いざ、アフタヌーンティー
元の服に着替えた九条が、澪に小さく声をかける。
「……終わったな。約束通り、行くぞ」
「うん!」
澪の顔がぱっと明るくなる。
「アフタヌーンティー!楽しみ!」
それを聞いていた蓮見が、さりげなく近づいてきた。
「ねぇ、俺は?」
「お前は予約に入ってない」
即答。
「いやいや、九条が言えば何とかなるんじゃね?
世界ランク1位の特権ってやつでさ」
「……」
九条はわずかに眉を動かしただけで、口調は冷静だった。
「ただでさえ、一週間前の連絡で“特別枠”として一般客とは別に受け入れられてる。
その上に人数を増やしてたまるか」
蓮見は口を尖らせて言った。
「……お前、そういうとこは常識人だよなー」
九条は無言でコートを羽織りながら、さらりと返す。
「特別扱いを受けるには、まず“誰かの時間を奪っている”ことを知っていなければならない」
「…………かっこいいこと言いやがって」
「当然の話だ」
蓮見はふぅとため息をついて、背を向けた。
「……くそ、俺もスコーン食いたかった」
「自分で予約しろ」
「無理。スコーンより九条が食べてるとこ見たかった」
「変態か」
九条が肩をすくめると、澪は小さく笑って彼の腕に手を添えた。
「じゃ、行こ?」
「ああ」
アフタヌーンティーの会場「Thames Foyer」へ向かう途中、
九条と澪は、絨毯の上をゆっくり歩いていた。
白い柱と金の装飾、静かに差し込む自然光。
ラグジュアリーな空間なのに、どこか“日常”のような空気が流れるのは、
隣にいる彼が変わったからなのか、彼女自身が変わったのか。
澪は、ふと立ち止まりそうになりながら口を開いた。
「ねぇ……私、雅臣さんの練習とかトレーニング、邪魔してない?」
「……」
「なんか、予定めちゃくちゃ狂わせてる気がして……ほら、仮縫いとかアフタヌーンティーとか……」
九条は歩みを止めず、少しだけ声を低めた。
「本当に守らなければならないスケジュールは、守っている」
「……ドバイの大会?」
「そうだ。あれは“出場義務を果たす”ための大会だ。
優勝を取りに行く大会ではない」
「……そんな事言いながら、適当に戦う気なんかないでしょ?」
澪の言葉に、九条は少しだけ口角を上げた。
「当たり前だ。相手にも、失礼だからな」
澪はその言葉に、少し安堵したように息をついた。
「ただし――」
九条は、ガラスに映る澪の姿を横目で見ながら続けた。
「真剣に戦うが、故障に繋がらない程度に、だ。
試す場であって、燃え尽きる場ではない。目的を履き違えなければ問題ない」
澪は、軽く頷いた。
「……そっか。
じゃあ……私と一緒にいる時間が、“無駄”になってないなら、よかった」
九条は応えなかったが、
その背中からはほんの少しだけ、緩んだ空気が伝わってきた。
Thames Foyer
ホテルのロビーを抜けた先、ガラス天井から柔らかな自然光が差し込む円形の空間。
まるで美術館のように静かで、どこか格式張った空気の中――
「……わ、ここ、想像してたよりずっと……」
ゆったりとした絨毯を踏みしめ、エントランスの奥へ進む。
そこには、天井がすべてガラス張りの、まるで宮殿の中庭のような空間が広がっていた。
中央には繊細なガゼボ。
周囲を囲むのは、アールデコ調の家具と白を基調としたエレガントなソファ。
グランドピアノの上品な音色が、静かに空間を包んでいた。
澪は、思わず息をのんだ。
「……綺麗……」
自然光がやわらかく降り注ぎ、天井から注がれるその光が
九条のシルエットを、まるで誰かが意図的に“際立たせている”かのように浮かび上がらせる。
その瞬間――空気が、変わった。
周囲の席に座っていた客たちの視線が、次々とこちらに向く。
視線は直接ではない。
けれど、ナプキンを直すふり、紅茶を注ぐ手の動き、声のトーン……
すべてが一瞬、微かに変わった。
「……見られてるよ?」
小さな声で澪がささやくと、九条は何の感情も見せずに言った。
「視線を向けるのは自由だ。撮らなければ問題ない」
「でも、なんか……美術館の展示物みたいに見られてるよ、雅臣さん」
「展示物にしては、ずいぶんと勝手に歩き回るな」
「それ言うなら、“動く彫像”でしょ」
「上等な石で作られていれば、悪くない比喩だ」
「……テニスプレーヤーの九条雅臣だって、バレたのかな?」
背筋を伸ばして歩く九条は、一瞬だけ目線を周囲に滑らせ、淡々と返す。
「さあな。声を掛けてこなければ、どちらでもいい」
澪は微笑んだ。
「イギリスの人って、こういうとこ、みんな紳士だよね。
知らないフリしてくれるっていうか、無遠慮な騒ぎ方しない。
……日本人なら、盗撮してるよ。たぶんもうSNSに上がってる」
九条はその言葉に、わずかに眉を動かすだけだった。
口元には、皮肉にも似た小さな笑み。
「“マナー”と“モラル”は似て非なるものだ。それを混同している国もあるというだけの話だ」
「うわ、名言出た……」と澪が笑い、
九条は淡々とナプキンを膝に置いた。
「俺が気にするのは、撮られることではない。“お前”が巻き込まれるかどうか、だけだ」
その一言に、澪は目を瞬かせて――
ほんの少しだけ、背筋を伸ばした。
「……私は、大丈夫だよ」
「大丈夫かどうかは、俺が決める」
軽く受け流すその余裕。
でも、澪の手を引く指には、わずかに力がこもっていた。
