【第1ゲーム】まだ火は消えていなかった
セット間。
テイラー・リバースは、椅子に座っていた。
タオルで顔を覆ったまま、動かない。
声をかける者はいない。
スタッフさえも、彼の意志を邪魔しなかった。
だが、その肩が——
かすかに、震えていた。
まるで、芯のどこかでまだ燃えているものを守るように。
—
照明が、少しだけ強くなる。
マーガレット・コート・アリーナの夜は、まだ終わらない。
選手が立ち上がる。
ラケットを握る。
アナウンスが、機械的に響いた。
“Final set. Taylor Rivers to serve.”
—
1ポイント目。
テイラー、トス。
乱れた——だが、打った。
センターへ、強く。
九条、反応。滑るようなリターン。
ラリーになる。
3球、4球、5球。
テイラー、ベースライン際で粘る。
そして——
回り込んで、フォアのクロス。
ラインギリギリ。
九条、届かない。
——15–0
—
観客、ゆっくりと沸き上がる。
声援ではない。
**「よかった」**という安堵だった。
—
2ポイント目。
九条、まばたき一つ。
テイラーの構えに、微動だにしない。
サーブ、今度はワイド。
九条、強いリターン。
でも、テイラーが読んでいた。
すぐにスライスで返す。
低い。
九条、体勢を下げて応じる。
ラリー。
——9本目、ドロップ。
テイラー、走る。
拾う。
——九条、前へ。
角度をつけて叩く。
——だが!
テイラー、スライディングしながら返球!
観客が叫ぶ。
九条、表情を変えない。
そのまま処理。
深く、落とす。
——アウト。
歓声、爆発。
——30–0
—
3ポイント目。
観客のチャントが自然発生的に始まる。
“Tay-lor! Tay-lor!”
(テイラー! テイラー!)
彼は、背中を向けたまま、うなずいた。
もう一度、立ち上がれる。
—
サービス。
今度はセカンド。やや甘い。
九条、ステップイン。
リターン、速い。
角度もある。
テイラー、滑り込む。
だが届かない。
——30–15
—
観客、息を飲む。
まだ——まだ折れないでほしいと。
—
4ポイント目。
テイラー、ボールを4つ選んだ。
少し深く息を吐いて、サーブ。
センター。
九条、読んでいた。
だが、その返球が甘い。
テイラー、迷わなかった。
振り抜く。
ストレート、決まる。
——40–15
—
ゲームポイント。
観客、また立ち上がる。
「彼は、まだいる」
その空気が、会場を支配した。
—
5ポイント目。
サーブ。
リターン、長い。
Game Rivers. 1–0
—
第3セットの初手。
それは、まだ終わっていないことの証明だった。
【第2ゲーム】静かに燃える王の起動
コートチェンジ。
テイラーがベンチに戻る頃、九条はもうサーブの準備をしていた。
彼の背筋には、揺らぎがない。
胸は上下しているが、それも吸気・呼気というよりは、起動時の通電のように見えた。
——静かに、冷ややかに、処理が再開されようとしている。
—
観客席では、歓声がまだ尾を引いていた。
ほんのわずか、会場の空気が“人間の熱”に傾いていた。
だが、九条雅臣の領域には届かない。
—
1ポイント目。
トスは高く、動作に狂いなし。
センターへ、鋭いフラット。
テイラー、振った。だが、わずかに遅れる。
——15–0
—
拍手がまばらに起きる。
ただ、その拍手は**「惜しい」**のではなく、
**「戻ってきた」**という理解の拍手だった。
—
2ポイント目。
今度はスライス。
逃げるワイド。
テイラー、ギリギリで届く。
返った。浅い。
