ロッカー室の中は、乾いた空気に包まれていた。
拍手も、音楽もない。ただ、水の落ちる音が聞こえる。
テイラー・リバースは、壁に背を預けていた。
ラケットバッグはまだ開いたまま。着替えにも手をつけていない。
「……やっぱ速ぇよ、あの人」
誰にでもない言葉が、かすかに落ちる。
スタッフが、そっと水を置く。
「ありがとう」
それだけ言って、テイラーは一口だけ飲んだ。
ラケットの破片が、まだ床に転がっていた。
試合中、感情の爆発で叩きつけた一本。
けれど彼は、それを見ても顔を歪めなかった。
ただ、タオルで顔を覆って、深く、静かに息を吐いた。
⸻
通路の照明はやや暗く、足元だけがやけに明るい。
背中に汗が残る。
彼の手にはまだ、さっきまで使っていたラケットがあった。
テイラー・リバースは、
そのラケットを——まるで「何かを確かめるように」——ずっと握りしめていた。
左手のひらには、グリップテープの編み目がはっきりと刻まれている。
握りすぎて、少し皮膚が浮いていた。
「……負けたな」
ようやく言葉になったのは、控室前の廊下だった。
誰に向けた言葉でもない。
ただ、自分の中で認める必要があった。
けれど——
顔は、下を向いていなかった。
⸻
「彼、立ってたよな。最後まで。膝、折れなかったよな」
「声、出してたよな。ずっと」
「テイラー、マジでいい試合したって」
会場から帰っていく観客たちの、
そんな声が、出口の方から少しずつ聞こえてきた。
九条の勝利は、演算として完結した。
だが、
テイラーの敗北は、物語になった。
⸻
廊下の奥、カーテンの影から誰かが近づいてくる気配がした。
「……テイラー」
静かな声だった。
コーチでもスタッフでもない。
もっと若い声。
振り返ると、ユースチームの後輩だった。
今大会は帯同していないはずの少年が、目を潤ませて立っていた。
「……観てた。ずっと」
テイラーは何も言わなかった。
ただ、ラケットを左手から右手に持ち替える。
握った跡の残る手のひらを、ゆっくり開いた。
赤くなった皮膚に、
何も刻まれていないように見えて——
でも、彼自身には、ちゃんと“形”が残っていた。
「……まだ、終わってないから」
それだけ言って、肩を軽く叩く。
少年は、一瞬きょとんとした顔で、
そのまま何も言わずに小さくうなずいた。
——そのラケットは、ただの道具じゃなかった。
彼がまだ、“手放していないもの”だった。
⸻
観客の声援が、またどこかで聞こえた。
でも、それはもうコートの中の話じゃなかった。
テイラー・リバースは、静かに、でも確かに歩き出す。
物語は終わっていない。
この夜が、その証拠になった。
――
「なあ……泣いたか?」
「泣いてねえよ」
ユニフォームの肩口で顔をぬぐったスタッフが、鼻を鳴らす。
通路の先で、まだ息が整わないテイラーがラケットを握っているのが見えた。
「……あの九条相手に、ここまでやれるって思ってた?」
「……思ってねえ。でも、信じてた」
「結果は負けでも、見せたものは——」
「勝ってたよ、あいつは」
静かに、その言葉を口にしたスタッフの目が、少しだけ潤んでいた。
――
ロッカー前、静まり返った空気の中。
スタッフの一人が、無言でタオルを差し出した。
テイラーはそれを受け取り、汗も拭かずに、じっと立っている。
目線の先には、閉じたドア。
その向こうには、たったいま試合を終えた九条の控室。
声はかけない。
何も言うべき言葉がなかった。
「……なあ、ほんとに機械みたいだったか?」
後ろから、コーチがぽつりと呟いた。
テイラーは、首を横に振る。
「……違う。途中、一瞬だけ——感じた」
「何を?」
「……人間ってのは、もっと、壊れるもんだろ?」
そしてテイラーは、やっと小さく笑った。
「あれは人間だった。たぶん、俺とは、別の種だけどな」
誰も返事をしなかった。
その代わりに、誰もがテイラーの背中を見ていた。
敗者の背中ではなく、“最後まで走った者の背中”として。