──自分だけは、触れていい。
その感覚が、心を静かに満たしていく。
席へ案内されると、ウェッジウッドのティーセットが上品に並べられていた。
予約済みの名が記されたカードの横に、控えめに花が添えられている。
澪は、ゆっくりと席に腰を下ろしながら言った。
「……来てよかった。なんか、映画みたい」
九条は答えなかったが、代わりに紅茶を選ぶリストを澪に手渡した。
白いクロスが敷かれた丸テーブル。
シャンデリアの光が反射するウェッジウッドのティーセット。
その中央に、控えめながらも洗練された3段のケーキスタンドが置かれていた。
メニューを開くと、30種類以上の紅茶がずらり。
澪はリストに目を落としながら、ふと呟いた。
「……30種類って、罠でしょこれ」
「決められないなら、最初は定番を選べ」
「わかってるけどさ……この中に“運命の紅茶”があるかもしれないって思うとさ……」
九条は小さくため息をつき、近くにいたスタッフを軽く呼び止め、英語で話しかけた。
「この中で、アッサムの茶葉が一番しっかり出るものは?」
「‘Assam Doomur Dullung’がおすすめです。コクと芳醇な甘みがあり、スコーンとの相性も抜群です」
「それで」
「わ、早っ……」
「迷う時間より、飲む時間を増やせ」
「もうちょっと悩ませてよ……あ、でも美味しそう……」
紅茶が注がれると、澪の前に置かれたティーカップから、ふんわりと立ち上る香り。
「……うわ、香りだけでも美味しい……」
そっと口をつける。
「……え、なにこれ……めっちゃ美味しい……」
まるで、ふわっとした絨毯に倒れ込んだみたいな、優しい渋み。
どこまでも深く、温かい。
その隣では、九条が無言で紅茶を口に運び、スコーンに手を伸ばす。
「……ちょっと! 先に食べないで!」
「食べ物だ。冷める前に食うのが常識だろう」
「そりゃそうだけど……一緒に“いただきます”しようよ!」
「わかった」
淡々と応じてから、九条が静かに手を止める。
澪はスコーンにナイフを入れる。
「……サクッて音、聞こえた……」
中はふわふわで、クロテッドクリームがすっと溶けていく。
「いただきます」
ひとくち。
「……うまっっ」
その顔を見て、九条の口角が少しだけ、ほんの少しだけ動いた。
「……美味いか」
「やばい。世界変わる。ロンドン来てよかった。生きててよかった……」
「紅茶一杯とスコーンで人生語るな」
「人生はスコーンに詰まってるの。知らなかった?」
「知らなかった」
テーブルには、きゅうり&ミント、ハム&チャツネ、スモークサーモンなどのフィンガーサンドイッチが並ぶ。
そして最上段――
エグゼクティブ・パティシエの手によるアートのようなペストリーたち。
澪はフォークを手にしながら、ふと九条を見る。
「……ねえ、こんなに可愛いお菓子前にして黙々と食べるの、ちょっと照れない?」
「照れない。食べ物だ」
「ロマンの欠片もないなこの人」
けれど。
紅茶を注ぐ仕草、カップを口に運ぶ動作、
スコーンを割る手の筋に至るまで、すべてが美しかった。
「……ねえ。今のあなた見て、思ったんだけど」
「なんだ」
「もし燕尾服着たままここでアフタヌーンティーしてたら、完全に“英国の闇オークションの主催者”みたいだった」
「…どういう偏見だ」
「燕尾服着てるけど、絶対背後に執事とメイドが控えてるやつ」
「じゃあお前は闇オークションの落札者だな」
「わー、なに落札するんだろ〜」
「食べ物しか興味がなさそうだな」
「闇オークションの食べ物って何よ」
「…それか、永遠に美しくいられる薬」
「……永遠に美しくいられる薬、かあ。ちょっと魅力的だけど、不老不死に興味ないんだよね」
紅茶を一口すする。
少し甘く、少し渋い。
今この瞬間が、きっと人生の“どこか特別な1ページ”として残るのだろうと、澪はふと思う。
「……なんかさ」
「ん?」
「この空間ごと、閉じ込めて持って帰りたくなるね」
「なら写真でも撮っておけ」
「違うの。カメラに映らないやつ」
「……」
「あなたがスコーン食べるとこ、私のために椅子引いてくれるとこ、黙って紅茶を注いでくれるとこ……」
「それは、写真には映らないな」
澪は微笑んだ。
「そう。だから覚えておきたいの。ちゃんと、自分の中に」
たった今、彼と過ごしているこの時間は、
“有名ホテルの贅沢”じゃなく――
「この人が、私の隣にいる」ことそのものが贅沢なのだと、澪は理解していた。
だからこそ、もっと知りたくなる。
この先、何度こうして同じ紅茶を飲んでも、
今のこの瞬間は、もう二度と訪れないのだと。
そして、ふと気づいた。
自分が今日ずっと、「この人に選ばれた」という実感を、
何度も何度も心の中で確かめていたことに。
「……今日、来られてよかった」
「また来たければ、言えばいい」
「うん。でも、“初めて”って、やっぱり特別だから」
笑ったその表情に、九条がわずかに目を細めた。
「忘れなくていい。今日のお前は、よく笑ってる」
「それ……褒めてるの?」
「当然だ」
まるで、“記録のように刻んでいる”眼差しで。
目の前の彼が、澪のすべてを覚えておこうとしてくれている――
そう感じた時、胸の奥がほんの少しだけ、熱くなる。
糖分は落とすもの
スイートのドアが静かに閉まり、クラシカルな重厚音が後ろで響いた。
「……はぁ〜、満腹」