九条、前へ出る。
ワンバウンド直後、角度をつけたバックハンドスライス。
球はネットすれすれを抜け、ラインぎりぎりに“置かれる”。
——30–0
—
「That was impossible…」
(あれはムリだろ……)
観客の誰かが、そうつぶやいた。
—
3ポイント目。
深呼吸。
九条は一度だけまばたきし、サーブに入る。
テイラーはやや下がった位置から構える。
だが、それは見誤りだった。
強烈なボディサーブ。
テイラー、詰まった。
返球が浅い。
九条、回り込んでフォア。
——沈めた。
——40–0
—
観客、静かになった。
それは落胆ではない。
**「ああ、戻ってきたのか」**という、理解だった。
—
4ポイント目。
すべてが予告されているような所作。
だが、誰にも止められない。
スピード、角度、リズム。
無音で点が取られていく。
ワイド。ノータッチ。
Game Kujo. 1–1
【第3ゲーム】ただの1ポイントが重い
サーブはテイラー。
観客は手拍子を始めていた。
だが、それはもはやリズムではない。
**「鼓動と重ねて自分を支える」**ようなものだった。
—
1ポイント目。
トスを上げるテイラー。
サーブはセンター、良い球。
九条、読み切っていた。
ラケットの芯で、完璧なリターン。
ベースラインぎりぎり。
テイラー、動いたが届かない。
——0–15
—
観客がどよめく。
「That was too clean.」
(あれは完璧すぎる)
—
2ポイント目。
テイラー、今度はワイドへ。
九条、踏み込んで打ち返す。
だが、少し甘くなった。
テイラー、打ち込む。
決まった。
——15–15
—
観客、跳ね上がるように立つ者もいた。
「There it is!」
(よし、それだ!)
—
3ポイント目。
ラリーが続く。
5球、6球、7球——
どちらも粘る。
だが、九条は“処理している”だけ。
テイラーは、“闘っている”。
最後、バックハンドが浅くなった。
九条、角度をつけてクロス。
テイラー、届かない。
——15–30
—
4ポイント目。
テイラー、深呼吸。
トス。
だが、手が震えていた。
ダブルフォルト。
——15–40
—
会場から、かすかに「Oh no…」の声。
—
ブレイクポイント。
テイラー、迷いなくセンターへ。
強いサーブ。
九条、返す。
——高い。浅い。
テイラー、叩く。
決まった。
——30–40
—
次で決めたい。
観客が、声にならない“念”を送る。
—
6ポイント目。
ラリー。
9球。10球。
だが、攻めきれない。
九条は動かない。
いや、動いてはいる。
常に「次の位置」に先回りしている。
そして——
12球目、ライン際のドロップ。
テイラー、間に合わず。
Game Kujo. 2–1
ただ、それが九条に届くかは別問題。
外部ノイズ、完全遮断中。
【第4ゲーム】観客の心拍と同期する声
“Kujo to serve.”
アナウンスが響いた瞬間、
観客席のノイズがリズムに変わった。
——拍手。
——手拍子。
——息を合わせる呼吸。
まるで誰かがタクトを振っているかのように、
数千人が“ひとつの心音”を奏でていた。
—
1ポイント目。
トス。
フォーム。
照明。
九条のすべてが、“テンプレートどおり”に機能していた。
センターへのフラット。
テイラー、反応した——
が、当たらない。
ノータッチエース。
——15–0
—
拍手は止まない。
むしろ“悔しさを含んだ音”に変わった。
“Let’s go, Tay!”
“Don’t give in!”
