澪の手元から離れた記録
モナコへの輸送完了を知らせる連絡は、予定より2日早く届いた。
添付された写真には、朝焼けの空と港の輪郭、そして静かに停泊するSunreef 50の後ろ姿。
背景には、澪が何度も資料で見てきた港の名が記されていた。
Port Hercule.
それは、モナコの港だった。
添付ファイルに最終確認書類をお送りいたしますので、ご確認のほどお願い申し上げます。
なお、アフターサービス専用フォルダは既に共有済みとなっております。
操作面や保守面などでご不明点がございましたら、いつでもご連絡くださいませ。
この度は誠にありがとうございました。
綾瀬 澪
返信が届いたのは、その夜だった。
ファイル内容に問題なし。
サポートの件も了解。
感謝している。
彼の言葉は変わらない。
彼の温度も、きっと変わっていない。
でも、何かが終わって、何かが始まりかけている。
澪はゆっくり画面を閉じた。
そのまま手を止め、椅子の背にもたれかかる。
窓の外は、冬の夜。
静かな部屋に、ほんの少しだけ、温かさがあった。
(これで、終わり――なのかな)
そう思いながらも、なぜか、メッセージ画面を開いて見てしまう自分がいた。
そこに何かがあるわけじゃない。
でも、何かが続いてほしいという願いだけが、確かに残っていた。
案件終了のサイン
納艇完了の処理を終えたあと、澪はメッセージのピンを外さなかった。
作業フォルダはすでに共有済み。
社内の進捗表も「完了」へステータスが移動している。
にもかかわらず、メッセージのやり取りの記録はピンで固定されたままだった。
そこには、これまでのやり取りがすべて保存されている。
初期提案書、設計変更のログ、仕様確定後の図面PDF、通話の録音データ。
送受信のタイムスタンプは、どれも正確だった。
システムとしての案件は、完璧に終わっている。
だが、消去する気にもなれなかった。
“これは、もう終わったことだ”
そう自分に言い聞かせる。これ以上は、購入後のアフターサービスやメンテナンスの時以外は、何もない。
日常は、何も変わらない。
でも、しばらく動けなかった。
(もうこれ以上、何も起きない)
そう思う一方で、“このまま終わる”ことにも、どこか違和感が残っていた。
それが何なのかは、澪にも分からなかった。
ただ、ほんの少しだけ、“名残”が強く残っていた。
それだけのことだった。
何かが未完のまま残っていた
澪は、スマートフォンの通知画面を見つめていた。
特に用があったわけではない。
メールもチャットも、すでに対応済み。
未読のバッジはなかった。
ただひとつ、iMessageの履歴だけが、なぜか気になった。
彼とのやりとりは、すべてが仕事だった。
敬語、仕様、納期、確認、承認――
どこを切り取っても、感情の影などなかったはずだ。
けれど、最後のメッセージだけが、わずかに違った。
納艇、確認した。
また、サポートが必要な際は連絡する。
九条 雅臣
初めて漢字で書かれた名前は「くじょう まさおみ」と読める。
アルファベットの署名は「まさとみ」だったのに。
まさおみ、が本名なのだろうか。
名前を間違えたまま2年が過ぎていた。
それが問題になる場面はなかったけど、この時点で漢字の名前を教えてくれたのは何故なのか。
彼の警戒が、少しは解けたということなのだろうか。
尋ねる勇気はない。
私はこういう事に対して臆病だ。
でも、何故だろう。このまま、終わらせたくないと思っている自分を確かに感じる。
けれど、自分は一販売員、相手は顧客。
これ以上、何かしてはいけない。
こちらから、必要のないことで連絡してはいけない。
“返信は必要ない”
彼はそう思っているだろう。
自分も、そのつもりだった。
けれど、なにか一言でも送れば、彼は読んでくれるのだろうか?
そんな思いが、頭の片隅でちらついた。
指先は動かない。
画面は、そのまましばらく明かりを灯し続けていた。
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