澪がぽすんとソファに腰を下ろす。
テーブルの上には、まだ渡しそびれたスコーンが小さな紙袋に入ったまま置かれていた。
九条は一歩も無駄のない動きで、ジャケットを脱ぎ、ハンガーにかけている。
白いシャツの袖をまくりながら、何気なく時計を確認した。
「糖分を落としてくる」
「え? そんなに甘いもの食べてなかったよ?」
「控えたつもりだが、お前のクッキーの分もある」
「……あ、そうでした」
澪はちょっと笑って、指先で頬をかく。
まさか自分の手作りクッキーが“糖分として処理”されるとは思わなかった。
「じゃあ、落としてきてください。……えっと、3階だっけ?」
「確認しておいた。ジムは24時間、プールは今はまだ開いてる時間だが……」
ふ、と視線を逸らして言う。
「浮かない」
「えっ?」
「筋肉が多すぎて、水に」
「……そこ?」
澪は笑いを堪えるように唇を噛んでから、ふいに言う。
「私、浮くよ?」
「知ってる」
即答。
「………えっ、なんで知ってるの?」
「見れば分かる」
何が、とは言わない。そのくせ目線が絶妙に顔に戻ってこない。
澪はクッションをつかんで、軽く投げてやった。
「行ってらっしゃい!」
九条は無言のままクッションを受け止めて、ポケットにルームキーを滑り込ませた。
「ていうか、クッキーもしかして全部食べたの?」
「ああ」
「いつの間に…」
「いつの間にかなくなった。次回はもっと量を作れ」
「…あ、はい」
(完全に命令形だし。気を使って少なめにしたんだけど?ていうか、味の感想は…?)
“いつの間にかなくなった”というのが、遠回しの“美味しかった”という意味なのは理解した。
暇
九条がジムへ行って数分。
スイートルームは急に静まり返った。静かな男だが、いなければいないで空間が静まり返る。
空調の音だけが淡々と流れ、重厚なカーテン越しに差し込む午後の光が、白いラウンジチェアの影を静かに伸ばしている。
(……シーン、って感じ)
澪は自分の足音さえ遠慮がちに聞こえる気がして、クッションに身を沈めながら、小さくつぶやいた。
「私も……スチームルーム行こうかな」
ぽつりと出た言葉は、誰にも返されることなく、天井に吸い込まれていく。
「ジムは……興味ないけど」
むしろジムという言葉にすら威圧感を感じる。
あれはストイックで意識高い人たちの聖域で、澪のような一般人がふらっと入っていい場所ではない気がしてしまう。
でも――スチームルームなら。
ただ座って、じんわり汗をかくだけ。
身体の芯が温まる感じが好きだし、何より、「自分も何かしてる感」がある。美容にも良い。
九条と違って、自分は何かを“極める”タイプじゃない。
だけど、少しだけでも、同じ時間に、同じ場所で。
ほんの少し、近づけた気がするだけでいい。
(よし、行こ)
そう決めて、澪は立ち上がった。
スチームルーム
バスローブの前を押さえながら、澪は6階のスイートルームの扉をそっと閉めた。
(……本当にこの格好で出ていいの?)
スタッフから「スパエリアまではバスローブでどうぞ」と言われたけど、どうしても“高級ホテルの廊下をバスローブ姿で歩く”という状況に慣れない。
特に今日は、アフタヌーンティー帰りの綺麗な服を脱いだ後だったから、余計にギャップが気になる。
エレベーターホールまでの短い廊下を歩きながら、ちらりと後ろを振り返る。誰もいない。
(お願い、誰にも会いませんように……)
祈るような気持ちでエレベーターのボタンを押すと、わずかに遅れて“チン”という音が返ってくる。
扉が開く――誰もいない。
(よっしゃ……!)
こっそり心の中でガッツポーズを決めて、素早く中に乗り込む。
エレベーターの前に立った澪は、少しだけ深呼吸をした。
(バスローブでエレベーター乗るの、やっぱ落ち着かない……)
目の前のパネルには、「G」「1」「2」「3」「4」。
日本と違って、「G(Ground)」が地上階らしい。
(ってことは、スチームルームのある“3階”は……日本で言う4階? ややこし……)
恐る恐る「3」を押す。
(っていうか、途中で誰か乗ってきたらどうしよう……ドレス姿の人とかいたら気まずすぎる……)
床の絨毯のふわふわした感触すら、妙に頼りなく感じる。
ぴん、と軽い音がして、エレベーターが動き始めた。
誰も乗ってきませんように、と密かに祈りながら――
ホテルの表示には 「Fitness & Wellness Floor」 と書かれていて、ほのかにハーブのような香りが漂っていた。
(ほんとに……すごいホテルだな)
自分にはちょっと場違いな気すらするけれど――
今は九条もこのホテルに滞在していて、自分もその隣にいる。
だから少しだけ、背伸びしてもいい気がした。
4階に着くと、エレベーターを出てすぐに静かな廊下が続いていた。壁には控えめな案内プレートがあり、**「Steam Room」「Pool」「Gym」**の文字が並んでいる。
(わ、ほんとにバスローブの人いる……)
同じような恰好の年配の外国人女性がスパから出てきて、澪に軽く微笑んでくれた。
澪も小さく会釈を返す。
なんだか、それだけでちょっと安心した。
厚めのカーペットが敷かれた廊下。間接照明のやわらかな光に包まれて、空間はラグジュアリーなのに、どこか神聖な空気すら漂っている。