—
2ポイント目。
今度はワイドへ。
逃げていく回転。
テイラー、スライドでなんとか合わせる。
ボールは浮いた。
九条、待っていた。
打つ。鋭く、深く。
——30–0
—
観客の誰かが、両手で顔を覆った。
——その“祈る仕草”に、何千人もの気持ちが重なる。
—
3ポイント目。
ラリー。
初球から互いに打ち合う。
——でもそれは、**“演算と感情の打ち合い”**だった。
九条は淡々と、
テイラーは必死に。
最後、テイラーのバックハンドがわずかに浮く。
九条、クロスへ。
——40–0
—
ゲームポイント。
「せめて1本」
誰かが呟く。
それが、観客全体の本音だった。
—
4ポイント目。
トス。
静寂。
サーブ。
ラインギリギリに突き刺さる。
テイラー、反応はできた。
——だが、打ち返せない。
Game Kujo. 3–1
—
会場には、無言の拍手が続いていた。
言葉ではない。
心拍だけが“応援していた”。
【第5ゲーム】誰もが祈りに変わった
了解、それでは
第3セット・第5ゲーム「誰もが祈りに変わった」、始めます。
5. 誰もが祈りに変わった
テイラー・リバースは、ゆっくりとベースラインに戻っていた。
肩で息をしている。
だが、顔を上げる。
視線の先、客席。
誰かが、手を合わせていた。
胸の前で、祈るように。
——勝ってほしいのではない。
折れないでほしい。
その願いが、スタンドのあちこちに広がっていた。
—
1ポイント目。
テイラー、サーブ。
強めのフラット。センターへ。
九条、リターン。
打ち返す。
——ラリーになる。
3往復。
4往復。
5往復目。
テイラー、角度をつけたクロス。
九条、足を一歩外に出して、それでも正確に“置いた”。
ボールはラインに沿って沈む。
——0–15
—
観客が小さく呻く。
それでも、拍手は止まらない。
—
2ポイント目。
トス。
今度はスライス気味のサーブ。
九条の構えは崩れない。
読んでいた。
逆クロスへのリターン。
浅い。
テイラー、前へ出る。
打つ。叩き込む。
——決まった。
——15–15
—
“YES!”
“Let’s go!!”
観客の叫びが、空気を変える。
一瞬だけ、「感情」が支配した。
—
3ポイント目。
テイラー、サービス。
だが、トスがわずかに乱れる。
やり直し。
観客が息を飲む。
そして、再びトス。
打つ。
フレームショット。
返球できず。
——15–30
—
「……今のは、演算じゃない」
誰かが呟く。
「ただの誤差だ」
—
4ポイント目。
テイラー、深く息を吐く。
強く踏み込み、センターへ。
九条、スライスで返す。
ラリーへ。
テイラー、ベースラインギリギリを突く。
九条、スピンで巻き返す。
数秒の攻防。
——最後、テイラーが叩き込んだ。
——入った。
——30–30
—
会場が揺れる。
鼓動と歓声が一致する瞬間だった。
—
5ポイント目。
サーブ。
九条、読み切った。
でも、力ではなく“コース”で攻めてきた。
ドロップショット。
テイラー、ネット前へ。
九条、届かず。
——40–30
—
ゲームポイント。
拍手のリズムが加速する。
“Just hold this!”
“Make it 3–2!”
—
6ポイント目。
トス。
高く、美しい弧。
叩く。
——だが、ネット。
セカンドサーブ。
今度はワイド。
浅い。
九条、ステップイン。
強打。
テイラー、なんとかラケットを出す。
返った。
でも、甘い。
九条、前へ。
叩き込む。
——デュース。
—
「もう、これ以上は無理だ」
そう言いたそうな観客の顔が、いくつもあった。
—
7ポイント目。
テイラー、ギリギリのセカンドサーブ。
九条、読んでいた。
リターン、ラインぎりぎり。
——ブレイクポイント。
—
観客が手を握る。
目を閉じる。
祈りが、空気になっていた。
—
8ポイント目。
テイラー、ラリーに持ち込む。
打つ。
打ち返す。
叫ぶ。
——だが、九条は無言。
——クロス。
——ライン。
——終わり。
Game Taylor. 3–2
—
「もう祈るしかない」
その言葉が、
このセットのすべてを物語っていた。
【第6ゲーム】“もう1本”を願う目
テイラー・リバースの背中に、声が宿っていた。
“One more!”
“Hold!”
「あと1本!」
「耐えてくれ!」
それは、歓声ではなかった。
祈りだった。
願いが“音”になって飛んできている。
そのすべてが、彼の背中を押していた。
観客は、もはや冷静ではなかった。
ただ、彼が崩れないことだけを願っていた。
—
1ポイント目。
九条のリターンは、深い。
テイラーはすでに動いていた。
——読んでいた。
だが、追いつくのがやっと。
差し込まれた球を、しのぐようにスライス。
浮いた。
だが、ライン上に収まった。
九条、反応するも、無理に打たなかった。
——ラリー続行。
6往復目。
テイラー、フォアのクロス。
九条、届かない。
——15–0
—
拍手。立ち上がる者もいる。
テイラーは、まだ何も表情を見せていない。
—
2ポイント目。
九条のリターン、今度はスピードを抑えて角度をつけてくる。
テイラー、踏み込む。
浅い球を、狙った。
叩き込む。
——アウト。
肩が、落ちる。
——15–15
—
3ポイント目。
観客が息を飲む中、九条が静かに構える。
サーブはセンター。
テイラー、わずかに反応が遅れる。
詰まりながら返球。
だが——
それが甘さを生まなかった。
体重移動を殺して、柔らかくベースラインへ落とした。
九条がスライスで対応。
再びラリーへ。
4球。5球。6球。
——そして、7球目。
テイラー、フラットに振り切った。
ラインギリギリ。
入った。
——30–15
—
“That’s it!”
