4.距離の章|“不思議と、こっちの顔を映したくなる瞬間があった。”

3度目のFaceTime、明るい午後

三度目の通話は、週明けの午後に設定された。

場所は職場の会議室。カメラはオン。澪の顔は、淡い光を浴びながら画面に映っていた。

ウィンドウ越しの海は穏やかで、カモメの鳴き声がかすかにマイクに拾われた。

通話の数分前、澪は化粧室で前髪を直していた。

鏡の前で、眉間のラインをほんの少し整えた。

打ち合わせ資料の冒頭ページは既に開かれていた。

手元のトラックパッドに手を置いたまま、ほんのわずかに息を吸って、画面の通知を見つめていた。

「こんにちは。綾瀬です」

「……こんにちは」

相変わらず、九条はカメラをオフにしたままだった。

だが、音声の質は良好だった。

声に迷いがなく、間の取り方も正確だった。

まるで、顔が見えなくてもすべて伝えられるとでも言うような。

「本日は、照明プランの確認から入らせていただきますね」

「お願いします」

資料をめくる。

光量、演色性、配置。

提案スライドのひとつひとつに、九条の返答は続く。

「この照明は角度変更できますか」

「はい、フレームは稼働式です」

「……暗くする必要はないので。全体的に明るめで構いません」

そこには、特別なやり取りはなかった。

だが、通話の最後、澪はなぜか、確認した。

「――本日も、映像はご不要でしょうか?」

一瞬、沈黙があった。

「今のままで。見えていれば十分です」

「……承知しました」

通話は、静かに終了した。

その数分後、澪は画面越しに映った自分の姿をふと思い返していた。

打ち合わせ用の表情。プロの顔。

けれど、自分でも分かっていた。

前髪を直した理由に、打ち合わせの効率は関係なかった。

画面の向こうの彼には見えていなかった。

でも、なぜか「見られている」気がしていた。

それは――きっと錯覚だった。

だけど、それでもよかった。

そう思えるくらいには、彼とのやり取りに、意味が宿りはじめていた。

沈黙が、不快じゃなかった

その日も、打ち合わせはFaceTimeで始まった。

資料は事前に送信済み。PDFの差し替えと、項目別に添えた注釈だけで、打ち合わせの準備は完了していた。

澪は、カメラをオンにしたまま、画面共有に切り替える。

九条の画面は、いつも通り黒いままだった。

「先日いただいたご指示をもとに、照明と天井高のバランスを再設計しています。今日はその確認から――」

そう切り出して以降、数分は澪の声だけが続いた。

だが、ひととおり話し終えたあとの画面の向こうからは、すぐには反応がなかった。

「……」

時間にして、たぶん10秒にも満たない沈黙。

でもその沈黙が、不安を連れてくることはなかった。

九条は、考えていた。

それは、澪にも伝わっていた。

気配や空気ではなく、反応の遅さから感じられる“集中の深さ”。

やがて彼は、ごく簡潔に言った。

「天井、あと30ミリ取れるか?」

「フレームに干渉しなければ可能です。確認します」

「この照明、角度変えられるか?」

「可動式に切り替え可能です。電源との接続位置だけ、見直しが必要になります」

「……そうして」

やり取りは、それで終わった。

また沈黙が流れる。だが、それでも通話は切られなかった。

澪は、自分が持ち込んだMacBookの画面越しに、黙って彼の存在を感じていた。

見えないはずの視線が、こちらに向いている気がした。

(……切らないんだ)

それだけで、なぜか少し、安堵した。


この通話の終わりも、何もなかった。

「じゃあ、また」

それだけ。

けれど、通話終了ボタンが押されるまでは、もう少し、時間がかかっていた。

不思議だった。

あれだけ沈黙が苦手だったはずの自分が、

今はその沈黙に、なぜか守られている気がしていた。

逆説的な“近さ”

次の通話は、三月の終わりだった。

船体の最終カラーリングと、デッキ素材の確認。

澪は、先方の希望色に近い塗装事例をいくつか並べたスライドを用意していた。

「このあたりが、最後の候補です。あとは、光の加減で若干印象が変わりますが――」

九条は、何も言わなかった。

いや、正確には、止めなかった。

資料をめくる澪の手元に、相変わらず画面越しの返答はない。

だけど、切られなかった。

この“会わない”関係は、ある意味で心地よかった。

顔も知らない。会ったこともない。

でも、たしかに“会話”はしている。

言葉が交わされなくても、やり取りは続いていた。

会わずにここまで詰められるのは、もしかすると彼だからではなく、澪が澪だからかもしれなかった。

澪は画面の中の自分の表情を、ふと確認する癖がついていた。

喋っていないとき、自分がどんな顔をしているか。

笑っていない。でも、怒ってもいない。

その無表情な自分を、鏡のように見つめ返す九条の沈黙。

言葉が減るたびに、なぜか“近さ”が増していくような錯覚があった。

「変更があれば、また」

最後に九条がそれだけ言って、通話は終わった。

短くて、正確で、そして――どこか穏やかだった。

澪は画面を閉じながら、心のどこかで、

「また同じ時間に、またこの通話があるのかもしれない」

と思った。

会っていないのに、

この人のことを少しずつ“知っている”ような気がする。

そう思ってしまったのは、澪にとって――

初めての感覚だった。

着信履歴だけが残る関係

FaceTimeの通話が終わると、澪の画面に「終了しました」の文字が浮かぶ。

通信は途切れ、澪の顔だけが残ったウィンドウは、ただの鏡みたいに沈黙したままだった。

MacBookを閉じると、そこに残ったのは、“着信履歴”という名の記録だけ。

名前も、顔も、実態も曖昧なやり取り。

だが、そこには確かに一つずつ、“存在の痕跡”が積み上がっていた。

10分後、彼からメールが届いた。

件名は「カラーサンプル確認済」

本文はいつも通りの簡潔な内容だったが、添付されたPDFの最後のページにだけ――小さく、こう記されていた。

お疲れ様

それは、定型句にすぎなかったかもしれない。

けれど、彼がこれまで一度も使ってこなかった言葉だった。

澪は画面を閉じると、ふと、頬がゆるんでいる自分に気づいた。

嬉しいとか、そういうものではない。

ただ、仕事の中に少しだけ“人間”が混ざったような、そんな一瞬。

“距離”は変わらない。

でも、“温度”だけは、少しだけ変わった。

それでも、次の通話までに話題が増えることはない。

互いに余計なことは言わず、画面を共有し、目的の確認だけを済ませる。

だが澪のMacBookと、iMacには、履歴とファイルだけが増えていった

それが、ふたりの関係だった。


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URB製作室

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