澪はバスローブの裾をそっと握り、スリッパの音が響かないように足を運ぶ。すぐ先に見える「Steam Room」のプレートを見つけると、早足になった。
「失礼します……」
小声で呟きながら、誰もいないのを確認し、そそくさと中へ。
扉をそっと開けると、内側からゆっくりと白い蒸気が流れ出した。
スチームルームの中は、ほの暗い照明に包まれていた。壁面はクラシカルなモザイクタイルで縁取られ、エドワーディアン調の意匠が控えめに施されている。シルバーの金属枠やアールデコ調の幾何学模様が、モダンさと伝統の狭間で絶妙なバランスを保っていた。
(……わぁ、なんか、まるで“隠された宝石箱”みたい)
そんな言葉がふと脳裏をよぎる。
空間は思ったよりもコンパクトで、2人も入ればいっぱいになりそうなサイズ。それでも決して窮屈さはなく、むしろ静かに籠るにはちょうど良い。
壁に埋め込まれたスチームの噴出口からは、絶えず湿った熱気が立ち上り、肌にやさしくまとわりつく。ペンハリガンの香りがほのかに混ざっていて、呼吸するたび、鼻腔の奥がほんのり甘くなる。
(ここなら……誰にも会わずに済むかも)
澪は壁際の温められたベンチにそっと腰を下ろし、タオルを膝にかける。しばらく目を閉じていると、いつの間にか肩の力が抜けていた。
外の世界が、ぼやけて遠のいていく。
白い湯気に包まれた室内は、まるで別世界だった。
タイルの床も、壁も、ぬるく温まっていて、澪はゆっくりと腰を下ろす。
ひと息ついた瞬間、全身からふわっと汗がにじみ出すような感覚。
スチームの白い靄が、澪のまつ毛にまでうっすらと触れる。
「……はぁ、あったか……」
誰もいないスチームルームの中、澪はタオルを肩にかけたまま、背中をそっと壁に預ける。湿度の高い空気が肺の奥まで染みこんで、呼吸をするだけでじわじわと全身が温まっていくのが分かる。
(冷え、取れてきたかも……)
ここ数日、気を張り詰めていたせいか、肩も背中も無意識に力が入っていた。蒸気の中にじっと座っているだけなのに、筋肉が溶けていくような解放感がある。
血の巡りが良くなるというのは、こういうことかもしれない。
(あ、ちょっと汗……)
首筋を伝う汗を手で拭いながら、澪はふと思う。
「毛穴が開いて、汚れが落ちやすくなる」とか、「代謝が上がって老廃物が出る」とか、雑誌やネットで見た美容効果が、今まさに自分の体で起きているかもしれないと思うと、少し嬉しくなる。
(これで肌も整って、むくみも取れて、ストレスも飛んで……)
夢のようなフルコースだ。
日常じゃ絶対に味わえない贅沢。
これが「世界トップアスリートの世界」か……と、ぼんやり思う。
(いや、私はアスリートじゃないし、そもそもジムには一歩も踏み入れてないけど)
思わず自分にツッコミを入れて、ふっと笑いそうになる。
けれどこの静けさ、この温かさ、この包まれる感じ――
心の奥の緊張まで、蒸気と一緒にほどけていくようで、澪はもう少しだけこの空間に身を預けることにした。
噂話
“I’m pretty sure that was him. The Japanese tennis guy. What’s his name… Kujoh or something?”
(たぶんあれ彼だったと思う。あの日本のテニス選手。名前なんだっけ……クジョウとか?)
思わず耳を澄ませる。
“Yeah, I saw him by the gym entrance earlier. He’s… like, intense. Definitely doesn’t look like he’s here on vacation.”
(うん、さっきジムの入口で見かけたよ。なんか…すごいストイックな感じ。休暇って雰囲気じゃなかった)
“That girl’s probably a girlfriend, right?”
(たぶん、あの子が彼女でしょ?)
“No way. He’s way out of her league. Did you see her? She looked like a kid in a bathrobe.”
(あり得ないって。彼、あの子にはもったいなさすぎるよ。見た?バスローブ着た子どもみたいだったじゃん)
(……)
一瞬、足が止まる。
廊下の先、スパのソファスペースでバスローブ姿の女性二人が談笑している。
悪気なく、ただの噂話のように。
でも、言葉の意味は――全部、わかってしまう。
(……聞こえてないふりすればいい。わかってないふりも、できる)
けれど耳は勝手に反応してしまう。
澪はそのまま、視線を逸らして歩き出す。
何も言わず、何も返さず、まっすぐに。
(私は彼の“girlfriend”なのか。っていうか、見た目だけで何を言ってるんだか)
バスローブの裾を少しだけ握る力が強くなる。
湿った髪の先から水滴がぽとりと床に落ちた。
(子供っぽく見えて、すいませんね)
心の中でだけ、舌打ちを添えて呟く。
皮肉でもなく、皮肉にすらならないくらい淡々とした悪態。
怒りというより、呆れに近い感情が喉元にひっかかっている。
スチームルームを出たあとの通路は静まり返っていて、誰とも目を合わせないまま、澪はシャワールームにたどり着く。
無言で扉を閉めて、バスローブを脱ぎ、タオルを壁に掛ける。
ボタンに触れると、すぐにぬるま湯が滑らかに流れ出した。