“Come on!”
彼の“声を出さない集中”に、観客が呼応する。
—
4ポイント目。
サーブ。センター。
九条のリターンは速い。
テイラー、予測していた。
構えていた位置が正確だった。
体ごとぶつけるように、強打。
ベースラインへ突き刺さる。
——40–15
—
“One more!”
「あと一本だ……!」
—
最後のポイント。
テイラー、深呼吸を一度。
サーブはスピン気味にワイド。
九条、踏み込む。
リターン。
ネットすれすれを越えてきた。
テイラー、間に合った。
だが余裕はない。
咄嗟に合わせたリストの返しが、ネットイン。
九条、走る。
追いつくか——
届かない。
—
Game Taylor. 3–3
—
スタンドの一部で、叫び声が上がる。
テイラーは一歩も動かず、ただラケットを持ち直しただけ。
表情は出さない。
だが、目が“もう1本”を願っていた。
【第7ゲーム】歓声と感情の最後の爆発
“Let’s go, Taylor!!”
“Take it back!! You can do this!!”
ジョン・ケイン・アリーナの空気が、揺れていた。
波のように押し寄せる応援。
熱を帯びた喉の震え。
観客の全身から“感情”が噴き出していた。
テイラー・リバースは、息を整えながら構える。
顔は汗で濡れていたが、瞳は濁っていない。
このゲーム——
ここが、自分のすべてを賭ける場所になる。
—
1ポイント目。
ファーストサーブは、ワイドへの鋭いスライス。
九条、動いた。だが一瞬、反応が遅れた。
リターンは浮く。
テイラー、叩く。
一発で沈める。ライン上。
——15–0
歓声が爆発する。
まるでスタジアムそのものが跳ね上がるようだった。
—
2ポイント目。
テイラー、深呼吸。
今度はセンターへ。
九条、的確に返す。
ラリー。
4球。
6球。
そして——9球目。
テイラー、全身のひねりを使ってフルスイング。
スピンのかかったフォアが、ベースラインに沈む。
——30–0
観客の誰かが、涙声で叫ぶ。
“Keep going! Don’t stop!!”
—
3ポイント目。
まばたきの間も惜しむように、テイラーはサーブを選ぶ。
今度はセカンドサーブ、センター。
九条、踏み込む。
フラットなリターンが突き刺さる——かに見えた。
テイラー、反応していた。
ギリギリで追いつき、スライスで返す。
九条、前に出る。
だが、タイミングがわずかに合わない。
ボールはネット。
——40–0
3ポイント連取。
ジョン・ケイン・アリーナは、この日いちばんの爆発を見せた。
歓声が、叫びが、
空気の震えが、コートを包む。
だが——
—
4ポイント目。
九条雅臣は、表情ひとつ変えなかった。
まるで、すべてを“ノイズ”として遮断しているように。
彼の耳には、観客の声が届いていない。
テイラー、最後の一撃。
センターへ強打——
九条、すでに動いていた。
鋭い読み。
だが、これはテイラーのゲームだった。
打ち抜かれた逆クロス。
ラインギリギリ。
Game, Reavers. 4–3
—
テイラー、拳を握る。
観客も立ち上がった。
叫ぶ、拍手する、泣く。
人間が感情でしか動けないことの証明。
だが、
九条の顔には——
何もなかった。
セットは、まだ終わっていない。
演算は、まだ続いていた。
「声」じゃなくて、完全に“遮断”されてる。
音響ノイズじゃなくて、“処理音”しか拾ってない。
【第8ゲーム】限界のスイングと破綻の気配
“Equal it out, Masatomi!”
