイント。
サーブ。
やや高めのトス。
強くはないが、球足が沈む。
九条のリターン、打点がほんのわずかに遅れる。
ボールはラインを割った。
——15-0。
第2ポイント。
観客が気づく。
時雨が、いま“もう一度だけ火を灯している”ことを。
それは感情ではなく、静かな反抗だった。
ラリーが続く。
6球目、時雨が逆クロスへ押し込む。
九条が追いきれず、スライスがネットにかかる。
——30-0。
第3ポイント。
時雨のサーブ。
いつもと同じモーション。
だが、それを打ち返そうとした九条の目が、
ほんの一瞬、少しだけ慎重になった。
リターンが浮く。
時雨は、叩かない。
押し込まない。
ただ“運ぶ”。
——40-0。
第4ポイント。
トリプルゲームポイント。
九条の構えは変わらない。
だが、時雨の目は逸らさなかった。
たとえ終わるとしても、自分は“見た”のだ。
この相手を。
この静けさを。
この強さを。
サーブ。リターン。
3球目で終わった。
Game, Shigure.
スコア、5–2。
拍手は起きなかった。
だが、会場のどこかに、うっすらと光が灯った気がした。
それは勝利ではなかった。
でも、終息の中に残された“生”の証だった。
知ってしまった後悔
ーー日本 関東にて。
少し残業をした退勤後、外は雨だった。
あまりの寒さに、帰り道の途中にあるカフェにふらっと立ち寄った。
普段はまっすぐ帰るから入らないお店だけど、今日は仕事も忙しかったし、お腹も空いたしでフラフラだった。
節約と健康のために自炊するところを、ちょっとだけ贅沢して、食べて帰ろうと思った。
この店は、オーナーの趣味なのかわからないけど、テニスの中継が無音で流れていた。
席について、とりあえず早く出てきそうな暖かい料理と飲み物を注文する。
料理が来るのを待ってる間、ふとテニス中継の画面を見た。
テニスなんて興味はない、はずなのに。何か既視感を覚えた。
見たことがない男性2人が、戦っている。
片方の男性、同じ人間の動きとは思えないほど、速い。
なのに、最小の動きだけで、そこにいるみたいだった。
数秒先の未来が見えるのか?と感じるほど、先を読んだ動き方をしてる。
速いのに、彼の周りだけ空気が止まっているように見えた。
二人とも、同じ時間を闘っているはずなのに、片方の男性だけ、人間の温度や熱を感じない。
その姿に、視線が惹き込まれた。
画面の下の方に名前が書かれていた。
日本人同士の対決。
アルファベットの名前、強い覚えがある綴り。
「KUJO」
いや、単なる同姓かもしれない。
でも、確かめずにはいられなかった。
彼が、最後のiMessageで送ってくれた、漢字の名前。
「九条 雅臣」
まさかな、と思いながら検索した。
そうしたら、検索結果に思った以上の件数がヒットした。
プロテニスプレーヤー、九条 雅臣。
世界ランク上位の選手。
読み方は「くじょう まさおみ」で間違いないようだ。
なぜアルファベットの名前表記が違うのかも書いてあった。海外では「MASAOMI」と言う綴りが読みにくく、よく読み間違えられていたので、選手としての登録名を変えて大会に出ているのではないか?と言う誰かの考察が。
お店のテレビからは音が出ていない。
動画を探したら、インタビュー動画があった。
小さい音で、本体に耳を近付ける。
英語の、声が聞こえた。
これで声が違ったら、やっぱりって思って終わったのに。
その声は、2年間何度も通話した相手の声そのものだった。
ずっと知りたかったはずなのに、知ってはいけないことを知ってしまったような気がした。
知らなければ、こんなに上下の立場の違いを感じなくて済んだのに。
でも、知ってしまった。
彼は私が思うよりも、ずっと高いところにいる人だった。
それでも、彼との関係が終わってほしくない、縁が切れてほしくないと思ってしまう自分がいた。
空腹を忘れ、テニスの中継画面を、ずっと見ていた。
The End: 無音の対話
観客席の空気は、すでに動いていなかった。
会場にいる誰もが、この1ゲームで終わると知っていた。
だがそれでも、
ほんの一握りの人だけが、“この瞬間を、記憶しよう”と目を凝らしていた。
そして、画面越しの場所にいた澪も——
その1人だった。
第1ポイント。
九条のサーブ。
静かすぎる弾道。
時雨のリターンは深く入るが、最初から“受け止められる場所”に誘導されていた。
3球目、九条がコースを変える。
返球は出ない。
——15-0。
第2ポイント。
時雨が強く打ち込む。
それは、まだ終わらせないという意思だった。
だが、九条は何も変えない。
打ち返す軌道も、ラケットの角度も。
“いつものように終わらせる”
その意志だけで、完璧なクロス。
——30-0。
第3ポイント。
ラリーは長かった。
だが、そのすべてが“終わるまでの時間稼ぎ”のようでもあった。
時雨は逃げない。
最後まで、何一つ省略せず、向かっていく。
9球目。
九条が沈めた球に、時雨がスライディングで返球。
だが、アウト。
——40-0。
トリプルマッチポイント。
第4ポイント。
澪は、画面の中の九条を見ていた。
その顔に、何の表情もなかった。
でも、
「言葉じゃないやり取りが、ここにはある」と、確かに思った。
サーブ。
リターン。
ラリー。
交差。
処理。
終了。
スコア:6–3 / 6–4 / 6–2。
誰も、何も言わなかった。
拍手も遅れた。
歓声もなかった。
ただ、終わったことが、伝わった。
ネット際。
九条は一歩進む。
時雨もまた、一歩進む。
握手は交わす。
でも、目線は合わない。
それでも、
その手と手の間に、“交わされた意思”だけは、確かに残った。
それだけで、この試合は、完了した。
心拍・体温とも平常。異常なし。記録継続中。
セレモニー待機中。インタビュー回避予定。
最後まで、“届かせよう”としてた。
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