(どうせあの人たちだって、スッピンでロビー出ろって言われたら同じ顔してんだろ)
シャンプーを手に取りながら、そんなことを思う自分がまた少し惨めで、でも負けたくない気持ちも確かにある。
泡立てた髪を指の腹で擦りながら、耳をシャワーの音に預ける。
水音にかき消される思考。
シャワーの熱で視界がぼやける。
それでも、涙じゃない。これはただの湯気と汗と――洗い流すべきもの。
(どう見られても、あの人が選んだのは私だってこと、ちゃんと私がわかってればいい)
そう言い聞かせるように、黙々と身体を洗う。
バスローブにくっついていた他人の言葉を、ひとつずつ、シャワーで削ぎ落としていくように。
(いや待て、逆に考えるんだ)
シャワーの音にまぎれて、脳内で反論する。
(子供に見えるってことは、私が老けてないってこと。うん。きっとそう)
無理やり明るく持ち直そうとしたその理屈に、自分で小さく吹き出しそうになる。
なんて必死なんだろう、私。
心配
スチームルームを出て、澪は濡れた髪を後ろでひとつにまとめる。
顔は火照ったまま、バスローブの襟元をきゅっと直し、そそくさと廊下に出た。
(もう髪は部屋で乾かす。気分悪い)
さっきスチームルーム近くで聞こえてきた会話のせいで、機嫌はやや下降気味。
なるべく誰とも会いたくなくて、足早に角を曲がろうとした、そのとき――
正面から、黒い影が歩いてきた。
「……あ」
お互いに、同じタイミングで足を止める。
九条だった。
ラフなTシャツとパンツスタイル。髪は濡れたまま軽くタオルで押さえた形跡があり、首筋にかけてほんのり汗ばみ、火照った肌が覗いている。
「……お前、その格好でうろついてるのか」
「うん。だって、バスローブで移動していいって言われたもん」
澪はそっけなく言いながら通り過ぎようとするが、九条はその場から動かない。
「そういう問題じゃない」
「なんでよ。マナー違反じゃないでしょ?子供扱いしないでよ」
言いながら、澪はふいっと視線を逸らした。
「……何を怒ってる」
「……別に」
「ちゃんと話せ」
「……私はあなたと釣り合わないくらい子供っぽいんだってさ。外国のお姉さん方に噂されたの。スチームルームの前で聞こえちゃった」
九条は少しだけ目を細めて、溜息をついた。
「本当に子供っぽいなら、俺はこんなに神経すり減らさない」
「……は?」
「バスローブ一枚で、下着もつけずに、シャワー帰りの火照った顔で廊下を歩き回る女のことなんて、気にしなくて済む。……俺の女じゃなければな」
その声音は、いつになく冷静で、苛立ちを押し殺したようでもあった。
澪は立ち止まったまま、ぽつりと問いかける。
「……心配してくれてるの?」
九条はわずかに眉を寄せたまま、視線を逸らさずに答える。
「当たり前だ」
エレベーターのボタンを押しながら、むすっとした声が続く。
「何かの拍子に胸元がはだけたりしたらと思うと、気が気じゃない」
その言葉に、澪の火照った頬がさらに赤くなる。
九条はエレベーターの扉をちらりと確認しつつ、低く短く言い添えた。
「人に会う前に部屋に戻る」
命令口調ではないけれど、反論の余地がない言い方。
風呂上がりスタイル。濡れた髪の2人が並んでエレベーターに乗る。
無言のまま閉じる扉の中、やけに静かな密室が、澪の心臓の音を浮き彫りにする。エレベーターの中、静かな密室に2人きり。
濡れた髪から滴る水をタオルで拭きながら、澪がぽつりとこぼす。
「……私、そんなに子供っぽいかな……」
九条はわずかに視線を落とすと、低く返す。
「日本人は幼く見えるだけだ。日本で子供に間違えられたことはないだろ」
「ないけど……」
タオルをぎゅっと握ったまま、澪が口をとがらせる。
九条はほんの少しだけ間を置いてから言った。
「……本当に子供体型なら、こんなに心配しなくて済む」
「えー、じゃあ子供体型だったら好きになってた?」
問いかける声には、半分ふざけてるようで、でも少しだけ本気が混ざってる。
九条は無言のまま視線を前に戻し、数秒の沈黙のあと、低く答える。
「……それを俺に答えさせてどうしたいんだ」
「ううん。喜びたいだけ」
まっすぐに言うその言葉に、九条は目を細めて、やれやれといったように深くため息をついた。
「チーン」と静かにエレベーターの到着音が響いた。
ドアが開いても、九条はしばらく動かないまま澪を見下ろしていた。
「……言わせておいて、素直に喜ぶのか」
澪は濡れた髪をタオルで押さえながら、照れたように笑う。
「喜ぶよ、だって好きな人だもん」
九条は軽くため息をついたあと、額に指を伸ばして、ぽん、と優しく小突いた。
「なら、バスローブの中身を迂闊に人に見せないことだ」
声に冗談の調子はない。
ただの嫉妬や独占欲ではない、本気の警戒。
澪が口を開きかけて、思わず言葉を飲み込んだ。
――彼女だからって大袈裟に言ってるわけじゃない。
九条は知っている。
澪の身体が、“ただ幼く見えるだけじゃない”ことを。
彼の目は、澪が気付かない間にも、何度もその輪郭を正確に捉えていた。
乾かすの手伝って
部屋に戻って、バスローブの前をぎゅっと結び直した澪は、ベッドに座った九条の隣にすとんと腰を下ろした。
「髪、乾かすの手伝って」
素直な声で言うと、九条は無言のままタオルを手に取って、澪の背後にまわる。
「あっ、ありがと」