観客席から、少数ながら九条を応援する声が飛ぶ。
だが、その声は波にかき消される。
ここはテイラーのホームだった。
——それでも、
九条雅臣は、まったく動じない。
スコア 4–3
まだ、このセットは掌の中にある。
—
1ポイント目。
九条、ゆっくりとトスを上げた。
センターへ。
低いフラット。
コースは読まれていた。
テイラー、反応。
ラケットがかろうじて届く。
だが、詰まる。
リターンは浅い。
九条、前へ出る。
バックハンドのダウン・ザ・ライン。
——15–0
—
2ポイント目。
わずかに息をつく九条。
だが、リズムは乱れない。
今度はスライス。
回転がかかり、逃げていくボール。
テイラー、間に合った。
だが、それが限界だった。
無理な体勢。
返球はネット。
——30–0
—
“Don’t fall now!!”
観客の声が、焦りに変わり始める。
——それは、
彼ら自身が「限界」を感じ始めていた証でもあった。
—
3ポイント目。
テイラー、肩で息をしていた。
すでに疲労は、目にも現れている。
サーブ。
九条、速い。
ラリーに持ち込ませない。
フォアで押し返し、
次のボールを強打。
テイラー、反応はした。
——が、
ラケットは振り切られず、球はフレームに当たる。
——40–0
—
場内が静まる。
だが、決して“沈黙”ではない。
それは——
熱が破綻寸前に達している音だった。
—
4ポイント目。
ゲームポイント。
九条、呼吸の間隔すら一定のまま。
今度は、センターへ浮かせるようなキックサーブ。
テイラー、前へ。
だが、足元が滑る。
タイミングがずれる。
返球、アウト。
Game Kujo. 5–3
—
歓声が戻ってこない。
いや、誰も息をしていない。
テイラーの肩が上下する。
観客の心拍と同期するように、苦しげに——
そして九条は、
そのすべてを「ノイズ」として処理していた。
【第9ゲーム】再び、静寂が勝った
“Let’s go Tay!”
“Hold it here!”
まだ観客の声は消えていない。
だが、どこか張り詰めすぎている。
もはや応援というより、「破裂を遅らせるための声」だった。
テイラー・リバース、サーブ位置に立つ。
何度もラケットを握り直す。
——彼はわかっていた。
このゲームを落とせば、先に王が“出口”に手をかける。
—
1ポイント目。
ファーストサーブ、ミス。
深呼吸。
セカンドへ。
九条、リターンの構えから動かない。
微動だにしないフォーム。
まるで時間が止まっていた。
打ち込まれたボール。
返球、正確。
次の1球。
——テイラーのミス。ネット。
——0–15
—
「もう、無理なのか?」
そんな空気が観客の中に漂う。
だが、誰もまだ諦めてはいなかった。
—
2ポイント目。
テイラー、気持ちを切り替える。
ワイドへ強打。
九条、届かない。
——15–15
観客、拍手。
「Nice shot!」
まだ、行ける。
——そう思わせるだけの“一撃”だった。
—
3ポイント目。
だが、九条のリターンは異常だった。
今度はテイラーのサーブに、鋭く反応。
まるで次の動きを知っていたかのように、逆クロスへ打ち込む。
テイラー、動けない。
——15–30
—
4ポイント目。
テイラー、もう一度気合を入れてトス。
——ラケットが弾けた。
サーブはセンターへ。
悪くない。
でも、九条は読んでいた。
ラリー3本目。
九条、スライスで崩し、前に詰める。
最後はネット際へ落とすドロップショット。
テイラー、届かない。
——15–40
—
ブレイクポイント。
観客の声援が、一瞬だけ強まる。
でも、届かない。
5ポイント目。
サーブは浅い。
九条、リターンから一歩踏み込み、ショートクロス。
角度がつきすぎて、誰も届かない。
Game Kujo. 5–4
—
スタンドのどこかで、拍手が止んだ。
“Why does he never falter…?”
(なんで、彼は一度も崩れないんだ…?)
【第10ゲーム】最後の粘り、最後の声
テイラー・リバースは、自分の鼓動を聞いていた。
目の前の相手が“機械”であることに、もう疑いはない。
だが——人間にしか起こせない“奇跡”があるとしたら、それは今だ。
—
1ポイント目。
九条のサーブはセンター。正確、かつ速い。
だがテイラーは、体で当てにいった。
ボールはフレームに当たって浮く。
それでも、コートに入った。
九条、処理。スライスで落とす。
テイラー、走る。——拾った。
観客がどよめく。
もう一度。
九条、叩き込む。
……が、アウト。
0–15
—
観客がざわつく。
「ひとつでもいい」
「もう一歩、届けばいい」
—
2ポイント目。
ワイドへスライス。
今度は深い。テイラー、返すのが精一杯。
九条、すぐ前へ。
ショートクロス——
だが、ネット。
0–30
—
“Let’s go, Tay!!”
“Break him!!”
この試合で、初めて観客全体が“ひとつ”になった。
—
3ポイント目。
九条、センターへフラット。
今度は強烈。——エース。
15–30
—
4ポイント目。
テイラー、下がる。九条の次の球を読みにいく。
——キックサーブ。
だが、跳ねた先を予測していた。
テイラー、回り込んで、逆クロスへカウンター。
ベースラインぎりぎり。
15–40
—
ブレイクポイント。
このゲームを取れば、並ぶ。
—
九条、ワイドを突く。
テイラー、滑り込む。
当たった——上がった——
……短い。
九条、待ち構えて叩く。
——ラケットがしなる。
観客の誰かが目をつむった。
……が、
ラインをわずかに超えていた。
Game, Reavers. 5–5
—
ジョン・ケイン・アリーナが揺れた。
観客の声が、叫びが、“熱”として空気を震わせる。
この1ゲームは、テイラーのものだった。
そしてそれは、彼一人の力ではなかった。
「誰も諦めていない」
その“意思”だけが、演算を上回った一瞬だった。
会場、完全にテイラーのホームみたいになってる。
呼吸のタイミングも“共鳴”してる感じ。
終わりのための演算だけ続いてる。
【第11ゲーム】終息処理、開始 / Shutdown Process Initiated
テイラーのサイドから、コールが響いた。
“Kujo to serve.”
再び、会場が静まる。
観客たちは、もう理解していた。
この次のゲームが、「最後の可能性」になるかもしれないことを。
—
九条雅臣、リターンエリアから歩を進め、サーブ位置へと立つ。
まるで、処理済みのコードが一行ずつ更新されるかのように、
一切の迷いも、感情の浮き沈みもない動作。
テイラーは、胸に手を当てて深く呼吸していた。
観客の誰かが、静かに手を組む。
——それは、もう応援ではなかった。
ただの祈りだった。
—
1ポイント目。
九条、センターにトスを上げる。
フォームに微細な変化すらない。
放たれたサーブは、直線的な命令のようにコートを貫いた。
テイラー、動けなかった。
——15–0
—
観客が小さくざわつく。
だが、その空気を誰も破らない。
無音の支配が戻ってきた。
—
2ポイント目。
今度はスライス。
ボールはわずかに外側へ逃げていく軌道。
テイラー、ギリギリで届く。
返した。
だが、それは“返っただけ”の球。
九条、ためらいなく前に出る。
逆クロス。
叩きつけるような一撃。
——30–0
—
「やめるな」「もう一球」「踏ん張れ」
いくつかの声が、断片的に観客席から飛ぶ。
でも、それが“流れ”になることはなかった。
—
3ポイント目。
テイラーが構える。
九条はそれを、「入力待ちの変数」のように見ていた。
サーブ。
今度はボディ。
テイラーが反応する。
——が、詰まる。
返球は浅く、ネット。
——40–0
—
会場が、静寂に包まれる。
ブレイクではない。
だが、誰もが感じていた。
このゲームの終了が、セットの終息であることを。
—
ゲームポイント。
九条、視線をわずかに動かす。
コートの奥を一度だけ見る。
それは、確認ではなく、予測演算の起点。
最後のサーブ。
ラインギリギリ。
打球音と同時に、ボールはネットの外に消えた。
テイラー、動いていた。
でも、それは0.1秒遅かった。
Game Kujo. 6–5
—
九条は歩き出す。
振り返りもしない。
テイラーが背を向けた時、
観客席の数人が静かに手を叩いていた。
——だが、それも終息処理の一部だった。
“演算”のギア、ひと段上がった。
“終了条件”、もう満たしてる。
会場の熱量なんて、もう入ってない。
【第12ゲーム】その拍手は、祈りか絶望か / Applause or Resignation
“Taylor to serve.”