濡れた髪を優しく持ち上げ、根元から丁寧に押さえるように拭いてくれる手つきが、なんだかくすぐったい。
――あんなこと言ってくれたんだ。
心配してくれてたし。
ちゃんと、好きって……うん、言ってたよね、あれ。
「むふふふふ……」
思わず漏れた声に、背後の手がぴたりと止まる。
「……何がおかしい」
「べつにー。ふふっ」
タオル越しに、笑いを押し殺す澪の背中を九条がじっと見つめていた。
「……全く。怒ったり喜んだり、忙しいな」
ため息混じりに言いながらも、九条の手はちゃんと最後まで丁寧に髪を乾かしてくれる。
「むふふふふ」
澪はタオルの下で目を細めて、頬をゆるませた。
「……もう少しで乾く」
「うん。ありがとう、雅臣さん」
ふいに名前を呼ばれて、九条の指が一瞬だけ止まる。
でも何も言わずにまた動き出す。
その沈黙も、澪には心地よかった。
「顔に風当たってるー」
澪がタオルを抱えたまま、眉をしかめる。
「じゃあ自分でやれ」
すぐさま九条はドライヤーを止めようとする。
「やだ。だって今、甘えん坊モードなんだもん」
ぴったりと背中に寄りかかってくる澪に、九条はため息をつく。
「……やっぱり子供じゃないか」
「違います。好きな人に甘えてるだけです」
即答。
その言い切り方があまりに真っ直ぐで、九条はしばらく何も言えなかった。
「……風、もう少し強くする」
「ん、うん」
結局、顔に当たる風には我慢しながらも、澪は満足そうに目を閉じる。
目を細めながら風に耐えていた澪の耳元に、ふいに……くすぐったい感覚が触れる。
――ぴくっ。
指先。いや、違う。
九条の、指の腹が、耳たぶの付け根をそっとなぞっていた。
「……っ、な、なに?」
「乾かしてる」
絶対違う。
髪を持ち上げる指が、そのまま耳の裏を撫でる。風と一緒に、温かい吐息のようなものまで当たった気がした。
「ねぇ……」
声が少し震えてしまった。
「……乾かしてるんじゃないでしょ、耳触ってる」
「耳は、顔の一部だ。乾かす必要がある」
さらっと言ってのけるその口調に、どこか熱っぽさが滲んでいた。
「……こっちは、ただでさえスチームルームでぽかぽかしてきたのに……」
「それは都合がいい」
唐突に、耳の先に唇が触れた。吸われた、と思った瞬間にはもう、九条の指が髪に戻っている。
「っっ……! ちょ……!」
「可愛い声、ありがとう。今のは完全にサービス」
「サービスじゃなくて反則だってば……!」
「お前が“好きな人に甘えてるだけです”なんて言うからだ」
息を呑んだ澪は、もう反論どころではなかった。
耳の先から、喉の奥まで、じわじわと熱が降りていく――
ドライヤーのスイッチが切られる。
熱風が止まり、澪の髪に残っていたわずかな湿気も、指の余熱で自然に消えていく。
「……終わりだ」
九条の指が最後に、ふわっと髪を梳いた。
その優しい仕上げに、また胸がくすぐったくなる。
「……ありがと」
「礼はいい。……夜はどうする?」
「っ……!」
唐突な言葉に、澪の身体がぴくっと跳ねた。
「ど、どうするって……!」
反射的に振り返ると、九条は無表情のまま澪を見ていた。
「何を食べたいか聞いてる。変なこと考えるな」
「……っ、い、今の絶対わかってて言った!」
わなわなと唇を震わせる澪を見て、九条の口角が――ほんの、ほんの少しだけ上がった。
「想像したのはお前の方だろ」
「うぅ……っ、そっちが誤解させるような言い方するから……!」
「じゃあやめておくか。夜は、抜きで」
「やっ、やめないでっ!? ……じゃなくてっ、そっちの“夜ご飯”の話なら! ちゃんと! 聞くからっ!」
ディナー選び
「夜もルームサービス? レストラン行く?」
バスローブから着替えた澪が、ドライヤーでふんわり仕上がった髪を梳かしながら聞く。
「レストランだと、ゴードン・ラムジーの食事が食べられる」
「……誰?」
九条が一瞬だけ止まる。
「……イギリスの有名な料理人だ。テレビ番組もやってる。ミシュラン星付き」
「ぶっちゃけ、ミシュランの星つきって……美味しいの?」
ソファに体を預けながら、澪が素直な疑問をぶつける。
「……好みにもよる。万人が“美味しい”と感じるかと言われれば、人によるとしか言えない」
「そんな感じ?」
「味覚は千差万別だからな。評価基準はあっても、感想は主観だ。……で、行くか? レストラン」
「うーん、服考えるのめんどくさい」
「……ルームサービスでいいな」
九条は少しだけ考えて、iPadを手に取る。
「なら部屋で食べよう。今日のメニューは……牛フィレ、オマール、リゾットにトリュフか。豪華なルームサービスだ」
「…オマール?ロブスター?」
「そうだ」
「やった」
少しだけ機嫌を取り戻して、澪が笑う。
「じゃあ、ルームサービスにしようか」
澪がそう言うと、九条は頷いた後、ちらりと視線を落とす。
「……いいが」
「ん?」
「ルームサービスにするなら、バスローブでスタッフに会うのはやめてくれ」
「……えっ、そこ!?」
「そこだ」
「いや、でも部屋に持ってくるだけじゃん!私、隠れてベッドの上にいれば……」
「俺の精神衛生の問題だ」
九条は真面目な顔で言い放った。
「……めんどくさい彼氏だなぁ」
澪がくすくすと笑うと、九条は重たいため息をついた。
「頼むから、せめて下着だけは……」
「えー、やだ。いま超くつろいでるのに~」