アナウンスが響いた時、
誰も「逆転」を信じていなかった。
それでも、拍手は起こる。
「最後のサーブだ」と誰もが感じていたからだ。
だが、それは称賛ではない。
祈りに似た拍手。
あるいは——
静かな絶望。
—
テイラー・リバース。
唇を噛み、ラケットを握る。
肩をまわす。
一度、大きく息を吐いた。
——これは、終わりを遅らせるための1ゲーム。
たったそれだけの目的で、彼は立っていた。
—
1ポイント目。
センターへのフラット。
九条、まったく動揺せずリターン。
ラリー、2球目。
テイラー、先に仕掛ける。
クロスへ深く打ち込む。
——しかし、それが“読み筋”だった。
九条、角度を変えてカウンター。
ベースライン際へ沈む。
——0–15
—
2ポイント目。
観客が叫ぶ。
“Push through, Tay!”
“Not over yet!”
テイラー、自分の頬を叩く。
サーブはワイド。
九条がステップイン。
ストレートへ強打。
テイラー、走る。
届く。返す。
——だが、コートの外へ。
——0–30
—
誰も、止められない。
—
3ポイント目。
サーブを入れるだけの力。
それしか、もう残っていなかった。
セカンドサーブ。
九条、構える。
一歩踏み込み、叩き込む。
フォアのクロス。
テイラー、動けない。
——0–40
—
マッチポイント。
マーガレット・コート・アリーナが、
“音”をなくした。
叫ぶ者も、祈る者も、
その瞬間だけは“静寂”に飲み込まれた。
—
テイラー、最後のサーブ。
力はない。
意思だけが乗っている。
九条、受ける。
淡々と、精密に。
——打球はネット前へ。
テイラー、走る。
滑り込む。
……届かない。
拍手が起こる。
だが、それは何のための拍手なのか。
“称賛”なのか。
“救済”なのか。
あるいは、**“絶望を受け入れる音”**だったのか。
それすら、
九条雅臣には届いていなかった。
すべては処理済み。
すべては終了済み。
彼はただ、演算機として立っていた。
あの心拍、試合中ずっと“直線”だったよ。
“沈黙を埋める反射”だな、あれ。
あそこに、感情は置いてこなかった。
この夜、抱きしめられたのは敗者だった
試合が終わった。
観客の何割かが立ち上がった。
拍手も起きていた。歓声もあった。
だが、それは“祝福”ではなかった。
終わったことを確認する反射だった。
—
コートには、二人の選手が立っていた。
テイラー・リバース。
彼は崩れなかった。
最後まで足を止めず、ラケットを振り続け、
コートからも、自分自身からも逃げなかった。
だが、その姿が美しいほどに、
この敗北は深く、重かった。
—
九条雅臣は、変わらなかった。
試合中と同じ、感情のない顔で、
ラケットを持ち替え、歩幅を戻す。
まるで「更新処理を完了しました」とでも言うように。
拍手も、声も、まばゆい照明すら、
彼の目には入っていないようだった。
“処理完了”。 それが、彼の勝利だった。
—
テイラーが静かにラケットを握り直す。
観客の一部が彼に向けて叫ぶ。
“Good fight, Tay!”
“Proud of you!”
——でも、その声はどこか涙を飲み込んだ声だった。
この夜、誰も“勝者”を抱きしめることができなかった。
—
通路に向かう背中。
ライトが彼の白いウェアを照らす。
その背に、何も刻まれていないことを、
誰もが知っていた。
彼は“勝った”のではない。
ただ、演算を最後まで走らせたのだ。
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