「……せめて俺に見えない位置でくつろいでくれ」
「それもやだ」
「お前、ほんとに……」
口調は呆れているけど、視線はずっと彼女に向けられている。
「パンツは履いてるよ?」
悪びれもせず、澪がさらっと言う。
九条の眉がぴくりと動いた。
「……それも履いてなかったら大問題だ」
「えっ、そこまで言う?」
「当然だ。今の格好で何も身に付けてなかったら――」
彼の視線が一瞬、澪の脚のラインをなぞって、すぐに逸れた。
「――俺が冷静でいられる保証はない」
ぽつりと落とされたその一言に、澪の顔がじんわりと赤くなる。
「……それはつまり……」
「そういうことだ。自覚しろ、少しは」
澪はバスローブの前をきゅっと握りながら、でもにやにやが止まらない。
「……えへへ……」
「人の気も知らないでにやけるな」
澪は、バスローブの襟を指先でつまんだまま、にやにやしていた口元を慌てて引き締める。
「…ごめん、だって嬉しかったんだもん」
「嬉しいなら着替えろ。俺の理性を試すな」
九条は視線を逸らしたまま、手元のグラスの水を口に運ぶ。
「……でも、怒ってないでしょ?」
澪の声に、彼はほんのわずかに肩をすくめた。
「怒ってない。呆れてるだけだ」
「ふふ……やっぱ好きなんだ」
「……」
「もー、顔に出てるよ?そういうの下手なんだから」
「黙れ。とっとと服を着ろ。次に笑ったら、そのままベッドに押し倒す」
「えっ、それ脅し?ご褒美?」
九条のグラスがコトンと静かにテーブルに置かれた。
「……10秒以内に着替えないと行動する」
「…ノーブラだめ?」
「食事抜きになってもいいのか?」
「それは駄目!雅臣さんも食べないと駄目!」
「ルームサービスは24時間やってる」
「変な時間に食べるのは駄目!ってかお腹空いたし!」
「お前はジムを使ってないんじゃなかったか?」
「……うん。でも、何もしなくてもお腹は減るよ?」
「…」
10秒ギリギリでバスローブを脱いで、ノーブラのままトレーナーをかぶり、腰回りがゴムのズボンに着替えた澪は、すっかり“くつろぎモード”。
ソファの上にうつ伏せで寝転びながら、iPadのルームサービスメニューをスクロールしては、「あれもいいな、これも美味しそう」と、目がきらきらしている。
「全部美味しそうー!お肉食べたい!ロブスターも!」
「食べ切れるのか?」
九条はソファに腰掛けながら、横目でその姿を見やる。薄手のトレーナーがふわりと背中の肌に沿っていて、ノーブラであることがバレバレなのを、わかっていて黙っている。いや、黙ってるというより、色々耐えてる。
「雅臣さんが頑張ってくれるでしょ?」
無邪気に笑う顔。きっと“食べるの手伝って”って意味なんだろうが──
「……お前も、食後に頑張らせる」
「なんか今の言い方えろい!セクハラっぽい!」
「人聞きとイメージが悪い」
「えええ〜!やだ〜!絶対わかってて言ったでしょ〜!」
「顔が喜んでる」
「あ、バレた?」
言いながらも、九条の口元が少しだけ綻んでる。あきらかに楽しんでる。ずるい大人の余裕。
「え、待って。デザートにムースとかフルーツタルトもあるじゃん…えっ、アマルフィレモンのシトラスケーキ?なにそれ、絶対美味しいやつ……!」
ベッドの上で身を起こして、iPadのメニューをスクロールしながら澪が目を輝かせる。
「昼にアフタヌーンティーであれだけ食べて、よく食べられるな」
「いやあれは“昼”でしょ。今は“夜”。デザートは別腹。…太ってるって言いたい?」
「……言ってない。『太るぞ』とは警告してる」
ぴしっと真顔で言う九条に、澪がむすっと頬を膨らませる。
「私が太ったら、捨てるの?」
「……誰がそんなことを言った」
「じゃあいいじゃん。食べるもん。ムースとタルトと……ゼリーも」
「どれだけ頼むつもりだ。胃はひとつしかない」
「じゃあ一口ずつシェアする。雅臣さんも一緒に食べれば無問題!」
「お前の“シェア”は、八割方自分で食べてから一口くれるだけだろ」
「ううん、ちゃんと最初から取り分けてあげる」
「……それを信じるかどうかは、到着してから判断する。食事を食べ切れたら、デザートを頼んで良い」
「なにその子供みたいなルール!」
思わず口をとがらせた澪に、九条はごく自然に返す。
「子供みたいな態度を取ってるのは、誰だ?」
「甘えてるだけですー。好きな人の前でくらい、素直になってもいいでしょ?」
「素直なのはいいが、メインディッシュ前にデザートを選ぶな」
「うっ……それは、あの……魅力に負けた……」
「ルールはルールだ。全部食べ切ったら、好きなだけ頼め」
澪が「くっそ〜」と笑いながら、メニューの“デザート”欄にブックマークを付ける。
「……ちなみに、もし食べ切れなかったら?」
「俺が引き受ける。だがデザートは無しだ」
「えー!お肉もロブスターも頑張るから、せめて一品だけ……」
「交渉するな。これは試合だ」
「えー厳しい」
「普通だ」
ソファに寝転がってむくれる澪に対して、九条はピシャリと言い聞かせた。
豪華なディナー
料理が届いて、テーブルに一品ずつ並べられていく。
ロブスター・テルミドールの香ばしいチーズ、カットされたビーフ・ウェリントンの断面の美しさ。まるで美術品のような皿たち。
澪が歓声を上げている横で、九条は黙々とナイフとフォークを構える。
「……あれ?九条さん、もしかしてガチ食い?」
「当たり前だ。中途半端に食べたらコンディションに響く」
「え、ルームサービスでも栄養バランス気にしてるの?」
「最低限は。……それにこれは、お前と食べる“夕食”だからな。俺も腹を空かせておいた」
そう言って、ロブスターを口に運ぶ動きもどこか静かで、だが、確実に“しっかり食べている”。
「……うれしい」
「何が」
「そうやって、ちゃんと私と一緒に食べてくれるとこ。なんか、同じ時間をちゃんと共有してるって感じがする」
「……それが普通だ」
「その普通が、すごく幸せだよ」
テーブルに並んだ料理の中でも、ひときわ目を引くのは大皿のサラダだった。
グリルした野菜、ナッツ、チーズ、彩りの良いリーフ類――たっぷり山盛り。まるで2〜3人分はあろうかという量。
「……サラダ、多くない?」
「普段、野菜1キロ食べる」
「すごっ!ウサギなの?ラマ?それとも何?」
「アスリートだ」
即答されて、澪は口を尖らせる。
「いや知ってるけどさ……1キロって、鍋いっぱい分くらいあるでしょ?それ、全部?毎日?」
「コンディションによるが、基本はそのくらい。調整期はもっと多い」
「もしかして、胃袋強い…?」
「当然だろ」
サラダをシャクシャク噛みながら、九条は当然のように言い放つ。
澪は、自分もちゃんと野菜を食べているつもりだったけど、次元が違ったらしい。
「私も、いっぱい食べてるつもりだったのに……」
「お前のは“おいしく食べられる”量。俺のは“身体を作る”量だ」
「うわ、急に現実的……でもそういうところが雅臣さんだよね。ちゃんと理由がある」
少し尊敬混じりに呟く澪を見て、九条はほんの少しだけ口元を緩めた。
「1キロって……生野菜?」
驚いたように聞く澪に、九条はドレッシングもかけずにそのままサラダを噛みながら、無言で頷いた。
「よく入るねー……。私、500グラムくらいで『もう満腹です』ってなるのに……」
「お前はうさぎじゃない。どちらかというと、よく食べる猫だ」
「猫?それ褒めてる?」
「気まぐれだが、甘えてくる。邪魔されても憎めない」
「それ褒めてる!」
嬉しそうにサラダをもしゃもしゃ食べる澪。
「でも……さすがに1キロは真似できないなぁ。胃がびっくりする」
「鍛えれば入る」
「お腹の筋トレってこと?」
「違う。食べ方と内容の問題だ」
九条はすでに2皿目のサラダに手を伸ばしている。
「えっ、もう次?早くない?」
「お前が喋ってる間に食べてるだけだ」
「……はい、ごめんなさい黙って食べます」
無事完食
食後の皿が空になったタイミングで、澪がこっそりとお皿を覗き込む。
「……なんだかんだ全部食べたね」
「足りなければ、追加もある」
「いや、メインは……いい。てかさ……」
澪がそろりと九条の視線を盗み見る。
「……デザート頼んでもいい?」
九条はナプキンをたたみながら、わざとらしく少しだけ間を置いて――
「許可する」
その一言に、ぱっと澪の顔が綻ぶ。
「やったー!」
素直すぎる喜び方に、九条は少しだけ目を細めて、
「子供みたいに嬉しそうだな」
「子供扱いしてるの、雅臣さんじゃん」
「お前がそれを受け入れてる」
「……まぁ、雅臣さんの前だけなら、甘えてもいいかなって」
澪はタブレットのメニューを指でスワイプしながら、顔をきらきら輝かせている。
「どれにしよー……ムースもいいし、タルトも捨てがたい……あ、これも可愛い……」
まるで宝石でも選んでいるかのような目で、ページをめくるたびに表情が緩む。
「雅臣さんも食べる?」
そう聞きながら、ちらりと九条の方を見上げる。
「今日はもう甘いものはいい」
九条は椅子の背もたれに背を預け、食後の温かい紅茶を口に運んでいた。
「えー、私だけ悪いなぁ〜」
口ではそう言いながら、目元はにっこにこ。反省する気はゼロ。
「そう言いながら、どれにするかもう決まってる顔だ」
「うん、パッションフルーツのムースにする。ブラックベリーのソースも美味しそうだったし」
「……少しは遠慮しろ」
「してるでしょ。ひとつに絞ったもん」
宝石よりも
デザートを平らげたあと、澪は嬉しそうに背もたれに寄りかかって、紅茶のカップを手にした。テーブルの向こう側では九条も、同じく静かにティーカップを傾けている。
窓の外、テムズ川の夜景が滲むガラスに、揺れる灯りと二人分の影が映る。
「……お前は宝石より、こっちの方が喜びそうだな」
ふと九条が、紅茶越しにそんなことを言った。
澪はカップの縁から顔を上げ、目を丸くしてから、ふふっと笑う。
「だって宝石は綺麗だけど、食べられないもん」
「それが基準なのか」
呆れたように言いながら、でも九条の声は、少しだけ笑っていた。
「じゃあ……スコーン型の宝石でも贈るか?」
「え、それめっちゃダサくない?」
即答した澪に、九条がわずかに眉をひそめる。
「テニスしてるからって純金でできたラケット贈られても嬉しくないでしょ?」
「……重い上に、耐久性に欠ける」
「そういうこと。実用性って大事なんだよ」
「……じゃあ、次にお前が喜ぶプレゼントは、冷凍スコーンの詰め合わせか?」
「それは……うん。ちょっと嬉しいかも」
本気で答える澪に、九条は呆れを通り越して紅茶をひと口すするしかなかった。
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